下の世代を批判することはできない

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テレビの情報バラエティ番組で、おそらく40〜50歳台以上の中年・壮年の人らへのアンケートとして「今の30歳台以下の年代(の人たち)に言いたいこと」という意見を取り上げていた。
いやまあ、こうしたテーマだと様々な意見というか、批評というか、諦めというか、感情がよく見えてくる。
「敬語を使えない」「根拠もないのに自身だけはたっぷり」「なんにでも『ヤバい』としか言わない」「すぐ言葉を略す」などなど。

こうした感じ方は間違っているとは思わない。
僕は今39歳だが、自分よりも年齢が下の人たちと接していても、自分自身についてでも、いつもではないが、時々日本語の操り方や人付き合いの中で「正しくなさ」を感じることはある。
しかし、それを上の世代が「批判的に憂う」とか「嘆かわしいと思う」というのはちょっと反応として単純すぎると思う。

たいてい、こういった他者への感じ方や批判(?)は、自分に対して感じていることの投影であったり、そうした要素を含んでいたりする。
今回の若年世代に対する感じ方の本質は「自分たちの世代が下の世代に敬語や他人への接し方を教えてこなかった」「自分たちが使ってきた日本語を下の世代が真似して憶えた」「上の世代を敬ってこなかった」などの反映だと思う。
なんのことはない。鏡のように、自分たちの若い時のことを見て、「もっとキチンとすればいいのに!」と嘆いているようなものだ。

人間は生まれつきに、知識があるわけでも、社会性があるわけでもない。

子供に社会性はない | deathhacks

学習は唯一、環境とそこにあるものへの模倣、つまり真似で進んでいく。
教えたり、お手本を示してこなかったのに、「なんでできないの?!」とか「学ぶ姿勢がない!」などと言うのはナンセンスだ。

翻って、なんでもカウンセリングの話につなげてしまうのだが、グループや組織、会社などで、カウンセラーなどを育成しているとして、「うまく後進が育たない」「人材教育が進まず層が薄いままだ」という問題を抱える状況は多い。
このときに起きる、初歩的な考え方のミスは、後輩などに対して「向上心が足りない」とか「結局自分で学んでもらうしかない」とか「私たちは自己責任で技術を身に着けてきた」とかいうように考えてしまうことだ。

こうした考え方は100%間違いだということではないだろうが、正しいとはとても思えない。
自分たちが教えてもらったことや、受け取ったチャンスや資源などをいつの間にか忘れてしまってはいないだろうか。
仮に自分たちが先人の教育や知識体系の恩恵を受けてこられなかったとしても、そうした労力をかけることを次の世代に継承する意味が果たしてあるのか。
あきらかにそれは負の遺産になってしまっているのではないかと僕は思う。

「苦労は買ってでもせよ」というのは概ね間違っていないが、その苦労の掛けどころや質を見誤ってはいけない。

他人に対してネガティブな感情が巻き起こったときに、それが本当に妥当か、実は今や過去の自分に対する批評家精神が活動しているのではないかなどのメタ視点を持つと良いと思う。

2013-03-19 07:00

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