惨事に遭った人を支援する、面談を通じてケアするなどのとき、その惨事が極大なものであったときにに、支援者はクライアントとどう接し、どう会話したらいいのか。
東日本大震災後の支援では、正にそれぞれが同じ、あるいは似たような状況になったり、迷ったり、悩んだりしている。
単に惨事被害者(被災者)のダメージや数が多いというだけでなく、地域の機能やリソースが根こそぎに近いくらいに失われてしまったため、そこへの支援者は必然として別の遠隔から一時的に来た人たちであるのが特徴だ。
支援者の悩みや迷い、難しさにもこの特徴が関係している。
「被災者の話をとことん聞いてあげたほうが良いのでしょうか?(マイナスの事が起きたり、感情を高ぶらせてしまうのが怖いです)」という質問や、「感情が絡むような体験の話はあまり聞かない方がいいですよね?(でも、それでは何か冷たい気がする。何もできない自分が支援していると言えるのか)」という迷いがよく聞かれる。
これは難しい問題だが、かと言って専門家や現場の人に訊ねて「話はとにかく遮らず、相手が望むまま、望むだけ聞いてあげましょう!」とか「いやいや、我々はずっとその場に居続けることはできないのだから、悲しみや辛さの深い部分は地元の人同士や家族などの中でしてもらうのがベストだ。余計なことはなるべくしない方がいい」とかいうクリアな答え、正解を期待してはいけない。
いくら支援者自身が悩んでいても安易な結論は避けたい。
とは言うものの、「被災した方々それぞれで事情や状況が違うのですから、臨機応変に……」というのもせっかくのボランティア精神の多くを無駄にしてしまうかもしれない。
私自身は、考えることによって、すぐに到達はできなくても、より早く「正解」に近づいていけると思っている。
まず、惨事にあった人は「なぜ体験を話したくなる」のだろうか。
あるいはその反対に「誰にも(誰とも)話したくなくなる」のだろうか。
この二つの真逆の反応、状態はどちらが嘘とか間違っているとかいうことではなく、どちらも実際に、しかも同時に起きていることだ。
なぜ話したくなるか。
人が何かびっくりするような事柄にあった時には、誰かに話したくなる。
有名人を街で見かけたとか、ちょっと失敗をしたとか、宝クジが当たったとか、自分に置きかえて想像してみてほしい。
次元や種類が違うと思うかもしれないが、災害・事故・惨事に遭った人が、誰かに「ちょっと聞いてくれ」と情報や体験を知らせたくなるのは極めて本能的だ。
そして、聞き手に期待しているのは「! そりゃ、大変だったねぇ」とか「スゴい!」という、驚きや労いなどの反応だ。
ただし、災害や事故においては、疲労や不安から、「自分に原因や責任があったんじゃなかろうか」とか「何か防いだり予防したりできたのではないか」という自責の思考が強く回ることが、出来事の規模や衝撃が大きいほどよく起こる。
これが「話したくない」という反応の背景にある。
もしかしたら話したいのかもしれないけれども、それよりも強く「話して、自分の責任を指摘されたら嫌だ」「自分の考えや不安が他人によって確認されたら本当のこと(!)になってしまう」と考えている。
繰り返すが、被災者などの心理的な面への支援にはっきりとした正解はないと思っておいた方が良い。
だが、無策で手をこまねいているしかないわけでもない。
まずは、きちんと「なぜ」という部分から、自分の眼や耳や手で得た情報や知識を、自分の頭で考え続ける、考え抜く、そして実際に行動し発言するというのが真摯ということだろう。
続きは次回(話を聞く、聞かない、を真摯に考え抜く(後編) | deathhacks)に、もう少し。
2012-03-30 12:00
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