カウンセラーを育成しても組織のメンタルヘルスは向上しない

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私個人の意見として「研修などによってカウンセラーを育成してもメンタル不調者の減少にはつながらない」と言ったら、実際に研修に携わっている人や人事から反感を買うかもしれない。

しかしおそらくこれは間違いではなく、確率的に分が悪いとか、費用対効果が高くないとかいう意味では正しい。
確実な、目に見えるような変化や効果は期待できないだろう。

考えてみると「カウンセラーや専門家が増えれば皆のメンタルヘルスが向上する」という論法は、明らかに正しいように見えて実は定量的な成果、時間的な制約などが入ってはいないため、評価しようがない。

逆に考えてみるとよくわかるはずだ。
「メンタルヘルスを向上させる」という目標がまずあったとして、その手段が「カウンセラーを育てる」だけということはあり得ない。
他にもいくつものプランや考え方、資源があった上で、その一つが「カウンセラーの育成」であるに過ぎない。

労務管理を整備する、勤務報酬を上げる、業績を拡大してやりがいを増やす、健康診断の情報から改善点を見つける、福利厚生を充実させる、外部サポート資源を利用するなど、採ることができる手段は無数で無限だ。
これらを一つひとつ検討し、導入し、全体もしくは個々の効果を可能な限り厳密に評価し続けるのが結局最も効率がいいメンタルヘルスの増進維持施策なのだ。

こうした中の一手段である「カウンセラー育成」は特に効果測定が難しい。
そもそもカウンセリング自体の効果測定が広く確立されてはいない。
しかもカウンセリングは前提として、組織などの対象者全員が利用するという位置付けではないことがほとんどだろう。
つまり少数の者の利用事例から成果を評価しなくてはならない。

欲張らないのであれば、長期的な効果測定はしながらも、カウンセリングがうまく機能したケースを記録したり、匿名化などの処理を適切にした上で適切な範囲で共有するというくらいがちょうど良いだろう。

2012-05-07 08:00

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適材適所と適所適材と

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組織というものは、枠や部署、役職がまずあって、そこに人材を当てはめていくものだというイメージを持っていた。

しかし、まず人員がいて、それを活かせるような、ポストやチームを作ってもいいということに最近気づいた。

特に新しい、もしくはフレッシュであったり、劇的な成長を目指す組織であるならば。

2012-04-16 18:00

良い人材を入れ、その人材を起点にして組織が成長していく

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「良い」人材というのは基準があいまいだが、とにかく素晴らしい能力やカリスマ性、ガッツやパッションを持っている人というイメージで。

スター選手ばかりを揃えても弱いスポーツチームというのは存在するわけだが、それは別に個々の能力が高すぎることがただ一つの失敗理由ではないはずだ。

人材を部品として組織に取り込むのではなく。

そうした場合、「組織に合わないから」「会社で与えられる仕事がないから」ということで去っていく人間はいなくなる。

EC Studio はそんな感じの方針みたい。

日本でいちばん社員満足度が高い会社の非常識な働き方

2012-03-23 08:00

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不自由が嫌だ

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組織に属していれば異動や配置換え、望まぬ仕事(違法とかいうのではなく。期待がこめられているのかもしれぬ)などが降りかかってくる。

稼ぎ、そして生活がかかっていればなおさら、簡単にこうした「命令」を断ることはできない。

しかし、自分は、自由が捨てられない。

命令に従い、現状の安定や維持を優先することを否定はしない。

ただ、そうすることは、組織への埋没だったり、非競争主義だったり、思考停止だったりするように思う。
あるいは自分に起きた悲劇への陶酔になっていないか。
殉教者きどりをしていないか。

不自由を嘆くのは嫌だ。

2012-03-21 08:00

(関連エントリ)

自由と時間と健康とお金の話 | deathhacks

自由について | deathhacks

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チームが意思決定するときには事前に準備しておくことがある

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選択はまったくの自由なのだが、ある仕事を為すためには、一人でやるか複数人のチームでやるかに分けられる。
そしてチームを組むことを選んだ場合に仕事そのものではなく、システムとして重要な要素が、リーダーシップと意思決定だ。

リーダーシップとは、チームや組織の具体的な大目標や方向性が決まった状況で、チームの一人ひとりが最大限活躍し成長し満足が得られ、かつ組織全体としても成果を上げ目標を達成するためのマネジメントのこ
とだ。
リーダーシップについては今この本を読んでみている。

リーダーシップの心理学 (講談社現代新書 (725))
国分 康孝
講談社
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さて、もう一つの要素の意思決定について。
これはいわゆる民主的な運営スタイルを取っているチームや組織の中で行われる合議や相談にあたり、ツールとしては多数決などが使われる。
組織内であらかじめ権限や責任がはっきりと分担されていれば(リーダーシップも分担された役割の一つだとも考えられる)、普段は各人それぞれが自分の範疇の仕事を小判断・小決定をしながら進め、必要な段階や対象、重大性があるときに意思決定という組織業務が現れることになる。

複数人が情報や意見を出し合い、状況判断や方針決定をするとき、もしくはそうした仕事が予想されるときに大事なことは以下のようなことだ。

  • 意見が食い違ったときにどう処理をするのかを先に決めておく。多数決でも、原則全員一致でも、(意見が割れたときには)最上位者に一任するでも、どれでも良いと思う。ただし、話し合いや決定をする段階の前にやり方を決めるべきだ。でないと、それぞれが自分の存在や意思を尊重された感じにならず不満の元になる。多数決の結果が反故にされ、上位者や押しの強い人間の意見が優先される結果になるなどのように。
  • 議論や意思決定の過程を記録すること。誰がどういう意見を出したか、多数決をしたときの少数意見としてどういうものがあったか、折衷を図ったかなど。これは一つ目の「意思決定のやり方」にも関連する。最終的に出す結果はシンプルであっても、反対意見や少数意見が最後まで懸案事項として残ったのか、それとも説得されたのか、あるいはトップが強権的に責任を持って裁量したのかということを曖昧にしないためだ。ここが曖昧だと繰り返し同様の会議をしたときに振り返ることができず、組織の一貫性が落ちる。
  • 上記2点を踏まえた上でも、複数人が会議し意思決定をしたならば、その決定事項は会議参加者以外から見れば参加者全員の成果だと見なされる。例えば後から「自分は最後まで反対をしていた」とか「リスクに気づいていた」などと言ってもいいが、それは単なる事実であって、責任を減らす役目にはあまりならない。それが意思決定や会議というものだと思う。

2012-01-28 09:00

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倫理規定をつくらないことのリスク

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団体や個人が心理カウンセリングもしくは危機介入などを業として請け負う場合に「倫理規定」を持っていない場合のリスクについて考えてみた。

心理カウンセリングやメンタルヘルス周辺のサポートというものは、医療との間に少なくとも日本の制度上は一線を引かれているが、ヒポクラテスの誓いを元にした「害をなしてはならない」という原則は最小のルールとして適用されると一般に考えられている。
一方、多くの団体(例えば、産業カウンセラー協会や臨床心理士会など)では、倫理規定を独自に整備しそれにのっとり現場や運営を管理している。

倫理規定を作り公にし運用していないと、以下のリスクがあると考えられる。

  1. 外部から、倫理規定すらないのかと見られる
  2. 非倫理的と思われる事柄があいまいなため、運営・活動の判断や行動を躊躇する
  3. 個別の非倫理的事案に対して判断や裁定を下すのに都度時間や労力がかかる

1については一定規模以上の事業や団体であれば、倫理規定があって当然という時代になっているという現実がある。
個人情報の取扱いについてやや過剰とも言えるくらい説明や同意の確認がされるのと似たようなものだ。

2で想定しているのは、個人個人が常識と思っていることの違いによる混乱やトラブルが日常的にあるということだ。
細かな不具合があっても、社会や行政などの多数やお上が咎め、悪いことや避けるべきこと、してはならないこととして決めていないことすべてに対していちいち指摘したり気をわずらわせたりすることは気持ちの上で大きなロスや消耗につながる。

3で挙げたように、実際に明らかなトラブルがあったときにそれをどう処理するのかということを考えておかなくてはいけない。
その処理にあたり、基準がまったくなければ、それぞれに対して一から議論をし判断をしなくてはならなくなる。
そして一度そうした仕事をしても、それがまた再利用できる確率は低い。事案というのはすべて固有の要素からなっているからだ。
これが個人ではなく団体であれば、トラブルのたびに集まり相談し決めるということに大きなコストを払わなくてはいけなくなる。

倫理規定を作るか否かについての私見

こうした規定というものは、トラブルや事件が起きてから考えるべきものではない。
後からさかのぼって当てはめるということは一般の法と同じくやることは適切ではないからだ。
それこそ、そうした事自体が非倫理的と思われかねない。
理想的には、可能な限り予想できる事態に対処できるような共通認識を明文化し、トラブルの予防のために利用できるようにしておくことだ。

実は私は、倫理規定をどんな個人カウンセラーや心理サポート団体であってもつくるべきだと言っているわけではない。
今回書いたようなリスクがあることをわかった上で、そのデメリットよりも大きなメリットがあると考えれば、慌ててこうしたバックオフィス的な仕事を優先する必要はないだろう。

心理カウンセリングや惨事に対する介入サポートというものは、扱う内容やテーマが人間関係や人生そのものということになる。
しかもその内でも、個人の力や法律、金銭などでは解決したり、良い変化をもたらすことが難しいものを扱うのが必然となる。
もちろん、繰り返しになるが、一つ一つすべてを時間と労力を使って話し合い、議論を詰めて結果を出してもいいのだが、多くの場合「ケースバイケース」というような言葉であいまいさが残るだろう。
それが人間関係や集団の社会というものだ。

なぜそれ(倫理規定)があるのか考えたことがないが最初から当然のように頭にだけは入れ守っていた人も、そもそも有意義なことをクライアントの合意の上でやっている行動(カウンセリングやサポート)なのだから問題が起こったり非難されたりすることはあるはずがないと思っていた人も、あらためて考えてみるべきテーマだと思う。

2012-01-23 11:00

(関連エントリ)

倫理規定は要らない | deathhacks

(関連URL)

倫理規定を作らなかった倫理的な企業:発想七日!:ITmedia オルタナティブ・ブログ
鎌田麻莉、気ままに日々を語ったり、お知らせしたり | 倫理綱領について その1
ヒポクラテスの誓い – Wikipedia
害をなしてはならない – Google 検索

ふりかえりだけでは後手後手になる

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セミナーを開催したときも、危機介入活動をしたときも、仲間内では必ず「ふりかえり」をするようにしている。
「ふりかえり」とは要するに反省会だ。

反省会とは言っても、ミスや改善点を指摘しあったりするだけではなく、良かった点やうまくできた強みの部分を確認し合うなどして今後の活動に向けてのモチベーションを高めるという目的も持っている。
そして、その対象は複数人のチームとしてのものと各個人ごとのもの、両方について皆で行う。

キチンとした組織や会社などであれば、こういった改善・検証のシステムはかっちりと決まっているのではないかと思う。
しかし、営利を最優先目標にしていない活動や、私的な集まり、色々な背景を持つ者が一時的に集まってチームスタッフになるような場合には、時間や場所の制約があったりなどして、この当たり前のような機会が持てないことも多い。

ふりかえりをすることの効用については、科学的ではないものの、疑うところはない。良いシステムだと思っている。
けれども、それさえやっていれば心配なく成長していくことができるとか、間違いが減るというものでもない。
ふりかえりシステムにも弱点や不得意なテーマというものがある。

なにかしらの活動を終えてから、ふりかえりをするとして、まず先ほども書いたように、時間が少ないという問題がある。
キッチリと時間を取ることを予定に入れていたとしても、本編である活動が長引いてズレこむこともある。
時間と併せて、スタッフだけで落ち着いて静かに話しあう場所が確保できないかもしれない。

また、順番として最後時間の活動であるから、スタッフが疲れている(はず)という条件もある。
個人の都合で、早いタイミングでもう離脱をしていて、ふりかえりに参加できない人間も出てくることがありうる。

こうした制約を考えてみると、ふりかえりの特徴としてはその中で新しいアイデアやチャレンジが生まれにくいというものがあるのではないかと思っている。
もちろん、良い考えや発想がまったく浮かばないとまでは言えない。
しかし、そういうものが出てきたとしても、協力して深めたり、具体化したり、計画を立てたり、流れを作ってスタートさせたりするまでの段階に到達しにくい。
参加者は時間が少なく、疲労しているからだ。

一つの傾向として、会議などで新しいアイデアが出る条件としては、「インプットが十分にされ時間をかけて考えぬいた」「疲れていない、あるいは心身ともに休めた直後というタイミング」などがある。
しかし、ふりかえりではこれらの条件を満たしにくい。

ふりかえりは、イベント終了後、緊張をほぐして、チームスタッフ間のコミュニケーションを確認して深めたり、各個人の頭と身体の両方のケアを互いにしたりするのには最適の方法の一つだろう。
だが、その場で出たアイデアや新しいテーマ、改善点などをそれぞれが持ち帰っても別々に活用したり、スキルアップの素材にすることはできるだろうが、組織的かつある程度の期間にわたって活動の母体を改善したり変化させていくのにはそれほど向いていないのかもしれない。

変革のためには、その目的を、「ふりかえり」という過去に向いた反省などではなく、未来に視点を向け絞った話し合いや発想の場がないといけない。

2012-01-08 11:00

組織がうまくいかないのはコミットしていないから

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組織がうまくいかない原因は様々だ。
若い組織、特に同好会やNPOのように参加する者の意識に差がある集まりでは、組織の仕組みが最初から確立していることは少ない。

運営をしているうちに、問題が色々と出てくる。
仲間を増やすか否か。
金銭コストをどう扱っていくか。
少数の意見が勝手に通ってしまっているのではないか。
皆のために働いていない人がいて不公平じゃないか。
などなど。

このような組織・レベルで問題が起きている場合、しかもそれが続くようなときに、根本的な原因は何だろうかと考える。
組織の仕組みや手順がしっかりとしていないからだと思って、どんどんルールや書類を増やしてもたいていは焼け石に水だ。

必要なことは参加者一人ひとりのコミットメントだ。
コミット、つまり納得や同意である。
一見どんなに歪なシステムに見えても、そこにいる人が納得していれば問題は起きないし感じられない。
国家の歴史で言えば、複雑な変遷はあったにしても、国民の同意の積み上げによって、過去に独裁国家や似たものがあったわけだ。
他から、あるいは未来から見て、どんなに変な状態でもその時、当事者にとっては極めて自然で満足度が高かったりする。
逆にどんなに頭の良い人や優秀な学者たちが、ルールやシステムを作ったとしても、まとまった良い国家や組織になるとは限らない。

納得や同意をするためには何が必要か。
自然にできる場合もあるが、それだけに頼るのはまったくの運任せになってしまう。
納得と同意は話し合いによってしか生まれない。
しかも参加者が本当に言いたいことを出しきる必要がある。
惨事後のグループミーティングと一緒だ。

2011-10-07 07:00

セミナー受講者をクライアントとして扱いすぎない

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セミナーや実力認定試験などを開催していると、定員にあふれた人や試験に落ちた者から「次回はすぐにやらないのでしょうか?」とか「本当に1年後まで待たないとまた受けられないのですか?」という要望や質問を受ける。
それに対して、こちらは金銭的・人員的・集客的なコストやリスクを見積もるわけだが、なかなか期待に沿うことは難しい。
ウチの組織に限って言えば、元々、多くの余裕を持って最小限の運営をしているのではなく、現実的にいっぱいいっぱいのリソースをつぎ込んで年度単位で計画しているからだ。

我々が提供している情報や技術はメンタルヘルスやカウンセリングに関するものだ。
その感覚を使えば、確かに参加希望者の「焦り」のような欲求は理解できる。
彼らにしてみれば、無為に過ごすというか、数ヶ月やら1年を待つことはとんでもなく長い時間に感じるのだろう。
一方、逆の立場から見ると、常に色々なプロジェクトを動かしたり、異なるセミナーなどの活動は恒常的にしているから、要求に応えるのをサボって、のんびりしているわけではない。

うつのリハビリ期での回復にかかる期間の見積もりで、カウンセラーとクライアントの感覚が相当異なることと似ている。
たいてい、カウンセラーは「短めに、あるいは最短に」見積もって3ヶ月から半年などとクライアントに伝えるが、復帰に焦る多くのクライアントにとってみれば、その「最短」を永遠の長さのように感じてしまう。

しかし、我々のセミナーに参加してくる人たちは、基本的には健康、ないし健全性の高い、しかもその人たちそのものがクライアントを扱うプロとなっている。
そのような背景を持つ人たちが、「1年も待たされたらおかしくなってしまう!」みたいなメンタリティをあまりに強く持ちすぎているとしたら、それはその人自身の問題が大きいように思う。

提供側の我々は継続的に最大限の経営努力はする。
しかしながら、消費者(参加者)側は現実原則としての限界を知ったならば諦める。
それが適切だろう。

我々が、過大に配慮して、メンタルヘルスのプロをクライアント的なメンタリティを持っていると考えて扱うのは、不適当だ。
冷静に見て、ある特定の人(プロ)が無理に実力を付けたり、評価されたりする必要性や意義はその人そのものの中にしかなく、その外部にはない。

「私の担当しているクライアントが大ピンチなんです」とか「私の所属組織を良い方向に変えるには私に資格がないとうまくいきません」というのは、考えすぎのことが多い。
その時点でその人が持っている実力やリソースを使うなり、別の人間と協働したり、スーパービジョンやアドバイザリーを受けながら活動するなどすれば良い。
本当に、ほんとうに、その人が、今、頑張らなくては、世界が終わってしまうとか、致命的な何かの事態が起きるということはそうはないはずだ。

2011-10-05 07:00

NPOの理事は頭、事務は手足

R1009380

NPOが継続するためには頭たる理事・代表も必要だし、手足たる事務局や実働人員も大事だ。
しかし、NPOの実体は理事だと考えるべきだろう。

足がとんでもなく速い人がいたとして、世間はその人を高く評価するだろうが、その「足だけ」を尊敬したりはしない。
すばらしい芸術作品(絵や曲など)をある人の手が産み出したとして、その魂は「手」にあるのではなく頭にあるのではないか。

頭脳が手足の働きをねぎらったり、いたわって手入れをしたり、気を使ったりはするかもしれないが、「手足のために自分(頭)が遠慮して活動する」とのはおかしい気がする。
極端に言うと、手足の手柄はすべて頭脳のモノだと思っている。

逆を考えると、組織の頭でいるということは純粋なリスクである。
手足が何か悪さをしたり、トラブルの原因になったり、十分な働き・パフォーマンスをできない時には、100%ではないにしても頭の責任が大きいとされる。
組織とはそういうものだろう。

2011-09-28 12:00

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