教えるということ、つなげるということ、想定できないもの

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他人に何かを教えようとするときに、一番かんたんなやり方は、相手がすでに持っている知識や情報をつなげてあげることだ。
相手がこれまでに見聞きしたことのない、経験したことのない、まったくの新しいことやモノを教えるのには時間も労力もかかる。

相手が持っているものをつなげることをできるだけ効率よく目指すためには相手のことを知らなくてはいけない。

相手のことを知らなくては教えることはできない | deathhacks

通常は、取っ掛かりとなるような概念やイメージ、知識などがそもそも皆無であれば、時間などの制約がある中では必ずしも思惑どおりに教えるという目標が達成できないこともありうる。

ところで「比ゆ」というものは、そういった共通認識・ベースがない、または非常に少ない場合でもそういった困難な道とコストを華麗にショートカットできる可能性を持つツールになる。
比ゆを使うと、厳密には不正確なものが伝わったり、ちょっとズルをしているようなことになる場合もあるが、何も伝えられない、伝わらないよりも何倍もマシだという状況はよくある。

世の中、なんでも完璧である必要もない。
車を作ったり、エンジンの構造を理解して解説できなくても、運転はできる。
試験勉強で丸暗記するのに語呂合わせで当座をしのぐというのも、それ自体だけでは否定できるものでもない。

はじめに書いた「教える」ということや過程についてあらためて考えてみると3つほどパターンが挙げられる。

  1. まったく新しいことを教える
  2. 何かと何かのつながりや組み合わせを教える
  3. 自発的・自然発生的に何かをひらめく

まったく新しいことを教えるとなると、これは暗記というものになる。
繰り返し、反復以外に有効なテクニックはないかもしれない。
実際には、わずかながらでも別の既知のものとの連絡をみつけることはできるのだろうが。

何かと何かのつながりを示す、というのは今回書いた、多くの場合に目指すと良いと思われる、一番の勝ちパターンだろう。
そのためには「比ゆ」だけでなく、1+1=2(いち、たす、いちは、に)というような「シンプルな論理」や『あるある〜、そういうこと〜』と感じられるような「事例」などが役に立つ。

単純理論、事例、比ゆを組み合わせる理由や背景 | deathhacks

最後の「ひらめく」については、なかなか結果を予想して計画することは難しい。
教える側が教えようと思っていないことを、受け取る側が勝手に思考や反応として生み出して、それがとても貴重であるというこは現実としてよくあることだ。
むしろ人間や生き物が進化・進歩し、良かれ悪しかれ変化していく上では必然的だし、理にかなっているとも思える。

2012-12-13 08:00

(関連エントリ)

レクチャー型学習とコーチング型学習 | deathhacks

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