同じカウンセリングという名前で仕事をするとしても目的や状況によってその持っていき方は大きく異なります。
例えば、クライアントが涙を流したときに、多くの一般カウンセリングを学んできた人たちは「まずは気が済むまで泣くことを許してあげよう」「待っていよう」という思考と対応をします。
しかし、これは「泣き出したクライアントに介入する自信がない」というだけかもしれません。
あるいは、単独のカウンセリングを繰り返すだけの状況であれば、ある程度限られた時間をクライアントの意思や行動としてどう使おうがクライアントの自由だし責任だ、とも考えられます。
これが、惨事後にある集団へ介入・サポートする状況のうちのカウンセリングの一つであるとすれば、また話は変わってきます。
クライアントが泣き始めたとしても、早い段階でその理由や内心を確認したりした方が、時間や結果、各クライアントごとに必要な情報提供や自責感・無力感対処として全体のバランスが良くなるかもしれません。
この辺りの考え方は、待ち受けや予約でそれぞれの直接的なカウンセリングのつながりのないものの連続とは全く異なります。
これは、クライアントの沈黙についても同じです。
クライアントが沈黙したくてしているのだから無理にカウンセラー側からその状況を打ち破らないで悠然として待ってみれば良いのだというやり方もある場合には適切ですが、別の状況では無駄が多くなります。
もちろん、設定した範囲全体でのプラスとマイナスを考えたら、ということです。
限られた時間やある集団全体としての結果・成果として。
このように、従来のカウンセリングに関する「定石」的なコントロールのしかたのみでは到底うまくいかない難しさが、集団への惨事後サポートなどの現場にはあるようです。
おそらく陸上競技で言えば、マラソンと駅伝、あるいは短距離走と長距離走の違いのようなものがあるのでしょう。
部分だけを見ればどちらも両手を振って、両足を交互に出し、身体をできるだけ速く前に運んでいくという、共通した運動なのですが、時間的な尺度や使う筋肉、戦略などがまったく違うのです。
2010-10-20 09:00
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