怒りは攻撃ではない – 怒りの研究その1


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怒りは相手に変化を要求している

他人から怒られたり、明らかに不機嫌な対応を受けたりすると、怖い思いをしたり、悲しくなったり、あるいは対抗するようにこちらも怒ることがあると思います。
あなたがどのように感じ対応するにしても「やられた」「攻撃を受けている」という気持ちになるのではないでしょうか。
逆に、あなたが他者を怒るとき、怒りを表現するときには、教育的指導として叱ることの延長だとしても「懲らしめる」「間違いを正す」という中で相手に改善・変更を要求しているはずです。

しかしここで「怒り」を単純に他人・他者・外部に対する攻撃と見る以外にも、その役割や意義、価値を考えることができます。
怒りは攻撃「だけ」ではないのです。

怒りは抑止である

怒りを攻撃だとだけとらえると、怒りの対象が自分であった場合、恐怖を感じて傷ついたり、反撃してエネルギー使ったりと、何かしらの損またはダメージを被ります。
しかし物事の見方はそれだけでしょうか。
怒りがエスカレートしたとしたら、直接的な接触を伴う「暴力」に発展する可能性があります。
怒りによってその場がいったん収まり、場が変化すれば(必ずしも皆にとって良いものではないかもしれませんが)、暴力を回避できるかもしれません。

生き物にとって、直接的・物理的な攻撃は痛みや出血につながり、生命そのものの危機になります。
それが、是非は保留するとしても、怒りという感情表現・コミュニケーションを用いることによって怒りを出す側と怒りを受ける側の「両者」においてリスクが下がるという効果をもたらします。
もしも「怒る」というツールがなければ、我慢するか、直接に暴力を振るうことになります。
その場合、攻撃した側も無傷では済まないかもしれず、逆に殺されてしまうことさえありえます。
そのようなリスクを最小限にする効果が怒りにはあります。

人は傷つく

しかし、直接的な接触がないとは言ってもしかし、人間は悪口を言われても傷つくし、驚かされても傷つく、デリケートさも持っています。
これは人間が他の生き物に比べて高度に(一応そう表現しておきます)発達した知能や知識を身につけたからです。
同じ状況でも未来や短時間先が予想できるからこそ不安になり恐怖を感じます。
同じ言葉や扱いを受けたとしても、様々な想像をし、そこから自然と最悪の(あるいは最良の)背景や状況を想定します。
人間に感情がなかったら、知能がなかったら、起こりえないような思考や影響が色々とあり、我々に取ってそれらはある状況にはおいては「良いもの」として写り、ある場面では「悪いもの」として、時にかえって生命の危険につながることもある、清濁合わせ持つ自称と言えるでしょう。

2011-02-01 07:00

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