登山道具を試行錯誤して揃えていくのはRPGのリアル版

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一つ一つの道具の機能と重さ、好みやカラーなどを挑む場や相手によって、また自分の技術や経験、レベルによって試行錯誤していく。
ベストだと思ってもコストがかかればすぐに手に入れるというわけにもいかない。
先立つものがなければまずは何かしらの方法で稼がなくてはプレーし続けることはできない。

ここまで面白くリアリティがあるのならばコンピュータゲームは要らないかも。

2014-01-04 22:00

40歳になると直球が変化球になる

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40歳になると(私は実際にはまだ39歳だけど)、それまでと同じ言動をしていたとしても、あるいは自分自身を変革したパターンでも、周囲・社会の受け取り方は20歳代、30歳代のときのそれとは異なってくるのかもしれない。

かなり強引な一般論だが、40歳も過ぎれば、世の中や人生の様々なことを見聞きし、経験してきているだろうから、うまい具合にアクが抜けたり、適度に妥協することを憶えたり、今更自身や環境を変化させることを嫌うようになったりするような気がする。
私自身も漠然と、そういった中年以降の大人を見てきていたり、自分がそうなっていくこととを想像していた節がある。

しかし、自分がその地点に来てみると、そうした想定は一部は当てはまるが、結構な割合で外れていたり、まったく似ても似つかない方向性を持っていたりするような気がする。
そして、基本的にはそれが心地良い。
あるいは逆に、心地良くなろうとしていると、アクを出し、妥協せず、まだまだ変化していこうと思える。

そして、そうした性質が中年の自分にあると周りの少なくない人からは新鮮で異端で変わり者で掴みどころがない人間であるような評価を受ける。
まったく望むところでありがたいくらい。

プロ野球の投手が新人から20歳代のうちは速球派で鳴らしていても、30歳代も進むうちに技巧派・変化球投手にトランジションしていくケースはとても多いだろう。
それは悪いことでも奇異なことでもない。

しかし、そこで速球派のままにプレーを続けることができたならば、対する打者やチームは頭や目では理解していても「この年齢の投手がこんなにまっすぐ主体で投球を組み立ててくるはずがない」とか「勝負どころではやはり変化球で来るだろう」とかいう微妙な錯誤をする確率が高くなるのではないか。
20歳代の投手が時速140kmの球を投げ込んでもある意味、意外ではないが、それが40歳の投手であれば、魔球とまではいかなくても「逆に」変化球のような効果‐それはほとんど心理的なものであるわけだが‐をもたらすかもしれない。

ちょうど水島新司の「あぶさん」(違った?)に出てくる超ベテラン投手兼監督の岩田鉄五郎が、全力投球していて、打者としてはもうその疲労困憊の様子が高度な心理的駆け引きとしての演技なのか、本当にへばっているのがよくわからなくなって、結局打ち取られてしまうという場面が私には思い浮かぶ。

私自身の場合は、自己分析的にはさらにひねくれていて、20歳代のときにはさまざま人生や思考をこねくり回していて、言わば変化球を投げまくっていたような感じかもしれないと勝手に思っている。
そして、今ごろになって何を思ったのか、目一杯力んで速球をビュンビュンと投げたくなってしまっているようだ。
これが適切かどうか、体を壊さないか、続くのか、はたまた続けるのかはわからないが、当人としてはとにかくワクワクしているし続けたいという気持ちのようだ。

2013-03-22 08:00

あぶさん – Wikipedia

筋トレと心理が似ているという話

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最近になって自分の身体を鍛えることに関心を持つようになった。
前職の時にこそ身体を整備しておいたほうが良かったんじゃないかという気もするが、時間や気持ちの余裕、自由度が少なかったからか、そういうモチベーションが上がらなかった。
今ならフリーランスだから、休みも取りやすいし(というか仕事を入れなかったら収入が途絶えちゃうんだが)、平日の朝イチから慌てずにジムを利用できたりする。

2011年にフリーになってからジョギングをなるべくするようにしてみたり(あとハーフマラソン出た)、2012年の頭から腕立て伏せを続けてみていたり(今もやってる。フォームはいい加減だけど……)、2012年後半からスポーツジムに通いだしたり(今、成り行きで2箇所行ってる)と自分でも目先を変えつつ身体を鍛えている。
あと、最近10kmレースも走った。

自信をつける方法 | deathhacks

筋トレをしてみると、アラフォーでも続けていればちゃんと逞しくなってきて変化が目に見えるから面白い。
勉強や資格、技術とかと同じで、自分の変化や成長に興味が持てる状態になると慣性がついて続いていく。
ゴールの有無とか、それが有意義かどうかとかはあんまり関係ないんじゃないかと思うし、意識はしていない。

それで、筋トレと心理の話。

闇雲なトレーニングにも疑問をずっと持っていたり、飽きも少し感じてきていたりして、トレーナーに教えてもらってのそれを始めてみている。
10年くらい前に耳にはしていたが、実際に体験する機会はほぼなかった「体幹(コア)トレーニング」という方向から鍛えるのが主流のようだ。
内容や理論の初歩を聞いてみても納得できる。自分の持っている医学や物理学、生理学などの観点から考えても、という意味で。

で、自分の弱点としては姿勢の悪さとか、関節の固くて動きが悪いことなんかを認識できてきて、そこをまずは改善することにしている。
「関節が固くて動きが悪い」といっても要素を分解してみると単純ではない。
バックブリッジをして股関節を動かしたりしてみると左右差が現れてくる。
新鮮な感覚だし、定量的な指標だから改善や修正のしがいがある。

関節の動きが固いというのは今の自分の認識としては3つの要素の一つあるいはそれ以上の組み合わせで起きている事象ということになる。
3つというのは「筋力」「神経」「関節そのものの固さ(軟骨間の摩擦力過剰とか、靭帯の伸縮可動性とか)」だ。
動きの悪さは定量できても、その原因がどの要素に依るものかは自分でも見てもらうトレーナーでも簡単には判じられない。
様々なストレッチやフォームチェック、トレーニングを早速始めて試行錯誤してみるしかない。

そして心理についても、同じように要素を分けて考えられるんじゃないかと。
勝手に言ってみると、筋力は「エネルギー(身体や精神の活動のための)」、神経は「気持ち」、関節の固さは「言葉(言動、でもいいか)」という対応だと思う。
心理体な問題やトラブル、不具合、変化があった場合、それらをそのまま扱うよりはなんとか少しずつでも要素に分解して観察し、改善していった方が有効な場合がありうる。
「エネルギーが足りないんじゃないか(疲れてない?)」「気持ちの上でなにか我慢してしまっていることに気づいてない(もしくは隠している)」「言葉や行動を自分ではコントロールできない(だけ)」のように考える。

こんな風に筋トレと心理という一見すると縁遠いものが、扱い方のコツとしては似通ってくる。
観察やストレッチ、負荷を調整しながらのトレーニングはまったく同じノウハウが使える。
こんな独自理論も良いのではないか。
他の人でも腑に落ちるような表現とか使い所などを工夫する必要はあるが。

2013-01-06 08:00

死にたい気持ちの瞬間風速

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うつで死にたいという人の苦しさは周りから見ても理解できない。
それがそのままでは目に見えるものではない「内面」「気持ち」であるということもある。
それ以外に、その苦しさの強さが刻一刻と変化し続けているものだからだという理由もある。

死にたい気持ちは「瞬間風速」的なものだ。
死にたい気持ちは現世から当人を吹き飛ばしてしまいそうなものになるのだが、その強さは常に一定というわけではない。
普段はなんとか耐えられる強さであっても、ある時、予想もつかないような瞬間、場所、きっかけでその「風力」が最大限になる。

これが怖い。
度々それに耐えられても、周りや医者、カウンセラーに説明しようという時にはその風は吹いていない。
だがその瞬間風速は確かに人を死に至らしめるほどの力がある。
続く時間がたとえほんの短い間であってもそれを日常で感じる恐怖は人を弱らせる。

2013-01-03 09:00

教えるということ、つなげるということ、想定できないもの

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他人に何かを教えようとするときに、一番かんたんなやり方は、相手がすでに持っている知識や情報をつなげてあげることだ。
相手がこれまでに見聞きしたことのない、経験したことのない、まったくの新しいことやモノを教えるのには時間も労力もかかる。

相手が持っているものをつなげることをできるだけ効率よく目指すためには相手のことを知らなくてはいけない。

相手のことを知らなくては教えることはできない | deathhacks

通常は、取っ掛かりとなるような概念やイメージ、知識などがそもそも皆無であれば、時間などの制約がある中では必ずしも思惑どおりに教えるという目標が達成できないこともありうる。

ところで「比ゆ」というものは、そういった共通認識・ベースがない、または非常に少ない場合でもそういった困難な道とコストを華麗にショートカットできる可能性を持つツールになる。
比ゆを使うと、厳密には不正確なものが伝わったり、ちょっとズルをしているようなことになる場合もあるが、何も伝えられない、伝わらないよりも何倍もマシだという状況はよくある。

世の中、なんでも完璧である必要もない。
車を作ったり、エンジンの構造を理解して解説できなくても、運転はできる。
試験勉強で丸暗記するのに語呂合わせで当座をしのぐというのも、それ自体だけでは否定できるものでもない。

はじめに書いた「教える」ということや過程についてあらためて考えてみると3つほどパターンが挙げられる。

  1. まったく新しいことを教える
  2. 何かと何かのつながりや組み合わせを教える
  3. 自発的・自然発生的に何かをひらめく

まったく新しいことを教えるとなると、これは暗記というものになる。
繰り返し、反復以外に有効なテクニックはないかもしれない。
実際には、わずかながらでも別の既知のものとの連絡をみつけることはできるのだろうが。

何かと何かのつながりを示す、というのは今回書いた、多くの場合に目指すと良いと思われる、一番の勝ちパターンだろう。
そのためには「比ゆ」だけでなく、1+1=2(いち、たす、いちは、に)というような「シンプルな論理」や『あるある〜、そういうこと〜』と感じられるような「事例」などが役に立つ。

単純理論、事例、比ゆを組み合わせる理由や背景 | deathhacks

最後の「ひらめく」については、なかなか結果を予想して計画することは難しい。
教える側が教えようと思っていないことを、受け取る側が勝手に思考や反応として生み出して、それがとても貴重であるというこは現実としてよくあることだ。
むしろ人間や生き物が進化・進歩し、良かれ悪しかれ変化していく上では必然的だし、理にかなっているとも思える。

2012-12-13 08:00

(関連エントリ)

レクチャー型学習とコーチング型学習 | deathhacks

比ゆは理論と事例を間で取り持つ

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理論というものは定量的判断に基づく。
厳密に様々な条件などを設定し、枠を作り、要素を限定することによって、通常は難しいはずの「定量」を示す。

これによって、ある一定の幅ではあるが、物事を言い切ることができる。
しかし、それを現実世界に適用するには当然ながら条件や枠、要素との距離や異なることによって生じるリスクを使用者が受け入れなくてはいけない。
理論だって常に完璧ではないからその不具合に対して使用者が文句を言うのはなにか違う。

また、事例というのは今度は定性的判断が下される(下された)事象ということになる。
事例は既に起きてしまった過去だから、それをきちんと分析しさえすれば原則として白黒がついている。
それを適用できる範囲は極めて限られるけれども、その分深さや情報のパワーがある。

そしてこれら一長一短がある「理論」と「事例」をつなぐものが「比ゆ」ということになる。

2012-11-02 08:00

自分の師匠の技術を直見しなくて信じられるか

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あなたは自分の師匠のカウンセリングを見たことがあるだろうか。

数回の陪席や、研修での指導、グループや個人でのスーパービジョンなどを見たことくらいはあるかもしれない。
しかし、それだけで実力を信じて、自分の今後の足しにする決心をしてもいいものだろうか。

もちろん、「少なくとも今は自分の成長の役に立っていると思うし……」「将来ずっと教わるかはわからないし」という一時的な契約のような感覚だというのかもしれない。
だが、その感覚だけで現状に留まり安心してしまっていいのか。

常にモデリングの対象は探し続けなくてはいけないし、見続けなくてはいけないし、自分に合わせて変えたり混ぜあわせたりしていかなくてはいけない。

ロールプレイトレーニングなどで、自分の技術や思考のチェックを受けるだけでは物足りなくないか。
やはり、他人の、至高の、勉強になるケースやテクニックを再現性をなんとか持たせて身につけたい。

師匠が、自分でモデリングをしなくなったり、見せなくなったりしたら終わりだと思う。
予定調和的な継続ケースの陪席を多少しても得るものは少ない。
うまくいったケースや後からいくらでもつじつま合わせのできる事後検討会やレビューにどれだけ価値があるかはわからない。

結局自分自身でいかに今、あるいは次回に再現性や技術の向上を、ひいてはクライアントのメリットが増やせるかが勝負だ。

批判や、助言をもらったり、評論してもらうことはためになる。
しかし、それ一辺倒では無理がある。

プロ野球のものであっても、選手のプレーを素人がビール片手に、あーでもないこーでもないと偉そうに解説することはは決しておかしなことではないが、それにどれだけ真実性や科学性、有用性があるかは疑問だ。
自分と指導者の関係がそんな風になってはいないか、本当に意味のある助言をもらえているのかは考えなくてはいけない。

2012-08-26 09:00

組織アプローチの角(かど)

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組織を改善しようとするとき_例えば禁煙指導とか、安全衛生を進めるとか_全体の動きとしては、マネジメント・トップマネジメントが断固たる意思を示して始めるしかない。
これがなければ、結果としては一時的なもの、効果の弱いものになってしまうだろう。

オセロで言えば、角を何より優先して取ってしまうことだ。

Sketches / 3

これだけのコツならば、精神論だけが要素の大きな部分を占めてしまうように思える。

しかし、組織の変革・改善が難しいのは、もう一つのコツとして「実際のアイデアや行動は現場に任せる」というものがあるからだ。
マネジメントは命令を出したり、状況を整えたり、促したりはするべきだが、実際の議論や実行は、現場が動かなくてはいけない。

マネジメントがするべきことは、最低限度の予算管理をすることと、最速で要望に対応すること、そして責任を取ることだ。
どれも不可能ではないだけに選択の余地があり、それが却って組織の「変化」や「改善」というものを難しく見せているのかもしれない。

2012-08-04 06:00

精神分析の技術が高いとかは本質ではない

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精神分析だとか、来談者中心療法だとか、交流分析だ、内観療法だ、と理論・流派は数あれど、実際の行動や介入としてクライアントにどう関わるべきかというアウトカムには良し悪しに関する違いはあまりないのではないか。

特に、切羽詰まって、危険が差し迫った状況では。

Sketches / 2

同じ山を登っているとして、裾野や中腹までは様々なルートがあっても良い。
比喩としての山登りだから、頂上に向かうベクトルであるのが大事だけれども。

頂上に近づけば近づくほど、理論が違っていても、行動は驚くほど同じに見えるだろう。

2012-07-28 13:00

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人間の研修を料理で例えるよ

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研修や学習の結果として出来上がった(変化した)人間を料理としよう。
ビフォーの人間は材料・素材ということになる。

出汁や味を染み込ませて一つの料理、つまり煮物として世に出し、お客さん(クライアント)に食してもらうのがゴールになる。

味付けを濃くすれば、よいオカズになるかもしれないが、くどくて日常的に食べられるものにはならないかもしれない。
やはり、元々の素材の味を活かした料理に仕上げたいものだ。

かと言って調味が薄過ぎても、「料理」にはならない。
それでも良いと言い出したら常に、野菜は生のサラダで食べ、肉は生肉のママ、あらゆる食物について加熱や調味料を使わないというようなことになってしまう。

いくら煮込んでも、まったく味が染み込まない素材もあるだろう。

煮込み過ぎて煮崩れてしまうのもいけない。
うまく面取りでもしてあげればいいのかも。

人の研修と煮物はどこか似ている。

2012-06-04 12:00

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