うつの人や惨事に遭った人に、自分以外のカウンセラーやセラピストが「治る」とか「大丈夫」と言っていたとして、そのことに疑問を感じたり、腹を立てたりするのはなぜだろう。
まず、「治る」とか「良くなる」という言葉のイメージが違う可能性を考えてしまう。
クライアントの「治る」とカウンセラーや周囲の人の「治る」の内容は往々にして異なる。
もしも、両者がイメージしているものが近いか同じだったとしても、それが未来において必ず実現するとは限らない。
論理的・科学的に考えて、時間が先のことを保証することは誰にもできない。
医療やコンサルティング、金融などは、未来を予想してその成果を商品として販売しているが、それがある確率で外れることは広く皆に了解されているから、トラブルに成る可能性がゼロではないけれど十分に少ない。
ところが、これがメンタルヘルス分野の話になると状況が変わる。
クライアントは自分の状態の回復に完全な期待をするし、実力があって経験を積んでいるカウンセラーほど完璧な効果を気軽に保証はしない。
しかし、プロフェッショナルであれば、効果や成果を保証するべきなのだ。
保証や自信、信頼や信じること自体が「治る」ことや「良くなる」ことに力を持つからだ。
もちろん「ダメ元でやってみよう」という同意がちょうどいいというケースもあるだろうけれども。
冒頭のように、他の同業者が気軽に「治る」と言うことに眉をひそめるのには2つの気持ちが込められている。
「そんなことを保証してうまくいかなかったら業界や同業の自分に迷惑がかかる(からやめて欲しい)」というものと「成果を保証してクライアントを勇気づけることができていてうらやましい」というものだ。
この2つはどちらも傍観者が感じるものとしてはもっともなものであると同時に、傍観者が介入して何かを強制できる種類のものでもない。
まずはカウンセラーを含めた当事者らの問題が基本であり最重要、優先課題だ。
立場によって言動が変わってしまうことになるが、私自身、他人が気軽に「治る」と言っていれば忠告や議論をしたくなるし、自分がクライアントを目の前にしていれば「大丈夫」と保証したくなる。
そんなダブルスタンダードはあってもいいのではないかと考えている。
2011-12-05 09:00
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