カウンセリングの枠を守るということ

GR000155

カウンセリングで、安易にセラピストがクライアントをサポートしたり助け船を出したりしてしまうことには適否や賛否がある。

クライアントがメモを取りたくなったとして、ペンやメモ帳・紙などを用意しているか否か、無いならないで「ちょっと待ってもらっていいですか」「紙とペンがあったらお借りしたいのですが」などのようにコミュニケーションを取ろうとするか、それができるか否か、などがセラピーにおける重要な情報、アセスメントの鍵になることもある。
突然涙ぐんでしまったクライアントにポケットティッシュをすかさず差し出すか、ねぎらいや遺憾の気持ちを言葉に出して伝えるか、などなども同じように判断や良否が分かれるし問われる。

クライアントの元々の健全度やシテュエイション、効果の目標を短期に置くか長期に置くかなどの総合判断によるから複雑だ。
究極に割り切って向き合うのであれば、「今目の前でクライアントが死んでしまう」という状況以外でのセラピストの介入はセラピーとしてもアセスメントとしても当事者の人生としてもノイズだと言える。

私なんかは医者だから、目の前で仮にクライアントがカッターで手首を切ろうとしたとして、止めずに切り込んで出血してからでも、クライアントが相当に抵抗するのでなければ問題なく止血できるとは思うので、覚悟を持って冷静に観察しながら対応することもできるかもしれない。
本当にそうするかどうかは、その時になってみなければわからないし、相変わらずの有限不実行な性質なのだけれども。

2013-07-13 08:00

(関連エントリ)

有言不実行の勧め | deathhacks

カウンセリング逐語録とライフログが似ている件

20130524122210

逐語録はライフログだと思う。
短時間、約1時間などの中で、カウンセラーとクライアントの間でのやり取りや雰囲気、発言や思考などを後から、もれなく記録する。
記録の中で何か気づきが得られることもあるし、後日まとめて一連のそれらを読みなおして思いもよらぬ発見がされることもある。

場合によっては公開(学会、論文への発表など)されることもあるし、集団守秘を保った限定的なグループ内で議論されることもある。
(半)公開することによって、する側される側双方にメリットが生じるのもライフログと同じだ。

ライフログは、記録することそれだけでもプラスがあるが、それを自分で読み返すことでさらに別の効果が出てくる。
さらには他人と共有することで、中身や枠や世界が広がる可能性がどんどん出てくる。

逐語録は逐語ログと言い換えてもよいのではないか。

こうして考えると、通常カウンセラーが作成する逐語録を、クライアント自身に作らせるということも考えられる。
きっとセラピーや内省などの進みや成果は倍増する。

(関連エントリ)

カウンセリングでクライアントはメモを取りましょう | deathhacks

2013-05-26 08:00

サービスの良し悪しは値段に比例する

R4010154

旅館でも接客でもカウンセリングでも。

儲かる市場があれば競争が生じる。
そこで適切に淘汰される。

競争、淘汰が適切になされない可能性は確かにあるが、少なくともそれなくして健全な業界の発達はない。

2013-05-14 07:00

下の世代を批判することはできない

20130317155244

テレビの情報バラエティ番組で、おそらく40〜50歳台以上の中年・壮年の人らへのアンケートとして「今の30歳台以下の年代(の人たち)に言いたいこと」という意見を取り上げていた。
いやまあ、こうしたテーマだと様々な意見というか、批評というか、諦めというか、感情がよく見えてくる。
「敬語を使えない」「根拠もないのに自身だけはたっぷり」「なんにでも『ヤバい』としか言わない」「すぐ言葉を略す」などなど。

こうした感じ方は間違っているとは思わない。
僕は今39歳だが、自分よりも年齢が下の人たちと接していても、自分自身についてでも、いつもではないが、時々日本語の操り方や人付き合いの中で「正しくなさ」を感じることはある。
しかし、それを上の世代が「批判的に憂う」とか「嘆かわしいと思う」というのはちょっと反応として単純すぎると思う。

たいてい、こういった他者への感じ方や批判(?)は、自分に対して感じていることの投影であったり、そうした要素を含んでいたりする。
今回の若年世代に対する感じ方の本質は「自分たちの世代が下の世代に敬語や他人への接し方を教えてこなかった」「自分たちが使ってきた日本語を下の世代が真似して憶えた」「上の世代を敬ってこなかった」などの反映だと思う。
なんのことはない。鏡のように、自分たちの若い時のことを見て、「もっとキチンとすればいいのに!」と嘆いているようなものだ。

人間は生まれつきに、知識があるわけでも、社会性があるわけでもない。

子供に社会性はない | deathhacks

学習は唯一、環境とそこにあるものへの模倣、つまり真似で進んでいく。
教えたり、お手本を示してこなかったのに、「なんでできないの?!」とか「学ぶ姿勢がない!」などと言うのはナンセンスだ。

翻って、なんでもカウンセリングの話につなげてしまうのだが、グループや組織、会社などで、カウンセラーなどを育成しているとして、「うまく後進が育たない」「人材教育が進まず層が薄いままだ」という問題を抱える状況は多い。
このときに起きる、初歩的な考え方のミスは、後輩などに対して「向上心が足りない」とか「結局自分で学んでもらうしかない」とか「私たちは自己責任で技術を身に着けてきた」とかいうように考えてしまうことだ。

こうした考え方は100%間違いだということではないだろうが、正しいとはとても思えない。
自分たちが教えてもらったことや、受け取ったチャンスや資源などをいつの間にか忘れてしまってはいないだろうか。
仮に自分たちが先人の教育や知識体系の恩恵を受けてこられなかったとしても、そうした労力をかけることを次の世代に継承する意味が果たしてあるのか。
あきらかにそれは負の遺産になってしまっているのではないかと僕は思う。

「苦労は買ってでもせよ」というのは概ね間違っていないが、その苦労の掛けどころや質を見誤ってはいけない。

他人に対してネガティブな感情が巻き起こったときに、それが本当に妥当か、実は今や過去の自分に対する批評家精神が活動しているのではないかなどのメタ視点を持つと良いと思う。

2013-03-19 07:00

スーパービジョンの落とし穴 – その1

R4003425

カウンセリングケースでスーパービジョンを受けることは必要なことだ。
しかし、うまく利用しなければいけない。
また、その中に潜む負の面、要素、危険、落とし穴に注意しなくてはいけない。

スーパーバイジーはスーパービジョン受けをするときに少なからず緊張している。
自分が扱ったセッションがうまくいったのかどうか、スーパーバイザーからどんな質問を受けるだろう、どんなミスを指摘されるだろう、などなど。
そもそも、最初からうまくいかなかったことが明らかだらり、自分ですでに覚悟していることだってある。
カウンセリングが人間対人間の営みであるからにはどんなに技術や経験があったとしても100%コントロールすることはできない。

怖いのはスーパービジョンを受けながら、実際にやったことを改変してスーパーバイザーに話していたり、やれなかったこと・聞いていないことをさもやった・聞いたかのように語り始めてしまうことだ。
事実と頭の中で考えていることがどんどん乖離していくことがありうる。
そのうちに自分の記憶ですら修正されていってしまうことすらすらあるのではないか。

できるだけリラックスしてスーパービジョンを受けられるよう、スーパーバイザーとの相性や環境、時間の制約など、コントロールできる部分は可能な限り整備すること。
自分の言動や結果に真摯に取り組むこと。
これらを繰り返し繰り返し自分に言い聞かせ続けること。

求道的になってしまうのも違うと思うが、自分への適度な厳しさを自分自身の中に持たなくてはいけない。

2013-02-24 08:00

教育者の資格は技を見せられることのみ

20130211164415

他人にものを教えたり、指導したりする資格があるか否かの判断材料は、その人が実際にその技術や知識を相手や周りに見せることができるかどうかという一点のみで測られる。

大事なことは、次の2点だ。

  • 技術のレベルは大した問題ではない
  • 「見せることができる」というのは、心理的に拒否や躊躇をしないことと、見せるためのプレゼンテーション能力があることの両方を含む

技術のレベルが問題ではない、というのは、教わる、あるいは参考にする価値がないか、教わる人間が理解できない場合には自然に教える教わるという関係が消滅するか、そもそも生じないことによる。
この部分は常に流動的で不安定だから、コントロールしようとすることがかなりナンセンスだろう。
それよりかは単純に実直に技術と知識の量と質を高めることに愚直に集中するべきだ。

2番めの「拒否や躊躇をしない」というのは、絶対的条件だ。
これがなければ教育が成立しない。
これなしに存在しているように見える教育はすべて「ウソもの」だ。

カウンセリングの教育であれば、ロールプレイでもモデリングでもガンガン見せて教えればいい。
言葉で説明できても、実際に自分で再現できないようなことを誰がまじめに教わる気になるだろうか?
私が認める教育者、指導者は皆いくらでも出し惜しみをせずに実践を見せてくれる。

2013-02-13 11:00

カウンセリングにおける場の力

20130119092459

カウンセリングで枠を決めるのは大事だとよく言われる。
枠というのは、時間だとか、場所だとか、対価とか、連絡手段とか、コミュニケーションの言葉遣いだとか、そういったあらゆるインターフェイスや環境のことを指す。
これらがあやふやだったり、連続するセッションであるのに毎回異なるというのでは、原則として効果的なサポートというかカウンセリングは難しくなる。絶対というわけではないが。

というわけで、そもそもクライアントが面談を望んでいないとか、経緯が共有されていないとか、利害関係が整理されていないとかいうときには、なかなかに気を遣う。
本来面談の言葉や理解に費やすべきエネルギーの半分以上を、毎回や個別のセッションでの枠設定(つまり場面設定)に向けなくてはいけないという状況を経験することもある。

特に貴重な資源は時間だ。
そして30分の制限の中から10分取られるのと、1時間の制約から10分取られるのとでもだいぶん時間計画と管理は違ってくる。

ただし、結局こうした問題や課題は「ホーム」であれば少なく、「アウェイ」であれば多くなりがちな、当たり前のことでもある。
アウェイであっても「勝ち」「価値」につながるようなベースとなる実力やノウハウを追っていく必要がある。

2013-01-20 09:00

KW: 治療構造

身近な人の自殺から「見捨てられ」を感じる

20130115122210

肉親や愛する人が自殺すると、悲しいという気持ちだけでなく、自分が「見捨てられた」のだと感じることがある。
これは物理的に、あるいは現実として離れ離れになるということ以上に、自殺についてとても苦しい意味を持たせてしまう。

単に「離れる」「別れる」ということであれば、人は人生経験から慣れやいたし方の無さを学んでいるかもしれない。
しかし、死を用いた別れは「何もそこまでして離れようとしなくってもいいのに……」とまで考えさせてしまう。

こうした感情体験は、子供であったり、他にポジティブな体験や拠り所のない人ほど強烈な負荷となる。
自責を生むし、うつにもする。

だから、身近な人を自殺で亡くした場合のケアとしては、乏しい情報や記憶の中から「本当に『見捨てる』というようなメッセージは存在したのか」を当事者と一緒に確認する。
あくまで比較の上でだが、このケアに比べれば、元気づけも、忘れる対処も、薬の内服も、時間の経過もあまり有効ではないし、的を射ていない。

2013-01-16 09:00

相手に分かる言葉を使う 皆に分かる言葉を使う

20130110070214

心理カウンセリングの勉強会で、自分の発言がうまく伝わらないと言う感覚を味わった。
内容がダメだったとか、的外れだったとかいう可能性はとりあえず無視しておく。

相手やその場にいた皆に伝わらないとか、支持を得られないというのは、言葉の意味や背景をうまく共有できなかったからだと思う。

私は「あきらめる」という言葉を使ったのだが、この言葉はまったくの一般単語でしかない。
医療の記録やカルテ、共有やカンファレンスなどの場や媒体であれば、これでも言いたいことが伝わったり、なんとかくみ取ってもらえたりするかもしれないが、厳密な、高いレベルでの共有には程遠くなる。

「否認(している)」(〇〇を否認している、というように主語もあるべきかもしれない)のような、完璧とは言えないまでも、一つの歴史ある体系との中に定義され使われてきている言葉を活用しなくてはいけない。
発言や発想内容の可否良悪なんかはその先の話だ。

2013-01-11 07:00