「わからない」ということ

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昨日は二人から同時に「〇〇さん(ちゃん。私のこと)って何を考えているかわかりにくい」「機嫌が良いのか悪いのか会ってもすぐに読めない」「なんでこないだ、ああしたのか不思議だ」などとなかなか率直な指摘を受けた。

「わからない」ことを受け入れる

世の中、考えれば当然だが、わかること、理解できることばかりではない。
何かの分野で8、9割を理解したとしても、残りの1、2割を自分のものにするには時間も労力もかかることがありうる。
もちろん完璧や100%を目指すこと自体は悪いことではないが、「まあ、こんなもんで今はいいかな」とか「しばらく放っておこー」というくらいのいい加減さ、あるいは現状をそのまま受け取る覚悟のようなものはあってもいいと思う。

「わからない」と感情を分ける

わからないことに対する不安というものは誰にでもある。
裏を返せば、多くの人は情報や知識・能力があればあるほど、安全だったり、物事がうまくいく上手くやれると経験などから知っていて、安心することができる。
しかし、上にも書いたように現実として未知や限界はある。
そのときに感じる不安や物足りなさ、焦りなどは果たしてメリットとデメリットのどちらが大きいだろうか。
「未知のものに対する好奇心は人間の本能ではないか」「足りなさを感じて補おうとすることは成長の原動力になる」という意見はあるかもしれない。
ただ、純粋な好奇心と不安や焦りは分けるなり、敏感に感じ取って認識しておく方がいいものだ。

「わからない」と能力を切り離す

わからないことに居心地の悪さを感じると、原因が知りたくなる。
他人の気持ちや考え方がわからないとなると考えられる理由には何があるだろう。
この理由に能力を結び付けたくなるのではないか。
相手の表現が変わっているのではないか、隠しているのではないか、コミュニケーション技術に問題があるのではないか、などなど。
あるいは、自分が他人の感情を読み取るのが下手なのではないか、経験が不足しているのではにないか、嫌われているのではないか、と。
しかし、先にも述べたように、ただあるがままに誰の力が足りていないというのでもなくわからないということはよくある。
感情と同じく、割りきって、「不思議なこともあるものだ」「変わった人がいるなー」くらいにある意味冷めた視点を持てばいいのじゃないか。

私自身は筋が通っているつもり

私自身は、特に人を煙に巻くとか、奇行で目立とうとかそんな意図はない(と思う)
いたって素の言動、感情表現、コミュニケーションをしているつもりだ。
しかし、今回書いたようなことの逆の了解として、出逢う人すべてに、100%わかってもらうとか好かれるとかいうことは期待していない。
挑戦としては興味深いけれども。

ただただ、なるたけ純粋に、生きてみようなどと思っている。
それは時には、極端に言うと「狂気的なもの」だったり、他人が「傷つけられた」「怖い」「嫌だ」と評価するものだったりするのかもとは思う。

2012-01-29 10:00

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