惨事ストレスを受けた個人や組織をサポート・ケアするといっても、私たちがカバー・認知・受託する範囲では毎日まいにち「惨事」は起こっていない。
カバーしている(できる)対象のイベントとして例を挙げれば、交通事故、航空機事故、災害、通り魔・無差別傷害致傷事件、自殺、殺人などである。
これらの中で言えば、自殺が一番数として多い。
自殺は一番身近だ。
凶器、というか原因の多くが当事者自身の不可分であり、単純に逃げたり避けたりすることが難しいと考えられるから。
これ以外で生活・社会に浸透している惨事のきっかけとしては、自動車を原因とする交通事故くらいだろう。
自殺が起きた組織・コミュニティに「介入」する場合に、遺族や周囲サバイバーのサポート・ケアに際して、我々のツールや方針として、自殺した当事者のうつ的背景(自殺ののすべてにではないが多くにそれがある)に触れないということは特別な場合を除いて、無い。
なぜならば、それが残された人、周囲関係者が抱える不安や自責、無力感や疑問の大きな原因であるからだ。
それに触れずに自殺した人物のことを語ったり、理解したり、関係者の話を聞いて情報提供したりニーズを聞いたりサポートしたりしようとするのはナンセンスになる。
ただし、医療や医学のように、必ず正しいことを言おう知ろうとするわけではなく、その立場と限界は慎重に扱う。
すると、自殺を惨事の一種と捉えた場合には、うつについても詳しく「知っている」必要がある。
そしてその内訳は、医療的な「薬をのんでいた(薬が必要だ)」「こんな症状がいくつあるから『うつ』である(あるいはうつではない)」「仕事を休ませなさい(あるいは仕事をさせても良い)」「セロトニンが(ドーパミンが)どうこうなっている」というものではない。
うつ、あるいは自殺した人物が、どのように苦しいのか、どのように頑張ったのか、周囲の人から見て奇妙だったり不可解だった言動にどんな意味やしかたなさがあったのか、ということをあくまで経験上の推測として情報提供する。
人物が抱えた(抱えている)「物語」や悩みを適切なトーンと確度で説明しようとする。
こうして、自殺という惨事に関わり、暗黙知的な経験を蓄積することにより、惨事対応のノウハウのみならず、自然と「うつ」に関するノウハウや捉え方も持ち合わせるように発展してきているのが私の学んできていること、先人から教わってきて実践している活動だ。
言ってみれば、まず「惨事ストレスの対応を学ぼう」「うつについて知りたい」という気持ちや願望だけが前面に出てきているというよりかは、「惨事」や「うつ(の人)」が目の前・周囲に発生・存在するというニーズ(市場的に)に対処してきた結果がチームとしても個人としても現在のカタチになっているということだ。
2011-01-20 07:00
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