自分の家で料理したり食事をしたりすることが珍しいことになっていく

20121121103630

食事、料理は専門家や専門サービスが担い、個人や家庭で料理をすることは稀になり、趣味やニッチとして残るのみになるだろう。

こんな話をすると、食文化の否定のように思われたり、家庭の味や食事を通したコミュニケーションが無くなるわけがないと感じられるかもしれない。

だが、例えば農業について考えてみて欲しい。
大昔には家族や村単位で自給自足的に農作物を作り生活していた。
しかし、今では人口が増えたことにより(そのことが鶏なのか卵なのかはわからないが)、一部のプロが大量生産をして、その他の人類に供給している状態だ。
家庭農園や菜園などを玄人はだしでやっているというのは、やはり趣味的なものであるか、余程特別なニーズか志があってのものだろう。

また、医療についても挙げていこう。
家庭ややはり村などで、病や怪我を処置したり、治したりといったことは生き物としてヒトにとっても自然で重要なことだっったはずだ。
そこへヒポクラテスを象徴的な始祖として「医学」という概念が生まれ、科学と論理・経験の積み上げと継承によって専門的手技や体系、サービスとして確立され続けてきた。
今では一定以上の医療については、家族や一般人が為してはいけないというまでになっている。

このように農業や医療が一般人や家庭から奪われた。否。社会への適応や効率化を目指した自然な結果として、工業化、産業化、サービス化、専門家が起こり、一般の人間はその成果を利用して別の部分での仕事や生活にエネルギーと時間を向けることができるようになったのだ。

こうして考えると、個人や家族の中で料理をして食事をするという様式が、数十年か数百年かの時間をかけて、まったく存在しなくなることはないにしても、とても珍しい文化行動になっていくのではないだろうか。

2012-11-22 08:00

臨死体験はある

20120822071513

臨死体験というやつがある。

肉体的に死にかけて、その後運良く生還したときに、自分の身体や周りのことを客観的に見ていたと語ったり、親しい人にお別れをしに行っていたというような体験があったりするものだ。

これは実際に起こりうる。

お別れしに行った感覚が死にかけた人にあり、相手の知人がたまたま臨死の人のことを想起する。
この2つがほぼ同じ時期に起きれば、臨死体験という「奇跡」が成立する。

あとは、確率の問題だ。
人間は無数にいるし、日々何らかの事故や死に近づく出来事というものは起きている。
臨死体験のチャンスは無数にあり、その中でたった1回でも生じれば奇跡になる。

さらにそれら一連の出来事に、良いでも悪いでも構わないが、感情や文脈が少しでも存在して補強されると、全体のリアリティを強化する。

心理学上の共時性にも近い論理があるのかもしれない。

これは、体験や奇跡が間違いだとか嘘だという事ではない。
最終的に科学的に語ることができないのならば、あとは選択の問題だし、どんな物語にするかはその人間が決めることができるのだから。

2012-08-22 08:00

悲しみや笑いよりも、怒りとか驚きの方が、感情としては古いのかもしれない

null

人によって意見は違うだろうが、動物は、悲しんだり笑ったりしないように見える。

そうは言っても怒りとか驚きの表現をしているところは思い浮かべられる。
野生動物が怒って人間を攻撃してきたり、驚いて身を引くような場面はあるからだ。

これは、悲しみ、怒りの表現方法が顔の表情という、行動や身体の動きに比べて小さいものだし、動物の顔面が毛に覆われていることが多いからというバイアスもあるのだけれども。

いずれにしても、私の仮説としては、《(新)悲しみ・笑い>(旧)怒り・驚き》と考えている。

怒り・驚きは、より強力だが、エネルギーを多く使うこともあって長い時間続くものではない。
その分ピンチのときには有効な場合が多い。

2012-07-15 12:00

Posted from DPad on my iPad

うつの人は死にたい理由すらも忘れてしまう

null

《2007-10-12 FRI 0921》

病気による影響もあって、「忘れんぼさん」になる。

死にたい気持ちだけが残る、エネルギー枯渇という状態だけ、結果だけが残る。

その後に何かいわゆるライフイベントがあったとしたら、
《死にたくなる → そのライフイベントで死にたくなったのだ》と、勘違いしてしまう、勘違いされてし まう。

さらに弱るとライフイベントでなくても単なる「イベント」出来事で死にたいと感じることもあり得る。

(関連エントリ)

うつの人の日常は惨事である | deathhacks

2012-06-29 07:00

Posted from DPad on my iPad

次の変化・混乱・実践の時代でサバイバルするための準備運動

R0014318

神田昌典氏の「2022―これから10年、活躍できる人の条件」を読んだ。

2022―これから10年、活躍できる人の条件 (PHPビジネス新書)
神田 昌典
PHP研究所
売り上げランキング: 108

この本に書いてあるようなことに、そのまま賛成するにも、反論するにも、自分には現状難しいし時間がかかる。
だが、大局的に物事、時代や世界の流れを見つめ直してみるという行為は興味深い。

例えば、私の浅い知識と理解でみてもやはり、「時代」というものは似たような内容を大きな波として繰り返しているように思える。
その視点は二極論だが、「安定・情報統制」と「変化・既存のものが役に立たない実力と実践の世界」の二者だ。
静でなければ動、動でなければ静、という0か1かの考え方だから当たり前なのだが、この2つの性質を主にした時代が繰り返されている。

  • 原始時代、古代 → 生きるか死ぬか、生死が隣り合わせ、弱肉強食
  • 王家、公家の時代 → 根拠のない(それ自体は悪ではない)伝統的支配、階級の固定、集団・種としては繁栄
  • 戦国、戦乱、戦争の時代 → チャンスとリスク両者が豊富な世界、実力や実践が重視される
  • 工業・商業・政治の時代 → 生活・地位・国家間関係などが安定、全体として見れば豊かであるが変化やチャンスに乏しい、保守的・守備的

次には、どんな時代 or 世界が来るだろうか。

  • 2012年 〜 2022年 〜 → ?

それは、来るか来ないか、という話ではなく、いつ来るか、そのときに自分はどう行動しどう生きるかという思考を強制的に迫られる環境だ。
次の大災害についてと同じように。

2012-05-22 07:00

Posted from DPad on my iPad

原始時代に「うつ」はなかった

R4001844

原始時代にうつはなかった。
心身ともに疲れきった状態での行動に、感情面からブレーキをかけるうつ的なものが長期間存在できなかったからである。
疲労困憊したら自然環境に負けたり獣に襲われたりして即座に命を落としていたから。

痛みや疲れというものは人にとって原則、嫌なもの、ないほうがいいもの、忌み嫌われる感覚だろう。
自分自身がそれで苦しんでいるときには「いったい何処のどいつが、なんだってこんな嫌なものを作りやがったんだ!」とでも言いたくなる。

しかし、こういった「ブレーキ」がないと、生き物は際限なくエネルギーを使ってしまったり、危険を適切に認識して避けたり、対策をしようとしたりはしなくなってしまう。
それでは、個としても集団としても不利になってしまう。
まあ、ここでは人間という種が、必要に応じてその性質を手に入れたのか、それとも元々そうした特徴を持ったグループが残って繁栄したのかとかいう進化論的な話はとりあつかわない。

疲労しきってしまったときに、動かない(動きたくなくなる)とか、動けなくなる、休む、などというのはハイリスク、ハイリターンであり、状況によっては究極の選択と集中だろう。
繰り返しになるが、人間が個としても集団としても、周りから比べれば相対的に弱小である場合には、ちょっと怪我をしたり、疲労したりしただけでも、生存を脅かす危険度は一気に上がり、閾値を越える可能性が高い。
こうした場合に有効な戦略は、慎重な行動などに向かうものではなく、メリハリの効いた、一か八か、一発逆転のものだ。

しかしながら、現代社会では、そこまで極端に変容したり、過剰に防御的になることはかえってマイナスが大きくなる。
これを、ブレーキなどの「誤作動」だと表現することもある。

長命になることによって「がん」という病気の危険や重大さがぐんぐんと上昇していることや、飢えに対抗するためにエネルギーを蓄える能力に秀でていたことが肥満や糖尿病をもたらしていることも基本的には同じ考え方でせつめいできる。

こういった考え方は即、科学的に正しいとか、論理的だとかいうものではないが、基礎的な研究や事実をつないで物事を本当に理解するための物語として重要だ。

2012-05-08 08:00

(関連エントリ)

長生きするようになって日本で癌死が増えた話から考えたこと | deathhacks

(関連書籍)

Posted from DPad on my iPad

感情のメモリー

R4001754

感情というものはやはり何か目的があって存在すると思っている。
目的、というとそこに何か「神の意思」のようなものがあるようなイメージだが、それとは少し違う。
感情があることによって、生き物もしくは種として有利になる点、つまり意義があるのではないかという仮説思考だ。

感情の目的の一つは「記憶するため」だろう。

人間は、それが「大事だ」と思うことによって覚えやすくなる。
逆に言えば、大事だと感じなくては忘れてしまう。
興味のないことの勉強などで、無意味に思えていることは頭に入らないし残らない。
好きなことや好きな人のことであれば、意識しなくても記憶に残る。

この性質は、不幸なことや失敗、惨事や悲しいことなどであってもはたらく。
今度は忘れようとしても、いくら本人が忘れたくても、わすれられないという現象が発生する。
これがいわゆるトラウマ(トラウマティックな出来事)だ。

人間は、何かの理由があって、どうしても覚えたいこと、忘れてはいけないことを記憶にとどめるように努力や工夫を重ねてきた。
繰り返しや反復で暗記しようとするのは旧くからあった知恵だ。
これはある意味人間の無意識を騙して、「何度も目の前に存在している事柄だから、これは大事なことだぞ」と錯覚を起こさせているのではないかと思う。

そう。結局いまのところ、記憶というものはまだまだ解明されていない部分が大きい。
記憶を自由に操作、コントロールすることを人類はできていない。

記憶に残るかどうかは、無意識が決めていて、わずかに手を出すことしかできていないのが現状だ。
しかし、この「記憶」というものを解明していき、コントロールすらできるようになるとしたならば、「感情」がその入口や切り口の一つになるはずだ。

2012-04-20 07:00

Posted from DPad on my iPad

においや音がトラウマになりにくい人たち

20120301094400

普段においや音に敏感だったり、それらに関連したものを扱う仕事をしている人は、惨事のときに嗅覚、聴覚から入った情報に悩ませる可能性が少ないかもしれない。

こうした人たちは、惨事に関係して入ってくる情報が増えたとしても(トラウマ体験と「におい」や「音」が強固に結びつく理由 | deathhacks)、平常時から元々多くの情報をそれらの感覚を通じて受け取り、扱い、処理している。

よって、その処理能力も訓練され、鍛えられていると考えても良いのではないか。

2012-03-03 12:00

うつと惨事は切り離して考えられない

20120222185343

うつと惨事に対する反応(いわゆるASD、PTSDなど)はどちらも心理臨床や精神科医療が扱うものだが、その相互関連はあまり認識されておらずまったく別のものととらえられている。
しかし私はうつと惨事というこの2つは結局は別々に理解したり、研究したりするのが不可能なくらい、密接に関係していて、まだらに混じり合っているものだと考えている。

例えば、知り合いの死や自殺、災害や事故などを体験した後には惨事に対する反応が現れる場合がある。
出来事が起きてから早い時期には、それら反応についての情報提供や回復の見通しを予測してあげたりストレスを緩めるためのツールを伝えたりすることが有効だ。
しかし、ショックを受けた人のうち、惨事の強度に応じた確率で反応が長引いたり、追加の出来事や環境の不具合などから、以前の状態への回復がうまくいかず、うつに移行したり被ってくるケースがある。
こうしたときには、元々の原因の大きな一つである惨事やその反応にあまりにずっと注目していてはケアや情報提供の焦点がずれることになる。

また、逆に疲労が蓄積するかたちでうつになっている人の理解やケアの一部にも、惨事やそれに対する反応を理解していていないと本質を見逃してしまう。
それはうつの人が一度悪循環が始まってしまうレベルまで疲労し落ち込んでしまうと、なぜなかなか回復のきっかけがなくなってしまうのかや、なぜ変化が感じられないほど少しずつしか調子が戻らないかの説明に関係するからだ。
これは「うつの人にとっては日常が惨事」になってしまう場合があるため、健康で元気な人の常識ではその怖さや自責といった気持ちがうまく分からないのだ。

さらには、いわゆる新型うつやディスチミア型、若者型といわれる種類のうつを説明するのにも惨事反応を組み合わせればしっくりくる。
なぜ自罰的でなく他罰的な言動が見られるかといえば、そこには惨事に対する反応である過覚醒が表れているからだ。
考えてみれば、うつの人でもイライラをつのらせて家庭や職場の人間関係でトラブルになることはよく聞く(その後に後悔や疲労につながり、より落ち込む要因になってしまうのだが)
自殺などは自分への攻撃の究極のものだが、一線を越えるには疲労や絶望といった感覚・感情だけではなく、同じように過覚醒や怒りのような高めの行動エネルギーが出るような状態が必要ではないか。

このように、うつと惨事は「両方を知っていたほうが良い」というレベルではなく、「両方を知らなくては良いケアやサポートはできない」というものであると考えられる。

2012-02-23 09:00

(関連エントリ)

うつの人の日常は惨事である | deathhacks

なぜヒトには感情があるのか

20120214153634

「人間になぜ感情というものがあるのか」は私のテーマの一つになっている。

感情を、完璧ではないまでも、より理解したり、カウンセリングで扱ったり、自分自身のそれを知ったりするためには、感情の動きだけではなくその始まりについて考えることも必要だと思うからだ。
ちょうどある国の文化や人々を知るためには、その歴史を調べることも有効であるように。

私の今の仮説では、感情は論理や理性、知性と同時並行かもしくはもっとも新しくヒトに備わったシステムだろうというものだ。

感情は原始的で、理性が上位にくるのか | deathhacks

では感情がつくられた理由、もしくは感情を持ったヒトという種が少なくとも今現在かなりの繁栄をすることができている理由は何だろうか。
簡単に言えば、感情があると有利であるという理屈。

感情は、それこそ感情的に表現するならば、人生を豊かにするし、あるいは人生そのものだと考える人もいる。
一方で、感情があることによって苦しんだり、うつになったり、人生や他人、物事を呪いたくなったりもする。
こうした意味ではやっかいなものに見える。

感情の存在理由

感情が存在するメリットの一つは、感情は素早さと持続性の両者を備えているということから来ている。

例えば、ある人の目の前に突然が現れたとして、論理的な思考だけで対応するのが最善だろうか。

「これは熊だ」→「熊は一般的に人間よりも強い」→「熊はこちらに気づいているだろうか」→「逃げるべきか」→「隠れたほうがいい?」→「何か身を守る道具か武器になるものは近くにないか?」→「助けを呼ぼうか?」→「助けを呼んで近くに仲間はいるか? 呼んで間に合うか?」

このようなことを順番に考えていると、正解は出るかもしれないが、致命的に間に合わなかったりする。
ビジネスと同じで多少間違ったプランでも時間に間に合うことが最低限の条件であるようなものだ。

こうした「対応」では恐怖のような感情で動くことの方が確率的に有利かもしれない。

また別のケースでは、異性を愛する場合について考えてみる。

相手の収入はどうか?
ビジュアルは?
自分を好いてくれるか?
自分の味方になってくれるか?
相手の人間関係は自分にとって不利益なものはないか?
二人が一緒になったとして将来のプラスとマイナスはどちらが多くなるか?

こういったことを厳密に計算することが悪いのでも、絶対に愛情というものとは相容れないと言うつもりはないが、時にこれらの問いに対してすべて最悪の結果が予想されたとしても、結論を180度ひっくり返してしまうこともありうるのが愛情という感情だ。
愛情は「熊対応」のように瞬間的に生じる(生じたように見える)こともあり、さらには持続的に続いたりもする。
いちいち定期的にメリットとデメリットを計算をし直すのは実のところ骨が折れるので、その部分の思考を停止させてあきらめさせたり忘れさせたりするような作用が愛情にはあるのではないか。

このようにヒトは高度に論理的な思考や抽象的概念などを操ることで、失われてしまった単純な反応を別の形で取り戻し並行して活用できるように、感情というものを生み出し、持っているというのが私の仮説だ。

この辺りのアイデアは元々、メンターからもらったものなので私のオリジナルではないのだが、まったく同じものでもないだろう。
いずれ答え合わせのようなことをしたい。

2012-02-15 08:00