仕事として震災への対処や復興を支える人たちがいる。
自衛隊、消防、海上保安庁、警察や行政組織などで働く人たちだ。
彼らが発災から今までにやってきていることは、確かに「仕事」だと考えれば契約や義務の範疇だし、当たり前かもしれない。
しかし、これだけの被害を受けた現場や後方で、長期間にわたり、自らの身体や精神の消耗と危機やその可能性を知りながらも「当たり前」のことを為すことは尊い。
被災現場で働く者の悩みや苦しさの一つに「被災者から『ありがとうございます』と言われること」があると聞いた。
なぜ「ありがとう」と感謝されることが苦しいのか。
普通であれば、「頑張ります!」とか「頑張りましょうね」、「これが我々の仕事ですから」とでも答えるなり、胸の中で思うなりすればいいではないか、と考えるのではないだろうか。
上記したような「感謝されることが辛い」という感情は、実は発災直後というよりは数週間から1ヶ月以上経過した時点であった話のようだ。
また「ありがとうと言われるのが辛いです」と心情を漏らした人の仕事内容は行方不明者と遺体の捜索関連だったという。
震災から時間が経っても未だ新たに行方不明者(またはそのご遺体)は発見されているが、さすがにその数は徐々に頭打ちになってきている。
当然人海戦術で捜索にあたるわけだが、まったく「発見」されない日も多い。
それでも遺体安置所や避難所の近くを通ったりすれば、あるいは被災者とその家族たちは、「仕事」をしている、あるいはその日の仕事を打ち切った人たちに「ありがとうございます」と声をかけられる。
生存者までは望めず、ご遺体とはいえ、発見によって「成果」があれば、その感謝に胸を張って応えることができるかもしれない。
しかし、目に見えるような成果が何もないのに感謝される。
これは堪える。
辛い。
でも私は思うのだ。
感謝をしている被災者やその家族は必ずしも(今の時点では)目に見えるような結果を望んだり、それらに感謝しているのではないのだろう。
当たり前の、それでも尊い仕事、それ自体や仕事をする人たちの身体や労働や気持ちを推し量って、慮って、さまざまな複雑な気持ちがないまぜになって、それが「感謝の言葉」となっているのではないか。
決して、成果がまったく無いように思えても、「ありがとう」と言われる資格が自分たちに無いように思えても(無力感だ)、その感謝を受けとる資格はきっとあるし、胸を張って、そのことすらも仕事の一つだと考えてみてもらいたい。
もしも、そういう理屈や論理が頭でわからない、気持ちでは納得できない、苦しいというときには勇気を持って周りやその役割を持つ人と話して処理して欲しい。
2011-05-14 08:00
(2013-01-11 08:00 追記)
何か親切をしたときに求められても名乗らないとか、感謝を示す場を提供されたときに誇示するとか、度を過ぎた遠慮をしてしまうとかも、一歩間違うと相手の気持ちを乱したり傷つけたり苦しめたりしてしまうだろう。
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