話を聞く、聞かない、を真摯に考え抜く(後編)

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昨日のエントリ(話を聞く、聞かない、を真摯に考え抜く(前編) | deathhacks)では、被災地のメンタルヘルスをサポートする上で感情や話をあまり深く聞かない、という考えだけでは足りないのではないかということを書いた。

シンプルに分けて、被支援者は「話したい」と「話したくない(話せない)」のどちらかと考えてみる。
また、支援側が選べるツールは「話を聞く」か「話を聞かない」のどちらかだ。

組み合わせで場合分けをして考えてみると以下のようになる。
合わせて対処や注意点まで考えている。

「話したい」人の「話を聞く」のは求めるものと対応が合致しているから概ね問題ない。
このとき、惨事体験に含まれる自責や「恥」のような感情につながるテーマや「秘密」に関する内容では、他所の支援者に話したという事実に、後から怖くなったり別の形での罪の意識が生じることがあることに注意して情報提供やコントロールをする必要がある。
ただし、相手が他所者であるとか、また会う可能性がないとか、ずっと先だという条件でならば、話を聞いてもらいたいというニーズもあるので、遠慮しすぎてはいけない。

「話したい」に対して「話を聞かない」という対応は、情報が少なかったり、場のコントロールに自信がないのならばしかたない。
それでも、「あなたはこの場で私にあまり深い話をしない方がよいです。これは色々な研究や過去の事例で言われていることなんです」と伝えるのは良くない。
これは、一見被支援者のためを思って言っているようだが、支援側の事情や都合を別のところに押し付けているとも言える。
話を聞くことができないのならば、「聞けません。ごめんなさい」と謝るか、もっとしっかりとした説明をするかのどちらかでなくては、かえって失礼だったり失望させたりすることになる。

「話したくない」のに「話を聞く」ということにメリットはあるだろうか。
最小限の情報提供や、今後の支援の継続や見通しを伝えるくらいならばリスクは少ない。
惨事そのものではなく、今現在の体調や生活に関する困ったことや悩みというテーマならばあるいは支援につながる可能性はある。
これもあくまで、狙って情報を取るというよりは、被支援者の意思を最大限尊重しながらというのが原則だが。

最後に「話したくない」被支援者に対して「話を聞かない」というのはどう評価できるだろうか。
数十分や1時間、一緒に沈黙して「寄り添っていました」というようなことが効果的な支援になるという可能性は否定できない。
しかし、そういった状況を予想したのならば、会話や言葉を使わない、ノンバーバルなツールを準備するべきだろう。
散歩やリラクゼーションのようなツール、呼吸法やタッピングタッチなど、持ち帰ってセルフで、あるいは被支援者の仲間や家族同士で使っていけるようなものはいくつかある。

結論として、惨事にあった人たちを支援しようというときに、「私はカウンセラーなので話をとにかく聞きます」とか「特別な技術や資格はないのだけれど娯楽や気分転換を提供したい」というように、支援側の事情だけで決めうちしすぎるのは良くないのだ。
現場やその場の状況・情報・ニーズに柔軟に対応する。
そして、そのためには前回のエントリに書いたように「考え抜く」ことが必要で、支援側の「思い」だけが大きくなりすぎてはいけないだろう。

2012-03-31 08:00

Posted from DPad on my iPad

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