以前、自己開示について書いた。
その時には、好ましくない自己開示になる原因は、量的なもののみと考えている部分があった。
しかし、質的な要素も重要であることに気づいた。
気づきのきっかけは以下の文章より。
教師は作家と違って自分の一挙手一投足が教育的に有意味かを自問自答せねばならないからである。ところが自分の自己開示が教育的に有意味かどうかの判断を誤ると、単なるカタルシス、告白、自慢話に終わってしまう。そこで自分の個人体験のなかには生徒との間に共通するものーユニバーサルなものーがあるかどうかを考えねばならない。ロジャーズの表現を借用すれば To be personal is to be universal でなければ有意味といえない。
– 学校カウンセリングの基本問題、國分康孝、誠信書房、1987年、p.177
結論としては、その自己開示、表現が、他人(聞き手、受け手)の役に立つか否かということが問題になる。
もちろんカウンセラーがクライアントの話を業として聞く場合などには、そのように聞き手側としての損得は原則として関係なくなる。
しかし、日常の社交会話や教育の場などで、大抵の人は、他人の苦労話やら、危機を乗り越えた話、自己実現体験や、半ば自慢話や視野の狭い社会化物語につき合わされるのは迷惑である。
その話の中に、何かしら自分の現在や未来に役に立つ要素が「わかりやすく」見出せないとストレスを感じる。
國分氏に、また教えてもらった。
しかも二十数年前に書かれた本という。
2011-03-25 08:00
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