グループミーティングの結果得られる心地よさはどこから来ているのか

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仲間内の勉強会で自分たち自身がグループミーティングをした。
テーマは東日本大震災の始まりから今現在までの3ヶ月弱における個々の行動や生活、考えや思いについて。

内容については別として、少なくとも私自身としてはミーティングによって「気持ち良さ」が得られた。
その「気もち」はどこから来ているのか。
なぜそう感じられたのか。

一つには情報が得られたことが理由だと思う。
自分以外の人間が3月11日の発災のとき、どこにいて、何をしていて、どう考え、いかに行動したかを知ることは、とても興味深いし、自分のことと対照して振り返ることができる材料になる。

しかし、一般的な情報は別に今回のように仲間内であらためて集まり、交換しなくても多く得ることはできていたはずだ。
では、それらと何が違ったのか。

それは仲間内という関係に含まれた「属性」や「背景」が影響していたと思う。
知り合いで面識があり、似た立場や仕事をしている間で互いに情報や思いを交換をしたことは、より自分個人との比較や考察の上で質・量の両面でメリットがあったのだろう。

まとめて考えると、

  • まず情報は、まったくなかったり、不足しているよりは、分量がある方が良い
  • ただし、単に情報の量にこだわるだけでなく、参加する人間の属性や背景をうまく扱うことで質的にも量的にもグループミーティングの成果は上がる

ということだ。

2011-05-28 11:00

感謝されることも仕事のうち – 東日本大震災から71日

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仕事として震災への対処や復興を支える人たちがいる。
自衛隊、消防、海上保安庁、警察や行政組織などで働く人たちだ。
彼らが発災から今までにやってきていることは、確かに「仕事」だと考えれば契約や義務の範疇だし、当たり前かもしれない。
しかし、これだけの被害を受けた現場や後方で、長期間にわたり、自らの身体や精神の消耗と危機やその可能性を知りながらも「当たり前」のことを為すことは尊い。

被災現場で働く者の悩みや苦しさの一つに「被災者から『ありがとうございます』と言われること」があると聞いた。
なぜ「ありがとう」と感謝されることが苦しいのか。
普通であれば、「頑張ります!」とか「頑張りましょうね」、「これが我々の仕事ですから」とでも答えるなり、胸の中で思うなりすればいいではないか、と考えるのではないだろうか。

上記したような「感謝されることが辛い」という感情は、実は発災直後というよりは数週間から1ヶ月以上経過した時点であった話のようだ。
また「ありがとうと言われるのが辛いです」と心情を漏らした人の仕事内容は行方不明者と遺体の捜索関連だったという。
震災から時間が経っても未だ新たに行方不明者(またはそのご遺体)は発見されているが、さすがにその数は徐々に頭打ちになってきている。
当然人海戦術で捜索にあたるわけだが、まったく「発見」されない日も多い。

それでも遺体安置所や避難所の近くを通ったりすれば、あるいは被災者とその家族たちは、「仕事」をしている、あるいはその日の仕事を打ち切った人たちに「ありがとうございます」と声をかけられる。
生存者までは望めず、ご遺体とはいえ、発見によって「成果」があれば、その感謝に胸を張って応えることができるかもしれない。
しかし、目に見えるような成果が何もないのに感謝される。
これは堪える。
辛い。

でも私は思うのだ。
感謝をしている被災者やその家族は必ずしも(今の時点では)目に見えるような結果を望んだり、それらに感謝しているのではないのだろう。
当たり前の、それでも尊い仕事、それ自体や仕事をする人たちの身体や労働や気持ちを推し量って、慮って、さまざまな複雑な気持ちがないまぜになって、それが「感謝の言葉」となっているのではないか。
決して、成果がまったく無いように思えても、「ありがとう」と言われる資格が自分たちに無いように思えても(無力感だ)、その感謝を受けとる資格はきっとあるし、胸を張って、そのことすらも仕事の一つだと考えてみてもらいたい。
もしも、そういう理屈や論理が頭でわからない、気持ちでは納得できない、苦しいというときには勇気を持って周りやその役割を持つ人と話して処理して欲しい。

2011-05-14 08:00

(2013-01-11 08:00 追記)

何か親切をしたときに求められても名乗らないとか、感謝を示す場を提供されたときに誇示するとか、度を過ぎた遠慮をしてしまうとかも、一歩間違うと相手の気持ちを乱したり傷つけたり苦しめたりしてしまうだろう。

被災地に慌てて進入しようとするのは無謀 – 東日本大震災から65日

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被災地にボランティアで行っても、役に立たなかったり、却って好意の押し付けになったり、自責感や無力感で自分自身がやられてしまったりする。

少し違うが「勇敢でベテランの戦闘機乗りを存在しない」という文を思い出した。
戦闘機のパイロットは臆病で逃げ回っていれば、とにかく生き長らえることはできる。
たとえエースにはなれないとしても。
勇敢にドッグファイトに挑めば、多くの場合「どちらかが」(あるいは両方か)撃墜される。
手柄を立てて生き残ったパイロットも戦闘を重ねていけば死の確率は累積する。
だから大戦の戦闘機乗りの多くは優秀であったとしても「ベテラン」の域に達したものは少ないということのようだ。

また、井上靖の「氷壁」では常盤大作が魚津恭太に「登山家は優秀であるが故に山で命を失うのじゃないか」と問いかける。

プロであるならば二次災害、二次受傷は恥だと、個人的には思っている。
しかし、メンタルヘルスケアの分野ではその見切りが難しいことも実感したり聞いて学んだりしている。
プロでなくとも、自分の行為や言動が何をもたらしているのか、判定は難しいが善なのか悪なのか、あるいは無なのかを計る尺度やメタ視点はあっていいと思う。

2011-05-08 07:00

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平和なときに議論しない、有事にもしないでは、半端な連携しかできない

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メンタルヘルスや精神科医療には多くの議論 controversy がある。
これらは限界をしりつつも平常のときに、その良否の判断や科学的検証をしていくべきだ。

東日本大震災のような大災害が起きたときに、どんなツールを使うか、どのようなケアをするか、リスクやチャンスは何なのかを現場で議論したり判断したりするのは非効率的だ。

とは言いつつも、現実的に目の前にメリット・デメリットを兼ね備えた決断を要する事象があるのならば、最低限の議論や対決は必要になる。
それすらを避けたり、うやむやにするのであれば、善かれと思ってした仕事が結局はマイナスを生んだり、二度と建設的・科学的な議論ができなくなるくらいに人と人の感情的な溝が深まってしまったりする。

この感情的な溝、というものは当事者が”大人”であればあるほど、現場では表れないが、その溝の存在を見て見ぬふりをすれば平和に戻ったときに回復不能な壁となる。

2011-05-05 07:00

東日本大震災の結果、テキストを修正しなくてはいけない、なんてことはない

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東日本大震災から61日。
現場でメンタルヘルスをサポートしている仲間からの実感に基づいた教訓がいくつも届く。
その中の意見のまとまりとして「教科書に書いてあることが役立たなかった」「テキストで習っていたことがうまくいかなかった」「教えてもらった通りにやるのが現実的ではなかった」というものがあった。

しかし、それは違うと私は思った。
基本と応用は車の両輪である。
基本は基本、応用は応用。
私らが学んできたのは「正しい」ことではなく、「うまく」やるための技術や工夫ではなかったのか。
それを、習った通りにやってもうまくいかないのは、教えられたことが間違っていたのだと認識するとはなんと残念なことか。

元々、先人の教えを鵜呑みにしてはいけないし、まったく参考にしないという態度も誤りだ。
未曾有の災害に対して過去の経験の何が役に立って何が違うのかをリアルタイムに判断して行動していかなくてはいけない。
それを座学やシミュレーションで学習しているその時点から可能な限り突き詰めて自分の頭と意識に問わなくては結局現場で勘違いをする。

誰が良いでも悪いでもなくプロとして各人がその責任の範囲で判断し行動しなくてはいけない。

2011-05-04 07:00

支援を押し付けるな、支援を受けることを怖がるな

SDIM0809

震災に関する支援についての人間関係や心理的な難しさについて思った。

「支援の難しさ」と言うと、「どのように支援するか」について思い浮かぶかもしれない。
もちろん、それも難しい。
何を、いつ、どのように被災地、被災者に届けるかは、緊急性のあるものもあるから、考えながら決心や行動を同時並行にしていかなくてはならない。
しかし、押し付けや過剰、実際のニーズや要望とのズレに気をつけなくてはいけない。

そこに別の角度から見た「支援の難しさ」がある。
支援を「受ける」のは難しいのだ。
被災者、被支援者だって、何が本当に必要なのか分からなかったり、優先順位がつけにくかったり、状況が刻々と変わっていったりしているからだ。
そして、弱っているときほど、自信をなくし、無力感を感じているから、気持ちよく支援を受けることが難しい気持ちになる。
もちろん、人や状況によってそうではないのだが、支援を受けることは自分の弱さを実感させられてしまう怖いことにもなりうる。

ここに支援者側のズレと被支援者側の抵抗という心理的なミスマッチ、誤解や不具合の芽があることを管理者や専門家は知っていなくてはいけない。

2011-05-03 07:00

生きていること自体が支援

初スタバなう。

偉そうなことを言うようだが、私や私の周りの人について、日常の仕事や生活を変わらず続けることそのものが復興支援になっていると思っている。
だって、震災の前に何か極端に間違ったことや不法(!)なことをしていたというのではないから。
もちろん、今現在の自分の余裕をみて、できることややれることのプラスアルファを考えたり行動したりすることには反対しない。
しかし、元々手を抜いて生きていたわけではないのだ。
そこで「無理に」“頑張ろう”とすると「無理」なことが出てくるのではないのかなと思う。

2011-04-20 06:00

わからないのではなく、わかろうとしていないのだろう

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私の知り合いに工学系で、放射線学や化学などに関係する仕事をしている人がいる。
福島原発事故(2010-04-15 現在)(福島第一原子力発電所事故 – Wikipedia)に関連してその知り合いのところには、地震から1ヶ月、事故の始めからでもだいぶ経つが、今でも質問の電話が来るそうだ。

質問には、放射線に関するものあれば、放射性物質に関するもの、基準単位や換算に関すること(BqベクレルやらSvシーベルト、さらにはミリやマイクロ、テラとかまで)までさまざまだという。
知り合いが言うには「これだけテレビや新聞で情報があるのに、今頃になって『ミリとマイクロはどう違うんでしょうか。。?』という電話もあるんですよ」と半ば諦めつつ、「多分、科学的な事実やしくみが『わからない』のではなく『わかろうとしていない』んじゃないかと思う」ともらしていた。

知り合いがさらに曰く、

たぶん、私が正しい説明をしても、相手は結局「で、、大丈夫なんでしょうか?」というような不安を持っていたりする。その部分は科学的に「絶対大丈夫ですよ」とは言えない。

テレビで偉い先生やアナウンサーが説明しているのと、あの”池上彰(池上彰 – Google 検索)”さんが説明している内容はたいして違う訳じゃない。ただ、池上さんは「わかりやすく説明してくれる人」というイメージがあるから、同じことを言っていてもわかったような気がするんだろうねぇ。

おそらく今の福島原発事故に関する情報をすべて正確に集めても、先の見通しや安全、健康被害などについて、100%はわからないというのは当たり前だが、間違いない。
日本の一般人は感覚として、勉強すれば、知識や情報を集めれば、必ず”正しい答え”が出てくるはずだという幻想にとらわれている。
それが日本人的文化なのか、近代教育の成果なのかは置いておく。

いくら情報があっても「まだ不安」という状態は耐えがたい。
これまでの学習から言えば「まだ不安」というのは情報が足りなかったり、隠されたりしているからだという思い込みは、現在目の前にある情報や次の行動を吟味するというよりもさらに(無駄にも関わらず)情報を欲するという行動にしか結びつかないのかもしれない。

今、そのように疑問や質問を抱えている人に対しては、情報や知識を入れてあげる(”話す”)のではなく、不安やその人が実際のところどういう風に情報を理解しているのかを”聞く”のが適切な対応なのかもしれない。

2011-04-15 06:00

(関連URL)

池上彰 – Google 検索

福島第一原子力発電所事故 – Wikipedia

ピンチに元気になる人もいる – 東日本大震災4週間経過

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有事や災害の影響により、短期的にも長期的にもメンタルヘルスの不全を引き起こす人は多い。
全体の比率としてはマイナス面がまずは多いのかもしれない。
しかし、逆に有事だからこそ元気になる人もいる。
頑張る人もいる。
そういった人の中には平時にはあまり目立たなかったりする人もいる。
大きな災害は社会全体の価値観や従来の常識的見通しなどを一気に転換させてしまうことがある。
今回もそうだ。
理想を言えば、このような災害などにだけ頼らなくても、政治的に、人工的に、富の再分配や社会的地位の世代格差または固定化を抑えるような社会がいいのかもしれないと思う。

2011-04-08 07:00