理想を追求して最大限トレーニングしておくべきか

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実際の現場で使う状況が得られないのであればいくら練習しておいてもコストパフォーマンスが悪くなる。

「もしも」の1回のために備えておくのがプロフェッショナルというものかもしれないが、現代のスピード感においてはアジャイルに扱って余計なことはしないミニマムデザインが主流だし。

2012-12-24 09:00

自分の家で料理したり食事をしたりすることが珍しいことになっていく

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食事、料理は専門家や専門サービスが担い、個人や家庭で料理をすることは稀になり、趣味やニッチとして残るのみになるだろう。

こんな話をすると、食文化の否定のように思われたり、家庭の味や食事を通したコミュニケーションが無くなるわけがないと感じられるかもしれない。

だが、例えば農業について考えてみて欲しい。
大昔には家族や村単位で自給自足的に農作物を作り生活していた。
しかし、今では人口が増えたことにより(そのことが鶏なのか卵なのかはわからないが)、一部のプロが大量生産をして、その他の人類に供給している状態だ。
家庭農園や菜園などを玄人はだしでやっているというのは、やはり趣味的なものであるか、余程特別なニーズか志があってのものだろう。

また、医療についても挙げていこう。
家庭ややはり村などで、病や怪我を処置したり、治したりといったことは生き物としてヒトにとっても自然で重要なことだっったはずだ。
そこへヒポクラテスを象徴的な始祖として「医学」という概念が生まれ、科学と論理・経験の積み上げと継承によって専門的手技や体系、サービスとして確立され続けてきた。
今では一定以上の医療については、家族や一般人が為してはいけないというまでになっている。

このように農業や医療が一般人や家庭から奪われた。否。社会への適応や効率化を目指した自然な結果として、工業化、産業化、サービス化、専門家が起こり、一般の人間はその成果を利用して別の部分での仕事や生活にエネルギーと時間を向けることができるようになったのだ。

こうして考えると、個人や家族の中で料理をして食事をするという様式が、数十年か数百年かの時間をかけて、まったく存在しなくなることはないにしても、とても珍しい文化行動になっていくのではないだろうか。

2012-11-22 08:00

「困った」と「病気」の間で

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うつや認知症など、病気なのか正常(とは言え、やっかいで困った状態。あるいはピンチ)なのかは、目に見えないから難しい。
それらが急に、痛くなったとか、血が出たとかいうのでもないことも問題を難しくしている。
健康・健常と「困った」と病気は連続的に変化することが多いし、レベルの問題なのだ。

すると、日常では、「これは悩みレベルなのか、病気でお医者さんに行ったほうがいいのか?」とか「おかしいような気もするけれども年をとったらこれくらい普通かな……?」などという迷いが生じる。
迷いは、ある意味中途半端な状態だから、病気であるなどの確定がなされた状況よりも、気持ち的には苦しかったりもする。

皆が日常的にこうしたあいまいさやそれぞれの状況で打つべき手などを考えておくのもいいが、効率は良くない。
コンシェルジュ的に専門家や役割を持った人が民間あるいは公共に配置されていれば、それを必要な時に利用するということでいいだろう。
特に、日本やそのうちでも都会には人口が集まっているし、生産産業ではなくサービス産業として社会的にも有意義だ。

近くに詳しい人やメンタルヘルスなどの専門家のような人がいるならば相談してしまえばいい。
その場で問題が解決するようなことは少なくても、まず悩みの対処ができる。

最初に書いたように、気になっていることや対象がまず、「問題ない」「少しマズい」「ヤバい」「病気だ」などのレベル分けを判断するのが当事者にとって一番難しい。
レベル分けさえできてしまえば、対処方法はだいたい決まってしまうものだ。

逆にここで誤ってしまうと「病院に行って診てもらったけれども大丈夫と言われた。また調子が悪くなったら来てくださいと言われた」というように判断の難しさを知らされて、不安がかえって高まるということが起こる。
また、「それくらいなら全然大丈夫じゃない?」と言われたとか、思い込んでいたとかで、時間を使ってしまい、もっと早くに病院や専門家に当たった方が良かったのに、という事態もありうる。

こうしたことへの対策として、気軽に近場で相談できる手段や資源を普段から用意しておいたり、もしもそういう時にはどうするのだというようなシミュレーションをしておくのが良い。

2012-10-31 07:00

学習スピードはグループ内で一番遅い人が律速する

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グループ学習は果たして効率的なのだろうか。
その時々で見る角度や焦点を意識しながら判断する必要がある。

経験的に、グループでの学習スピードは、どうやっても一番遅い人に合わせることになる。
もしも、進行を早めようとしても、ある程度まではできるだろうが、結局配慮や質疑応答などによってブレーキがかかる。

これはデメリットだけではないし、社会全体としても同じことが言えるから、「小さな社会」でもある「グループ」でも許容しなくてはいけない面がある。

逆に許容してはいけない場合もある。
例えば、グループやチームがプロ契約として、活動しサービスを提供している場合。このときには、チーム内に未熟な者がいたとしてそこにレベルを落として合わせることは、期待された最高の成果を上げる妨害となる。
また、学習が一番遅い人、能力が他の人に比して著しく低い状態の人がいることによって、所属組織そのものの存在が危うい場合。そうしたときには「切り捨て」もやむを得ない。

要するに、組織の属性や位置づけにだいぶん左右される。

2012-10-01 07:00

一緒に旅をできない人たち | deathhacks

メッセージコントロール、即答と言い切り、発言への認知

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メンタルヘルスの面談で気をつけたいことが3つある。

メッセージコントロール

一つは言わずと知れた、メッセージコントロールだ。

はじめはメッセージコントロールだけで十分 | deathhacks

メッセージコントロールについて語るときに僕が語る3つのこと | deathhacks

メッセージコントロールが革命的である理屈 | deathhacks

個人へのフィードバックにおけるメッセージコントロール | deathhacks

メッセージコントロールを教えていたら演技指導をしているように思えた | deathhacks

メッセージコントロールを教えにくい理由(わけ) | deathhacks

フランクさ、は「味方になる」の本質ではない | deathhacks

想定する相手は、クライアント本人のみならず、その家族や上司、人事担当者、担当医や産業医などのクライアントとカウンセラーをを取り巻く社会の関係者すべてと言える。

メッセージコントロールを、お茶を濁す態度だとか、すべてにおいて相手に譲歩するコミュニケーションのようには誤らないように。

即答の力

極端かもしれないが、プロフェッショナルのカウンセラーは、質問への返答やクライアントの経過の予測を断言かつ即答しなくてはいけない。

「そんな事言っても、世の中『絶対』なんてことはないし…」
「人の気持ちっていうのは見えないし、測ったりもできないから、確かなことは言いにくいんだよね」

こうした感覚は当然だが、だからこそシンプルな言葉をクイックに出して、クライアントや関係者の不安や迷いを適切に解消するべきだ。
別に当てずっぽうを連発しましょうということではなく。

言い切る力、言い切る勇気 | deathhacks

プロは間違う、学者は正しい | deathhacks

エキスパートよりもプロフェッショナル | deathhacks

あと別に、即答した内容が誤っていたり、補足が必要だったり、例外の可能性を示さなくてはいけなかったら、後から追加して良いのだよ。

発言と論理に対する認知

人間の心理とか社会とか人間関係とかいう、不確かな目に見えないものを、言葉やあらゆるコミュニケーション手段を使って扱うカウンセラーには、自分発信の情報や発言に責任を持たなくてはいけない。

責任を持つ、ということは別に「間違うな」「ミスは許されない」ということではない。
自身の発言や思考が、「科学的なもの」なのか、「客観的な情報」なのか、「自分の主観」なのか、正しい確率がどのくらいなのか、言い切れることなのかそうではないのか、などをキチンと認識しながら動くということだ。

あるいは、1時間の面談の中で目標地点があるのか(それともないのか)、自分や関係者の願望はどういった方向なのか、などを突き詰めておいたり、数多くの仮説を立てたりしておくのだ。

この認知がしっかりとしていなくては、話が混乱するし、クライアントらに「結局それってどういうこと?」と尋ねられたときに答えられず、信頼を損ない、良い仕事ができないだろう。

2012-07-09 08:00

惨事へのサポートケア焦点 その2

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昨日のエントリ(惨事へのサポートケア焦点 その1 | deathhacks)の続き。

組織および従業員個々の業務量を調整・配慮する

精神的な衝撃を短時間で積極的に癒す手段はなかなかないが、身体を労わる工夫は具体的で目に見えるから取り組みやすい。
従業員や関係者に起きた惨事であれば、一部あるいは人事や部署全般の業務負荷が高まっていることも多い。

惨事直後に組織が従業員に対して配慮するには、言葉だけよりも現実的な面でのサポートを示すのが効果的だ。
ただし、中長期的な視点と一定期間継続してやり切る覚悟は必要になる。

従業員個別のスクリーニングとケア

直後から、従業員間の状態・感じ方・状況の違いとズレに注意する。
同じ出来事をほぼ同じように体験したように見えても、それに対する反応は大きく違うことがあるという、当たり前のことに留意する。

元々心身の不調を抱えた者、惨事直接の被害者などに対して強く同一化を感じている者などを、ある程度は検討をつけながら拾い上げていく目線を持つ。

自粛を強いる雰囲気を避ける

多くの人間が不幸や惨事だと感じる出来事の後に、「喪」に服すことは良い知恵だ。
しかし、過剰になり過ぎないように調整する。

会話や笑いがまったくなくなってしまうようならば、やや行き過ぎかもしれない。
こうしたコミュニケーションが少なくなると、適切かつ自然な回復が妨げられる。

客観的・常識的に考えて、個人ごとの、休み・ホビー・レジャー・息抜き・ストレス解消・プライベートを楽しむことを、組織として許し、一見無駄のように思えても「公認する」のが有効かもしれない。

まとめ

内容・項目は以上となる。
こうしたエントリでは毎回恒例となってしまうが、組織やその管理者が自らを客観的に見て対応するのはなかなか難しい。
専門的な視点とサポートは必須かとても有効だろう。

2012-06-12 08:00

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私が「自己一致」している理由

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カウンセリングやメンタルヘルスの議論を数人の勉強会でしていて「自己一致ってなんだろうねー」という話になった。
教科書的に考えれば、この言葉のそもそもの始まりはカール・ロジャーズの来談者中心療法、そしてその方法論や理論の中で提示されたもので、それが変化しながら利用・研究されてきたということになる。
いわゆるカウンセリングがうまくいく条件としては「受容」「共感」「自己一致」という三位一体のものとしてよく語られる。

カール・ロジャーズ – Wikipedia

話は自然と、「自己一致って理想だけど難しいよね」とか「こないだ知り合いが自信満々に『私は自己一致しています!』と言い切っていてちょっと引いちゃった。。」という感じになった。

自己一致は原典の単語では genuineness というもので、なかなか日本語としてぴったりと変換することも、概念を理解したり、皆で共有したりするのにも骨が折れる。
また、その意味するところの素晴らしさや大事さはわかるのだが、具体的に現場や自身に反映するとなると途端に絶望的な距離を感じてしまうことが多い。

しかし、ふと私自身について考えてみると、意外に「自己一致できている」と感じてしまう。
そのことをそのまま、その場の議論でも出してみたのだが、そんなに反論は出て来なかった。
というか、こういう自己認識やカウンセリングという不可侵・守秘ガチガチの現場での主観をいくら他人が出して見せてきても、結局別の人間が厳密に吟味したり評価したりはしにくい。
それは余程うまく機能しているスーパービジョンや教育分析という枠の中でだけ適切にされる可能性が高まるものだろう。

ただ、さらに進めて考えると、私自身は本当に自己一致しているというよりは、「自己一致している部分しか外に出さない。勉強会であってもカウンセリングであっても」ということかもしれない。
カウンセラーや人間すべてが、突き詰めて自己一致が義務だ理想だなんだと言い始めたら、皆修行している間に寿命が来てしまう。
不完全な人間が他人を絶対に支援してはいけないとかできないとか言うことはナンセンスだ。

これは「自己一致」だけでなくプロフェッショナルなカウンセラーとしての「健全性」についても言えることだ。
健全性や常識は必要だが、パーフェクトでトータルなそれをいつでもどこでも求めるのは不適当だろう。

私の理解する genuineness は「凄み」だったり「ブレのなさ」だったり「覚悟」だったりといった言葉の周辺ニュアンスだ。
完璧な人間はいないだろうが、限定的な分野や場面での能力や統合の高さはトレーニングや学習ができるものだし、評価などを共有して仲間内で高め合う事ができると思う。

2012-05-25 07:00

(関連書籍)

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カラオケによって業界のレベルが上がったことから

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以前に書いたエントリ(カウンセラーに向くのは新しいものを受け入れられる人 | deathhacks)の通り、プロのカウンセラーは停滞していてはいけない。
学び、トレーニングし続けなくてはいけない。

世の中や世界に普遍的なもの、要素は確かにあるが、それ以上に変化の量やそのスピード、表現形の多彩さは増えていっている。
人間の根本的な部分はなかなか変わらなくても社会はどんどん変わっていく。
メンタルヘルスやうつの知識は、そのレベルや正しさはともかくとして、一般的になってきている。

コミュニケーションのうまさだって、個々を見れば確実に上昇している。
生涯に出会う人間の数や種類は増えているし、言葉や文字を上手に使える程度も向上している。
もっとも、このことはコミュニケーション「レベル」の格差が広がっていることにも直結している。

つまり、メンタルヘルスの知識のような面でも、コミュニケーションの実践や知見の面でも、カウンセラーがプロフェッショナルを名乗ろうとするならば、素人一般人を上回らなくてはならず、それには自身も日々向上し変化していかなくてはいけないだろう。

テレビが普及し、何度かのお笑いブームが訪れ、素人の日常会話の中でも「ウケ」や「オチ」が求められる。
「ツッコミ」や「ボケ」という、元々は専門的な用語だったり、技術だったりしたものが一般化した。

カラオケが珍しいものでなくなったことにより、昔であったら、人前で大きな声で本気で一曲を歌い切るというような、一生かかっても出会わないかもしれなかったような経験がしやすくなった。
それにより、才能が埋もれる確率が少なくなり、芸能としてのプロに向かう分母が飛躍的に増えたことで業界全体の質も高まってきたのではないか。

まったく違う業界、分野のようであるが、社会の変化とプロフェッショナルのあり方に関しての考え方は通じるところがある。

2012-05-10 07:00

Posted from DPad on my iPad