困窮した友人は助け続けなくてはいけない

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見かけ上、何年も同じテーマで愚痴り続けていて、何度、そこから抜け出すことを勧めているのに一向に行動を取りそうにない友人がいたとして。

もう仕方がない。
自分では抜け出すつもりがない。
実は今の環境が心地いいのではないか。
自分がこんなに言っているのに自分の意見を聞かないなんて、自分はなんと無駄なことをしているのだろう。
いい加減、放っておこう。
本当に(誰にもわからない)困ったのなら、その時にはちゃんと(また)ヘルプを求めてくるだろう。

数年来、会う度毎に愚痴を聴き続けてしまうと、聞き手も慣れてしまう。
自分の(親切な)アドバイスを聞かないのだから大切な友人であったとしても、もう手を差し伸べるのはやめておこうと考えてしまいがちだ。
本当に困っているのか怪しいものだ。そういう風に感じ始めてしまう。

聞き手も含めて固定化した困窮の環境に変わってしまう。
これは危険な合理化思考かもしれない。

手は差し伸べ続けなくてはいけない

聞き手も疲れてきたり、不安になってくる。
そこで助けを躊躇して中断してしまえば、困っている友人の、困っている環境に加わってしまうことになる。
それは「環境型ハラスメント」と言われているようなものであったり、いじめを傍観する「共謀者」になってしまっている可能性がある。

愚痴を聴き続け、助けを言葉や行動で示し続けるべきだ。

本当に困っているかを見分けるポイント

・こうしなよー、というアドバイスに対して、はっきりと拒否、拒絶の反応を示す場合には、よほど心身の状態や環境が悪くて、結局のところそのタイミングでは友人がうまいことにはヘルプを受け入れられない状態である(ことが多い)。
・はっきり拒否しないで「うん。あたしもわかってはいるんだけど。。」というような反応の時には急いで行動の変化を求めないで待つ。ただしアクセスはし続ける。手を伸ばし続ける。

だが、手を伸ばし続けるのは辛い。
こうした状況では聞き手、助け手であるあなた自身が、自分の心身の体調を整えることに留意するのが最優先だ。

2014-04-01 18:00

愚痴を「言う」のと「聴いてもらう」では効果はまったく違う

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愚痴を単に吐き出しても、意味がなかったり、空気を悪くしたり、余計にネガティブになったりしてしまう。

愚痴は、相手に「聴いてもらわなくては」気持ちが多少なりとも軽くなりすっきりするような効果は出ない。

ただしゃべることと聴いてもらうことの違いは、聴き手の反応・リアクションにおけるものだ。
聴き手の条件ということならば、愚痴を漏らす側にできることは何も無さそうにも思える。

しかし、聴き手を選ぶことはできる。
この部分に上手な愚痴り方のコツがある。

うまい具合に合いの手などを入れてくれる人、余計な批評や主張をあまりしない人、話の内容について利害関係がない人、時間の余裕のある人。
冷静に考えてみると、どう見ても聴き手の選び方が悪くて、愚痴り損になっていたり、逆にストレスを増やしてしまっている場合がある。

愚痴るのが上手い人は、知ってか知らずでか、敏感に相手やタイミングを選びとって愚痴っている。
そういう愚痴のコツを使いこなしている人は、決して愚痴るからといって嫌われたりすることもない。

2013-01-30 14:00

筋トレと心理が似ているという話

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最近になって自分の身体を鍛えることに関心を持つようになった。
前職の時にこそ身体を整備しておいたほうが良かったんじゃないかという気もするが、時間や気持ちの余裕、自由度が少なかったからか、そういうモチベーションが上がらなかった。
今ならフリーランスだから、休みも取りやすいし(というか仕事を入れなかったら収入が途絶えちゃうんだが)、平日の朝イチから慌てずにジムを利用できたりする。

2011年にフリーになってからジョギングをなるべくするようにしてみたり(あとハーフマラソン出た)、2012年の頭から腕立て伏せを続けてみていたり(今もやってる。フォームはいい加減だけど……)、2012年後半からスポーツジムに通いだしたり(今、成り行きで2箇所行ってる)と自分でも目先を変えつつ身体を鍛えている。
あと、最近10kmレースも走った。

自信をつける方法 | deathhacks

筋トレをしてみると、アラフォーでも続けていればちゃんと逞しくなってきて変化が目に見えるから面白い。
勉強や資格、技術とかと同じで、自分の変化や成長に興味が持てる状態になると慣性がついて続いていく。
ゴールの有無とか、それが有意義かどうかとかはあんまり関係ないんじゃないかと思うし、意識はしていない。

それで、筋トレと心理の話。

闇雲なトレーニングにも疑問をずっと持っていたり、飽きも少し感じてきていたりして、トレーナーに教えてもらってのそれを始めてみている。
10年くらい前に耳にはしていたが、実際に体験する機会はほぼなかった「体幹(コア)トレーニング」という方向から鍛えるのが主流のようだ。
内容や理論の初歩を聞いてみても納得できる。自分の持っている医学や物理学、生理学などの観点から考えても、という意味で。

で、自分の弱点としては姿勢の悪さとか、関節の固くて動きが悪いことなんかを認識できてきて、そこをまずは改善することにしている。
「関節が固くて動きが悪い」といっても要素を分解してみると単純ではない。
バックブリッジをして股関節を動かしたりしてみると左右差が現れてくる。
新鮮な感覚だし、定量的な指標だから改善や修正のしがいがある。

関節の動きが固いというのは今の自分の認識としては3つの要素の一つあるいはそれ以上の組み合わせで起きている事象ということになる。
3つというのは「筋力」「神経」「関節そのものの固さ(軟骨間の摩擦力過剰とか、靭帯の伸縮可動性とか)」だ。
動きの悪さは定量できても、その原因がどの要素に依るものかは自分でも見てもらうトレーナーでも簡単には判じられない。
様々なストレッチやフォームチェック、トレーニングを早速始めて試行錯誤してみるしかない。

そして心理についても、同じように要素を分けて考えられるんじゃないかと。
勝手に言ってみると、筋力は「エネルギー(身体や精神の活動のための)」、神経は「気持ち」、関節の固さは「言葉(言動、でもいいか)」という対応だと思う。
心理体な問題やトラブル、不具合、変化があった場合、それらをそのまま扱うよりはなんとか少しずつでも要素に分解して観察し、改善していった方が有効な場合がありうる。
「エネルギーが足りないんじゃないか(疲れてない?)」「気持ちの上でなにか我慢してしまっていることに気づいてない(もしくは隠している)」「言葉や行動を自分ではコントロールできない(だけ)」のように考える。

こんな風に筋トレと心理という一見すると縁遠いものが、扱い方のコツとしては似通ってくる。
観察やストレッチ、負荷を調整しながらのトレーニングはまったく同じノウハウが使える。
こんな独自理論も良いのではないか。
他の人でも腑に落ちるような表現とか使い所などを工夫する必要はあるが。

2013-01-06 08:00

「困った」と「病気」の間で

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うつや認知症など、病気なのか正常(とは言え、やっかいで困った状態。あるいはピンチ)なのかは、目に見えないから難しい。
それらが急に、痛くなったとか、血が出たとかいうのでもないことも問題を難しくしている。
健康・健常と「困った」と病気は連続的に変化することが多いし、レベルの問題なのだ。

すると、日常では、「これは悩みレベルなのか、病気でお医者さんに行ったほうがいいのか?」とか「おかしいような気もするけれども年をとったらこれくらい普通かな……?」などという迷いが生じる。
迷いは、ある意味中途半端な状態だから、病気であるなどの確定がなされた状況よりも、気持ち的には苦しかったりもする。

皆が日常的にこうしたあいまいさやそれぞれの状況で打つべき手などを考えておくのもいいが、効率は良くない。
コンシェルジュ的に専門家や役割を持った人が民間あるいは公共に配置されていれば、それを必要な時に利用するということでいいだろう。
特に、日本やそのうちでも都会には人口が集まっているし、生産産業ではなくサービス産業として社会的にも有意義だ。

近くに詳しい人やメンタルヘルスなどの専門家のような人がいるならば相談してしまえばいい。
その場で問題が解決するようなことは少なくても、まず悩みの対処ができる。

最初に書いたように、気になっていることや対象がまず、「問題ない」「少しマズい」「ヤバい」「病気だ」などのレベル分けを判断するのが当事者にとって一番難しい。
レベル分けさえできてしまえば、対処方法はだいたい決まってしまうものだ。

逆にここで誤ってしまうと「病院に行って診てもらったけれども大丈夫と言われた。また調子が悪くなったら来てくださいと言われた」というように判断の難しさを知らされて、不安がかえって高まるということが起こる。
また、「それくらいなら全然大丈夫じゃない?」と言われたとか、思い込んでいたとかで、時間を使ってしまい、もっと早くに病院や専門家に当たった方が良かったのに、という事態もありうる。

こうしたことへの対策として、気軽に近場で相談できる手段や資源を普段から用意しておいたり、もしもそういう時にはどうするのだというようなシミュレーションをしておくのが良い。

2012-10-31 07:00

メンタル不調での休養に意味がある

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メンタル不調で生活や仕事を休むとき、それはそのまま休養という意味・意義がある。

しかし、それだけではなく、そこから回復していく過程での自分感覚集めという意義がある。

メンタル不調に陥るまでには、疲労やストレスを無視して、感覚や自然なセンサーを麻痺させて、突っ走って、あるいはフラフラになってしまっていることがほとんどだ。
その間や十分に心身を休めるまでは、何が負担で何が自身にとってどれくらいのストレスなのか見失っている。

休養の底から回復していく途中では、様々な焦りや不安が必ずある。
リハビリに時間がかかることそれ自体や、なんとなくの自信はあるのに周りからブレーキをかけられたり、逆に急かされたりと混乱したり、それに近い感覚を常に感じるかもしれない。
しかし、その過程は、単に通過点ではなく、弱っているからこそ自分が何にどれくらい疲れを感じて、ストレスを感じるのかを一つひとつ確認していくチャンスになる。

中長期的な計画や見通しをつけたいという気持ちも当然あるだろうし、それは確かに必要だ。
しかし、日々の作業や休養したことの意味を自ら作り出すことは大きなプラスになる。

2012-10-29 09:00

(関連エントリ)

うつのリハビリはこころの受身を覚えるチャンス | deathhacks

Posted from Drift Writer on my iPad

会社に出すうつなどの診断書作成コストは誰が負担するべきか

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うつなどのメンタル不調で病気休暇や休職をする場合、所属組織は人事的に診断書を求めるだろう。
これは手続き上、当然のことだろう。

ところでこの目的で作成される診断書のコストは誰が払うべきだろうか。

診断書を求める行為自体は患者本人である従業員がすることになり、いったんは会計を済ませるだろう。
だが、手続きとして必要なのは本人ではなく所属組織である。

就業規則に示されていなければ、所属組織が診断書作成料を後で払い戻すべきか、折半するかなどを本人と協議するのが筋となる。
就職採用時の雇い入れ時健康診断のコストは組織が支払うのが通常だ。

同じように、雇用関係にある間に、被雇用者には自身の健康を損なわないようにする自己保健義務はあるが、健康状態の証明義務は法律上は一律には決まっていない。
ある病気であることは医療的に診断することは可能な場合があるが、完全に健康であることを証明するというのは悪魔の証明的に不可能である。

この件については、診断書の作成料が健康保険上のものではなく、自費診療となって料金が高めになること、メンタル不調などの慢性的、ある程度長期にわたる状態に対しても診断や人事上の手続きは1ヶ月ごとに必要とされ繰り返し請求されるコストになることなどから、小さい問題ではない。

多少調べたのだが、もう少し調べていく。

2012-10-21 09:00

Posted from Drift Writer on my iPad

(2012-10-27 追記)

会社が提出を求めた診断書の手数料 – 『日本の人事部』

メンタル不調で病休や休職を経た人は会社を離れることが多いのではないか

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別に組織と仲違いするからというわけではなく。

その理由には2つ考えられる。

一つには、同じ人間関係の中に身を置きづらくなって。
これは周囲へのカミングアウトの程度にも依るかとは思う。

うつなどからの復帰に際しては可能な限り、その情報や心情、経過などをオープンにしてしまった方が、結局中長期的にはメリットが大きい。
「こういった出来事が別に珍しくもなんともない」、「一般のケガや病気と同じようなものだ」というメッセージにもなる。

しかし、現実にはフルにオープンにすることは難しいから、回復してから数年くらいして、それまでお世話になった組織から離れていくケースが多いような気がする。

もう一つの理由は、メンタル不調とそこからの回復過程経験を通して、人生観が変わるというか、元々無意識化にあったような願望や価値観が現れてくるため。

そうした思想や考え方、人生設計が、その時点で所属している組織のあり方やその中でのポジションと矛盾したり衝突したりしていなければ、そのままの生活を続けていける。
だが、そこにズレを感じたりすればこれまた長期的には変遷していくことになるだろう。

まとめ

こうした人生計画の変化・変更は決して悪いものではない。
それによって、社会全体として価値が増えれば良いのだと思う。

しかし、離れていかれる立場の組織側としては、メンタル不調の過程を見てきて、相当のコストも費やしているだろうから、心中は複雑だったりはっきりと不快に感じるかもしれない。

2012-10-20 09:00

ゲートキーパーがうまく機能することを妨げる3つの壁

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うつや自殺の兆候教育というものは、ずいぶんとスタンダードになった。
政府行政も、メンタル不調者をなるべく早い段階で見い出し、医療や専門家につなげるためには、職場や学校、家庭などに「ゲートキーパー」を育成することをすすめている。

もちろんこうした地道ながらボトムアップ的に、一般や社会の知識を啓蒙していくことは短期的に成果は出にくいかもしれなくても、結局は最短距離であり、もっとも効果的な方策の一つだろう。

しかし現実として、ゲートキーパーとしての役割がうまく機能しなかったり、当事者が困難を強く感じていたりする。
自殺した人の兆候を事前にまったく感じずショックを受けたり、死にたいくらいの苦しさを持って休養していた人が身近に戻ってきた後に日常的にどう接していけばいいのか不安に感じたりするケースは少なくない。

私としては、うつや希死念慮のサインを一般の多くの人に教育することには、ある程度以上のメリットはないと思うし、相当に注意が必要だと思っている。

自殺に事前のサインはない | deathhacks

それでは、なぜゲートキーパーがうまく機能しないのか。
そこに3つの壁があるからだ。

1 気付けない

いくら知識を身に付けたとしても、日常の生活や仕事のかたわらで、どれだけ関心があるにしても、家族や同僚の内面の変化や苦しさに的確に気づくことはやはり難しいと言わざるを得ない。
日常的に一緒に過ごしているからこそ、少しずつの変化には慣れてしまい、合算としてはおかしな事象でも「フツー」見えてしまうことも多いだろう。
正常性バイアスもかかる。

メンタル不調の表現は、個々によってかなり違う部分もあるから、専門家の研究教育でない、一般層への啓蒙では必ず「気付けないこともある」という免責的な視点を提供するべきだろう。

2 気づいても声がかけられない

仲間に何か異変を感じたとしても、即座に声をかけられるかどうか。
気のせいではないか、相手が迷惑に感じるのではないか、今は気持ちが落ちていても彼/彼女なら必ず元気に復活してくるはずだから見守るだけにしよう、以前にも同じようなことはあったから大丈夫だ、自分の方が大変だし、考え違いであったら恥ずかしい、などなど様々な心理的ブレーキがかかる。

一部には、無邪気なキャラクターで心配やコミュニケーションを取ってサポートできる人もいるだろうが、それはレアな存在とみるべきだ。
一般すべてにそれは要求できない。

3 声をかけても本人は否定し、止まらない

声をかけて、異常な状態を本人が認め、なんらかの具体的な支援を頼まれるとか、医療あるいは専門家などにつながるなどハッピーな展開となれば、こんなに喜ばしいことはない。
メンタル不調者が出ると、さも皆や管理者の失敗であるかのように思い込まれることが多いが、世の中に自殺やうつは常にあった。
数の大小やその社会的影響に上下はあっても、これからも事故や病気と一緒で完全になくなることはないだろう。

その前提で言えば、不調や不具合が見つかって、休養するパターンに持ち込めることは大成功なのだ。
病気休暇や休職に「成功」などという言葉を使うと、当事者や人事担当者からはお叱りを受けるかもしれないが。

話はそれたが、多くの場合、一度や二度、声かけをしても心配された本人は仕事や動きを簡単に止めたりはしない。
他人からの指摘で客観的に自分を見つめなおして、冷静に調整をできるようならば、元々自分でコントロールできているだろう。

そして一部のコントロールを残念ながらできなかった者が、日常を一時的に続けられない状態にまで陥っていく。
すべての者ではないことにも注意。

こうした現場でゲートキーパーに役割としての満足や自信が維持できるかは難しいように思う。

まとめ

メンタルヘルスに関連した、ゲートキーパー教育や知識啓蒙の全部にダメだしをするというのではないが、現場で役割を持った者の様々な困難やリスクと不安にも配慮しなくてはいけない。
また、ごく短期的な成果を求めすぎてもいけない。

さまざまな不満にマスクされる労働条件など

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職場の人間関係や労働条件などに対す不満が従業員から上がってくることがある。
ハラスメントまではいかなくても、上司や同僚に対する不快な感情、物理的制約など、管理者としては頭が痛い内容であるかもしれないし、放置しておくわけにもいかないことも多い。

このとき、気持ちや心理というものを知っていると大分その扱いや見方が変わってくる。
もちろん経営や管理を学んでいたり、十分経験をしていたりすれば自ずからわかってくるものなのかもしれないが。

ある従業員が何か不満を漏らしたり、訴えてきたとして、いつでも文字通りその言っていること「だけ」を見たり、相手にしたりしてはいけない。
「上司からの扱いがよくない」とかという意見は、実は賃金などのもっと単純・直接の報酬条件に対する不満の表れかも知れない。
際限なくあげることはもちろんできないが、仮に給料を倍にすれば、人間関係については我慢することができる、と本人も結構はっきり気づいているかもしれない。
逆に、給料が下がった(あるいは昇給しない)ことによって退職や転職を考えているのかもしれない。

特に日本人は自分の給料を他人に教えあったりはあまりしないし、直接に「給料をもっと欲しい」というような要求をすることをはしたないというように感じていたりする。
そのことが別の場面で現れる可能性もあるということだ。

カウンセリングでも、クライアントが最初に話した悩みが実はまったく違うものから来ていたりすることに後から気づくことは多い。
それがカウンセリングの本質の一つでもある。
別に嘘を意識してついているということでもなく、無意識の為せる単なる現象だ。

2012-10-18 13:00

(関連エントリ)

クライアントにだまされるな | deathhacks