私は「寄り添う」が嫌いだ


SDIM0933

カウンセリングで使われる「寄り添う」という言葉は、意味があいまいな気がしてしまうし、動詞としての主体がどうしてもカウンセラーやケアギバーの側になっている感じがするので私は嫌いだ。
あまり使いたくない。
自分が、その言葉を嫌いで、使いたくないというだけであれば問題ないのだが、逆に使う人、使いたがる人がとても多いから気になる。

寄り添うという言葉は、そこから親切心や思いやりは感じられるけれど、実際にどんな行動をするのかという内容に乏しい。
どんな表情をするのか、どんなリアクションをするのか、どんなタイミングでどんな言葉を話し、それにたいするクライアントの反応をどうとらえるかという情報や示唆がない。
そこから議論や検証、振り返りと反省を始めることがとても難しい。
だから、私は、スーパービジョンや教育・研修などで「もっと寄り添いたかったです」とか「寄り添っている感じは良かったですね」とかという発言を聞くと、「じゃあ『寄り添う』ということを具体的にクライアントに伝えるためには何をしたらいいと思うの?」とか「どんな表情や態度が『寄り添っ』ているというメッセージにつながったのか考えてみましょうか」と言うようにしている。

一方で私は、「味方になる」という表現はよく使う。
これもかなりあいまいな表現だ。
しかし、「味方」という部分に肝心があると思う。
味方というのは評価であって、その評価はクライアントが下すものだ。
クライアント以外の人が押し付けられるものではない。
カウンセラーがクライアントの「味方」になろうとしていることと、クライアントがカウンセラーのことを「味方」だと思えるということは、段階も主体も状態としても全く違うものだ。
「味方になる」という表現からは、少なくとも現時点でそういうことが割に誰でも理解することができるのが良いところだ。

「寄り添う」という言葉の方に戻ると、この言葉を使うときには、クライアントの反応や内心は置き去りにされがちなような気がするという特徴がある。
評価もしづらい。
ロールプレイにしても実践の場にしても「カウンセラーがあなたに寄り添ってくれているように感じられましたか?」という問いよりも、「味方になってくれている(信頼できる)と思えますか?」という議論の方がし易そうだ。

結局、日本語、言葉としての背景や人生の蓄積が違えば、しょせんある一つの言葉やフレーズに対する印象や感じ方は様々だ。
このエントリの「寄り添う」と「味方になる」というフレーズに対する私の立ち位置がそうだ。
自分で考えてみても、ちょっと異常にこだわりすぎているような、まるで親の仇のように「寄り添う」という言葉を忌み嫌い、その使われるシチュエーションに過敏になっている。

2011-08-20 11:00

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