人間の眼の機能について私はまだ何も知らない

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今回は珍しく人間の生物的な機能としての「眼」の性質についてメモ的エントリを。

私は医者だから、ひと通り、医学的な、学問としての人体やその関連については当然学習している。
かっちりと基礎から勉強したのはもう15年以上も前になる。

しかし、今ごろ、最近になってからも、あらためて人間について「知る」機会は多い。
もちろん現在指向しているような心理や社会学上の人間というものについては発見ばかりだ。
それだけでなく physical なことについても、昔はなんとなくわかったような気になっていたが、実際の日常や自身の体験としてあらためて再発見することがよくある。

その流れで、「眼」や「視力」というものについて。

  • 知り合いにも、色々なタイミングで出産や乳児・幼児を子育て中ということが増えた。新生児から乳児くらいまでの間に、視力は成長する。人間の眼は生まれながらに「1.5」とか「2.0」というような能力を持っていない。赤ちゃんはたいてい目の前近くにいる両親をボヤーッと見ているだけだ。後は光の明暗を感じているくらい
  • 眼には中心視力というものがある。簡単に言えば、視野に入ったものすべてにピッタリと焦点が合って、はっきり見えているというわけではないということ。意識して視線を定めたごく狭い範囲でしか文字を読んだりすることはできない。これが腑に落ちた体験は、自分で撮った写真を後から眺めていて、なんで撮っている時にはこのディテールに気付かなかったのだろうと思えることが何度もあったため。静止画として固定した写真ではじっくりといろいろな箇所に視点を向けられるから、当然撮影時には認識できなかったような細部まで観察することができる
  • 中心視野に関係してもう一つ。街を歩いて、知り合いに偶然あったりするような時に、ごく近く、ほんの1m前や横に相手が来るまでまったく気が付かないということはよくないだろうか。これは単に意識をしていないとか、気を抜いていたからというだけが理由ではない。人間の眼はしっかりとその方向に視線を向けなくては物の形や人の顔などを判別することができないのだ。かえって遠くからまんべんなく人の雑踏を眺めていたりすると(確率的な問題はもちろんあるが)知人を見つけてしまったりする

このように、専門的であってもそうでないにしても、「知っている」ということには単なる「知識」というレベルだけでなく、「体験としてしっている」「適切な事例を挙げられる」などの段階がある。

ただ好奇心を満たすという望みだけであれば別だが、世の中すべての事柄について「体験」や「事例」のレベルまで詳しく知ることは不可能だ。
そのことを知った上で、専門家としての領分では自分の知識や技術が果たしてどのレベルであるのかを、吟味して自分自身に突き詰めることを繰り返さなくてはいけない。

2012-08-07 15:00

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