教育者の資格は技を見せられることのみ

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他人にものを教えたり、指導したりする資格があるか否かの判断材料は、その人が実際にその技術や知識を相手や周りに見せることができるかどうかという一点のみで測られる。

大事なことは、次の2点だ。

  • 技術のレベルは大した問題ではない
  • 「見せることができる」というのは、心理的に拒否や躊躇をしないことと、見せるためのプレゼンテーション能力があることの両方を含む

技術のレベルが問題ではない、というのは、教わる、あるいは参考にする価値がないか、教わる人間が理解できない場合には自然に教える教わるという関係が消滅するか、そもそも生じないことによる。
この部分は常に流動的で不安定だから、コントロールしようとすることがかなりナンセンスだろう。
それよりかは単純に実直に技術と知識の量と質を高めることに愚直に集中するべきだ。

2番めの「拒否や躊躇をしない」というのは、絶対的条件だ。
これがなければ教育が成立しない。
これなしに存在しているように見える教育はすべて「ウソもの」だ。

カウンセリングの教育であれば、ロールプレイでもモデリングでもガンガン見せて教えればいい。
言葉で説明できても、実際に自分で再現できないようなことを誰がまじめに教わる気になるだろうか?
私が認める教育者、指導者は皆いくらでも出し惜しみをせずに実践を見せてくれる。

2013-02-13 11:00

実際にトレーニングしなくちゃ足は速くならない

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3月にフルマラソンに出ることもあって、ランニングやそのトレーニングについての本や雑誌を読んでみている。
アスリート個人の主観からのエッセイ・心理・生い立ち・精神論・根性論的な書籍や情報は最近は少なくなった。
それは歴史や蓄積によって、科学的な証拠・トレーニング理論が構築されて普及し始めているからだと思う。
論理があるのに始めから精神論を掲げては、一定以上に真面目な、インテリジェンスが高いアマチュア〜ハイアマチュア、セミプロランナーは興味を持てない。
業界・分野が成熟してきているのだろう。

マラソンに関する文章を読んでいて、その情報を噛み砕いて、自分自身に照らしあわせて、これからのレースまでの期間、それ以後の自分のランナー人生や計画について思いを巡らす。
「ハーフマラソンで1時間50分を切っているからいきなり初回のフルマラソンでサブフォーも夢ではないかな」とか「LSDを伝統墨守的に取り入れるよりもやはり今どきはポイントポイントで強度の高いトレーニングをするべきだな」とか「1kmを5分40秒ペースで走り続けられることがサブフォーの目安になるのね」とかいうことを頭にいれていく。

しかし、こうした情報を昨日今日読んでいたときにふと強烈に思ったことは、「文字を読んで腑に落ちた『だけ』では足は速くならないよな」という、至極当たり前のことだった。
仕事帰りに、「このまま家に直帰したら意味がないし、これまでの人生と何も変わらない」と感じた。
ということで、その足で昨日もジムに寄り、トレーニングをした。
いつもだいたいが「1km6分」のペースでランニングマシンを使い5km走るのだが、昨日は「5分30秒/km」で走ってみた。

少し息は上がるがペースは問題なく維持できる。
心拍数は結構上がってしまっていそうだったが確認してみると145回/分とまだ余裕がある(むしろ単に疲労しているという時のほうが150回/分を超えてくる)。
むしろフルのレースでは脚力・筋力の方の負荷に気をつけなくてはいけないかもしれない。
終わってからも特に問題なし。
これからはこのペースでトレーニングしていこう。
できれば20km〜30kmを走るトレーニングをしておきたいところ。

なんでもそうだが、頭で理解しているだけでは実践できないし、実力はつかない。
行動して、失敗し、フィードバックを受け、実体験をし、汗をかかなくては筋肉やセンスは身につかない。
そんな当たり前ののことだが、実感して、実際にアクションを起こすことは簡単ではない。

2013-02-05 07:00

酸欠か、脱水か、ハンガーノックか、わからない

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こないだトレーニングをしていて危うくイキかけた。
トレーナーに付いてもらいながら、厳し目のメニューで追い込んでいた時だった。

自分も、せっかく見てもらっているわけだったので結構やせ我慢して身体の異常に気づいてもストップしたり、トレーナーに伝えたりすることを怠った。
結果、少々の間、頭がボーッとして、身体もなんとなくしびれてダルくなり、横になって休まざるを得なくなってしまった。

意識はまあしっかりしていたし、どんどん悪化するとか、息苦しさが強まるというのでもなかったので、心配するということはなかったけれども、こういうのは嫌なものだ。
自分の限界を知るというのも嫌だ。
そんな状態は中学とか高校とか大学とか、クラブ活動でもほとんどなかったのじゃなかったか。

そして、その状態や原因は、はっきりしない。
自分が医者であっても、なかなか感覚的なものとして、判断するのは難しいと、今回あらためて思う。

おそらく状態・原因としては三択で。

  • 低酸素血症(酸素欠乏)
  • ごく軽度のショック(脱水、循環血漿量の減少による)
  • 低血糖(ハンガーノック)

ふりかえって考えると、食事はちゃんと摂っていたし、水分もまあ十分補給していたと思う。
するとまあ、単純に低酸素血症だったのだろう。

基本的にはスタティックな感じの体幹トレーニングだったので油断したが、途中途中に挟まれた有酸素運動がかなり激しかったかも、と。

反省するとともに、久しぶりに自分の身体を通して興味深い体験をした。
次回以降に同じような失敗や危険を防ぐツールとして血中酸素飽和度モニターを買ってみようかしらと思ったが、血圧計とかよりも価格として高めだからさすが購入には至っていない。
最近は、AEDとか、超音波エコー装置とか、個人でも欲しいと思えばかなりの本格的な医療機器や器具でも手に入れられそうだから物欲としては強まっているのだけれども。

2013-01-19 13:00

筋トレと心理が似ているという話

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最近になって自分の身体を鍛えることに関心を持つようになった。
前職の時にこそ身体を整備しておいたほうが良かったんじゃないかという気もするが、時間や気持ちの余裕、自由度が少なかったからか、そういうモチベーションが上がらなかった。
今ならフリーランスだから、休みも取りやすいし(というか仕事を入れなかったら収入が途絶えちゃうんだが)、平日の朝イチから慌てずにジムを利用できたりする。

2011年にフリーになってからジョギングをなるべくするようにしてみたり(あとハーフマラソン出た)、2012年の頭から腕立て伏せを続けてみていたり(今もやってる。フォームはいい加減だけど……)、2012年後半からスポーツジムに通いだしたり(今、成り行きで2箇所行ってる)と自分でも目先を変えつつ身体を鍛えている。
あと、最近10kmレースも走った。

自信をつける方法 | deathhacks

筋トレをしてみると、アラフォーでも続けていればちゃんと逞しくなってきて変化が目に見えるから面白い。
勉強や資格、技術とかと同じで、自分の変化や成長に興味が持てる状態になると慣性がついて続いていく。
ゴールの有無とか、それが有意義かどうかとかはあんまり関係ないんじゃないかと思うし、意識はしていない。

それで、筋トレと心理の話。

闇雲なトレーニングにも疑問をずっと持っていたり、飽きも少し感じてきていたりして、トレーナーに教えてもらってのそれを始めてみている。
10年くらい前に耳にはしていたが、実際に体験する機会はほぼなかった「体幹(コア)トレーニング」という方向から鍛えるのが主流のようだ。
内容や理論の初歩を聞いてみても納得できる。自分の持っている医学や物理学、生理学などの観点から考えても、という意味で。

で、自分の弱点としては姿勢の悪さとか、関節の固くて動きが悪いことなんかを認識できてきて、そこをまずは改善することにしている。
「関節が固くて動きが悪い」といっても要素を分解してみると単純ではない。
バックブリッジをして股関節を動かしたりしてみると左右差が現れてくる。
新鮮な感覚だし、定量的な指標だから改善や修正のしがいがある。

関節の動きが固いというのは今の自分の認識としては3つの要素の一つあるいはそれ以上の組み合わせで起きている事象ということになる。
3つというのは「筋力」「神経」「関節そのものの固さ(軟骨間の摩擦力過剰とか、靭帯の伸縮可動性とか)」だ。
動きの悪さは定量できても、その原因がどの要素に依るものかは自分でも見てもらうトレーナーでも簡単には判じられない。
様々なストレッチやフォームチェック、トレーニングを早速始めて試行錯誤してみるしかない。

そして心理についても、同じように要素を分けて考えられるんじゃないかと。
勝手に言ってみると、筋力は「エネルギー(身体や精神の活動のための)」、神経は「気持ち」、関節の固さは「言葉(言動、でもいいか)」という対応だと思う。
心理体な問題やトラブル、不具合、変化があった場合、それらをそのまま扱うよりはなんとか少しずつでも要素に分解して観察し、改善していった方が有効な場合がありうる。
「エネルギーが足りないんじゃないか(疲れてない?)」「気持ちの上でなにか我慢してしまっていることに気づいてない(もしくは隠している)」「言葉や行動を自分ではコントロールできない(だけ)」のように考える。

こんな風に筋トレと心理という一見すると縁遠いものが、扱い方のコツとしては似通ってくる。
観察やストレッチ、負荷を調整しながらのトレーニングはまったく同じノウハウが使える。
こんな独自理論も良いのではないか。
他の人でも腑に落ちるような表現とか使い所などを工夫する必要はあるが。

2013-01-06 08:00

自信をつける方法

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自信をつけるための一つの方法として。

身体を鍛えるというのは結局一番手軽でやりやすいのじゃないかと思う。

身体を鍛えて効果を感じるためには、トレーニングを継続するしかない。
この「継続」ができたときには大変な自信になる。
相当嫌なこと、生理的に向いていないことを、半ば強制的に自分に強いての仕事などでなければ、継続する力、というか性質・習慣のようなものは内面的な財産・ツールになるのではないか。

もちろんトレーニングで得られた運動力やら筋肉やらも、なんとなくの自信のもとになる。
たとえそれらを実際に使うチャンスが生活や仕事の中にほとんどなかったとしても。

身体を鍛えるとか継続するとか言っても、何をしたらいいかと言えば、とりあえず腕立て伏せを10回でも20回でも毎日やってみると良い。
筋肉がつくとか、同じ回数やっても身体に疲れや痛みが残らないといったところから、わずかにでも変化、つまり成果が感じられてきたならばそれは小さいかもしれないが「成功」だ。

今回の話のポイントとしては、一例としての紹介なので自分に合わないと感じてどうしても気乗りせずに嫌だなーと思ったならばやらないこと、身体的なトレーニングの効果はやっぱり若い体の方が表れやすいので40代、50代の人ならば結構厳しいかもしれない。
その辺りは通り一遍の表現だが「個人差」がある。

と、38歳で腕立て伏せを一日50回、10ヶ月続けてきてみて感じていたり考えていたりする。

2012-11-16 07:00

メッセージコントロールの5ステップモデリングは、ゆっくり、じっくりと、見せる

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カウンセリングでの表情5ステップを講師として受講者に教えるのに有効なのはやはりモデリングだ。
だが、ササッとやってみせて「ハイ、では皆さんやってみてください」では効果はでない。
意識して、通常の会話やカウンセリングでやるがごとくより、さらにゆっくりめの間(ま)と動きを心がけなくては伝わらない。

なんといっても、想定する受講者は、メッセージコントロールというものをまったく知らないし、自分の表情を意識するという経験が少なかったはずなのだ。

当たり前のコツになるが、目の前にクライアントがいるイメージで一連の《興味津々→納得・了解→驚き→疑問→共感》のような流れをモデリングする。
それを10数名から100名くらいの前でもキチンとやり切り、「なるほど、これをやったらメッセージがうまくクライアントに伝わりそうだ」「ちょっと難しそうだけどメリハリはわかったぞ」と感じさせなくてはならない。

講師としては、やってしまいがちな失敗がいくつかある。
緊張があると、動きが早くなり過ぎるし、間もなくなる。
動きが早くては受講者から見ると何がなんだかわからない感じになる。
間がなくてもリアリティがなくなる。

これは、講師が自分のメッセージコントロールに結局自信を持っていなかったり、気持ちのどこかに気恥ずかしさが残っているから、早くモデリングを終えて受講者にやらせるパートに進みたかったりということが表れてしまうのだろう。

しっかりとモデリングを示しさえすれば、言葉での説明は最小限で済む。
かえって楽だし時間もかからない。
言葉で理屈やコツをいくら説明しても逆にノイズになる、くらいに思っておく。

2012-11-09 07:00

目からウロコのカウンセリング革命―メッセージコントロールという発想
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文章を毎日書くということ

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文章を毎日書くことで、色々な準備ができる。

漢字や言葉の使い分け、自分の作文の癖、MacやiPhoneやWebやエディタツールなどの設定と調整、書けるおおよそのスピードなどなど。

これらをトレーニングしておけば、いざという時に最小限の慣性モーメントで動きだし書き出していくことができるようになってくる。

2012-09-25 08:00

Posted from Drift Writer on my iPad

カウンセリングロールプレイのふりかえり焦点2つ

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カウンセリングのトレーニングでロールプレイをした場合、その後のふりかえりをする焦点が2つ考えられる。
ひとつはそのケース自体のこと。もう一つはプレーヤーのこと。

何人かでふりかえりのコメントをし合ったり、議論したりする時に、互いに話していることがこのどちらであるかがずれていると効率が悪くなる。

ロールプレイで扱ったケースに対して、処置が良かったとか、もっと工夫できたとかいうのと、プレイヤー(特にカウンセラー役)に無意識の癖が出ていたとか、個人的な葛藤や抵抗があったとかは少々観点が異なる。
これらは行ったり来たりして話し合うよりも、順に皆が意識しながらふりかえりをしていった方がいいだろう。

2012-09-18 08:00

カウンセリングトレーニングの実際問題 その1

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カウンセリングのトレーニングをしていて。

わかっていること、自分で気づいて意識しているつもりのことでも、あらためて他者の視点からフィードバックをもらうのは大切だ。
過剰に意識しなくてもいいが、おそらく無数にあったであろう観察情報からチョイスされたことも考える。

ふりかえりでは色々なことが指摘として出てくるが、それを以降の実践現場に活かせるかどうかはまったくの別問題だ。
厳密に言えば、情報や事実としてどんなに適切なフィードバックを受けたとしても、それを活用できないのであれば無駄情報ということになる。
ただし、その取捨選択にしても表に出して一人で、あるいは皆で吟味してみなくてはわからないことがほとんどだ。
だから、とりあえずテーブルの上に出してしまおう。

カウンセラーのアクションやリアクションの良否に十分に確実な判定が下せることはどうせ少ない。
後からふりかえって「あーだ」「こーだ」言うのは、ちょっと流れを外すと非建設的な議論となりやすい。
あくまで参考情報や可能性として捉える。
良否の両者を検討し、リスクや裏メッセージになりうる部分があったら、それへの対策を探しておけばいい。
理想としては、こうしたロールプレイとふりかえりを100回、1000回と繰り返し(現場もこなし)、パターンを見つけ身につけたい。

2012-07-23 10:00

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スポーツで身体を鍛えることは倫理的にOKか?

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倫理的な事柄の判断は難しい。
ケースバイケースの部分もあるし、時代や世情、技術の進歩によっても変わる。

医学・心理学など、経験的に知られていたり、動物実験などでわかっていたりするものでも、必要に応じて実際の社会や人間そのもので確かめなくてはならなかったり、効果や変化を見なくてはいけないことが出てくる。
そのとき、どういったモデルや仮説をたてて実行するかは、テクニックの問題だけでなく、倫理が絡んでくる。

実際に、心理的な研究をするにも、訓練をするにも、不必要な危険や害を為してはいけない。
それはわかる。
しかし、結局はこの考え方自体はゼロリスク要求になりかねない。

例えば、惨事後の心理研究や教育をするのであれば、必然的になんらかの惨事を想定したり、それによって衝撃を受けたモデルやロールを用意しなくてはいけない。
人やものによっては、「惨事を仮定するのが不謹慎だ」とか「この設定はロールをする人にショックを与えるかもしれないからダメ」というような意見が出るかもしれない。

だが、こうしたことを言い出したり、意見を聞いていたりしたらキリがないし、何も変化や発展をもたらすことはできなくなってしまう。

スポーツのトレーニングで、選手にプレッシャーを与えたり、肉体に一時的にでもダメージを与えることは倫理的にどうだ。
テレビ番組ので(もう古典的といっていいが)ドッキリ企画でタレントにショックを与えたり、さらにそれを公開するというのはどうか。
「はじめてのお遣い」企画だって、短期・長期のリスクがないかとか言い出したりする人はいないのか。
科学上の二重盲検法も、別にお墨付きを一応もらっているだけで、100%正しいことをしているわけではない。

こういった問題は考え続けなくてはならないし、簡単に安心してはいけない。

2012-07-02 08:00

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