「ナスサカソ」で、抜け漏れなくふりかえる

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セミナーや勉強会、介入などのイベントが終わってから、スタッフが反省会をすることはよくある。
良かった点や改善したほうがいいことなどを話し合い、イベントを総括したり、モチベーションを上げたり、次回以降の活動にプラスをもたらすことが期待できる。
我々はこれを「ふりかえり」と称して自分たち自身、あらゆる場面で実際にやったり、他に紹介して勧めたりしてきている。

ふりかえりでは、項目や手順をある程度決め、仕切る人も参加スタッフもそれらを知っていると進めやすいし効果も上がる。
項目の頭文字を並べると「ナスサカソ」になる。

【 ナ 】内容全般

  • 講演や資料などについて
  • そのイベントの一番の核心となる部分についての評価や反省点の洗い出しなど

【 ス 】スタッフ個人に関すること

  • スタッフそれぞれがしたことや、対応した質問や連絡など
  • イベント中に主催者や担当者内で解決したことでも、あらためて全体で共有しておくと良い
  • 個人の感想や気づきなども出したり、拾い上げたりする

【 サ 】参加者に関すること

  • イベント参加者の間、または参加者-スタッフ間でのトラブルやその兆候(特に複数日にわたるイベントで)など
  • 実習を含むイベントでは、参加者の健康状態(特に心理的な疲労や落ち込み、内容から受けている影響)

【 カ 】管理面

  • 施設や使用機材、参加者やスタッフへの告知・連絡の内容・段取りとその結果などについて
  • うまくいった工夫や、処置したり解決したりしたトラブル等についても収集・共有する

【 ソ 】その他

  • 資料に不備や誤字・脱字はなかったか?(内容そのものではなくても大事なことだ)
  • 会場の温度や音響状況、食事や飲み物の案内具合などの確認

まとめ

今回挙げた項目を網羅するという統一した認識をを参加スタッフが共通して持てば、ふりかえりはとてもやりやすくなり、意義も高くなる。
だいたい、書いた通りの順番に勧めると良いが、こだわりすぎる必要はない。
単に「何か今日のイベントについて意見はありませんか?」と問いかけるだけでは、なかなか活発に発言してくれないし、内容についてもバラバラと散漫になる。

2011-09-30 09:00

(SlideShare Embed 追記 2011-10-25 09:00)

トラウマ体験と「におい」や「音」が強固に結びつく理由

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においや音に関連した連想記憶というものは視覚に関するものよりも、強い印象を残す場合がある。
いわゆるトラウマティックな体験と合わさってトラブルや問題になる。

その体験をしたときのにおいと同じか似たようなにおいを避けるようになったり、においによって記憶や別の感覚・映像が蘇ったりして苦しさを感じることは程度によっては対処が必要となる。
音についても同じようなことが起こる。
10年や20年前に聞いたことのある音楽を久しぶりに聞いたとして、同じ時期の体験がセットで記憶のどこかから掘り出されてきたりする。

人間は視覚がかなり優位な生き物だ。
感覚情報の7割から8割が視覚からだとも言われる。
人間は普段視覚を上手に利用して本や映像などを介し、互いに情報をやり取りしたり、記録を残したりしている。

慣れている視覚についてのコントロールよりも、原始的な感覚である音やにおいについては一般に難しい。
しかし、トラウマティックな体験からある人に対して刻み込まれる「情報」の量は、特に音やにおいについて大幅に増加する傾向がある。
非常事態においては、本能的に視覚以外の感覚をも最大限に動員しようとして一時的に、それらの情報が個人処理能力をに大きな負荷をかけるのかもしれない。
そして、それらの情報処理が終わるまで、数週間・数ヶ月から数年単位で「侵入」が続くと考えられないか。

まだまったく科学的な要素や論理ではないが、ASDやPTSDの理論上の機序に迫っている可能性がある。

2011-09-29 08:00

NPOの理事は頭、事務は手足

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NPOが継続するためには頭たる理事・代表も必要だし、手足たる事務局や実働人員も大事だ。
しかし、NPOの実体は理事だと考えるべきだろう。

足がとんでもなく速い人がいたとして、世間はその人を高く評価するだろうが、その「足だけ」を尊敬したりはしない。
すばらしい芸術作品(絵や曲など)をある人の手が産み出したとして、その魂は「手」にあるのではなく頭にあるのではないか。

頭脳が手足の働きをねぎらったり、いたわって手入れをしたり、気を使ったりはするかもしれないが、「手足のために自分(頭)が遠慮して活動する」とのはおかしい気がする。
極端に言うと、手足の手柄はすべて頭脳のモノだと思っている。

逆を考えると、組織の頭でいるということは純粋なリスクである。
手足が何か悪さをしたり、トラブルの原因になったり、十分な働き・パフォーマンスをできない時には、100%ではないにしても頭の責任が大きいとされる。
組織とはそういうものだろう。

2011-09-28 12:00

普段から仲間同士でツッコミを入れあっておかないと

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仲間同士で馴れ合っていてはいけない。
平常から、サービスを提供する相手やクライアントの利益を生み出しているかどうかをお互いでチェックしておくべきだ。
あるいは、プロとしてノウハウを他人に渡すとして、その質を厳しくふりかえっておくこと。

このような「ツッコミ」は普段から意識してやっておかなくては、いざというときに困ったことやトラブルの元になる。

仲間同士は、一度見過ごしてしまうと、互いのミスや欠点が見えなくなる。
連帯感が災いして、口に出して指摘しにくくなる。
「皆の前で言っちゃうと恥をかかせるかな?」というような遠慮も出てくる。
しかし、「今」言わなくて、次にチャンスが来なかったらどうだろうか?

個人のミスや欠点は、クライアント、つまり素人には見えなかったり、気付かれなかったりする。
それを当たり前の商品、そして質と考えてしまえば、それが仲間すべての評価や文化になってしまう。
それよりは、日常の場で互いに厳しく切磋琢磨しておこう。

何も、抜き身で斬り合って、傷つけあっておこうと言っているわけでもない。

2011-09-27 10:00

「ジョジョの奇妙な冒険」と「八日目の蝉」に見る真理

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一昨日のエントリ(自由と時間と健康とお金の話 | deathhacks)と関連した内容。

生きる意味とは何だろうか?
生きていることやその細部、例えば働くことや家族をつくること、勉強することやスポーツをすることに「意味」というものはあるのだろうか?

生きることに意味なんかないという意見もある。
そもそも「生きる意味は何か?」などと考えている時間やエネルギーが無駄かもしれない。

そうは言うものの、人間は、あらゆることに理由を欲しがる。
ストーリーを欲しがる。
納得したいのだ。
無駄なことをしたくない。
今していることが無駄でないことを何かの形で保証して欲しいのだ。

「ジョジョの奇妙な冒険」第3部で、悪の根源的存在であるディオは、「人間が、友人をつくるのも、お金や名声を欲しがるのも『安心するため』だ」と看破している。
我々は普段生きているぶんについてはあまり複雑に考えていないことがほとんどだ。
仕事や愛する人、それ自体に価値や意味があると考えている。
しかし、ディオの言うように、実際はそれらのモノや人や行動から自分自身に「もたらされること」が価値の判断基準だろう。

お金の価値も同じ事だ。
お金自体は食べられもしないし触ったり見ていたりしても直接に気持ちいいというものでもない。
でも皆それを欲しがる。
それは、お金が世の中では、食べ物や家や服やサービスに交換できることを知っているからだ。
時には人の関心までも買うことができる。
科学や文学にだって金はかかっている。

「八日目の蝉」にはエンジェルホームという宗教コミュニティの教祖が「なんでお金が欲しいの? なんで綺麗になりたいの? それが本当の目的、あなたの欲しいものなの?」と説教する場面がある。
本質、のようなものに、それこそ本当に意味があるのかわからないけれども、普段当たり前と思えていることが、実際にはそれほど根拠や確たる論理的積み上げを持っているわけではない。

こんな風に考えていると、ときに愕然としたり、ときにワクワクしたりして興味深い。

2011-09-26 09:00

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後から現実を学んでいく

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児童の反抗期というのは、現実原則との最初の衝突だ。
現実原則というのは、世の中の我慢しなくてはいけないことや限界のことである。
現実原則を知る、といいうのは現実を認めることである。
すべてが思うとおりにはならない。
物理的、時間的に不可能な欲望もあるし、他人や社会から制限されたり制約を受けたりする場合もある。
現実原則の反対は快楽原則と言う。

人間は生まれたときには自我や自意識を(はっきりとは)持たない。
成長するにしたがって、学習もして、まず自我を持つ。
最初の頃の自我は、まだ未熟で、自己と他人を区別できない。
例えば、赤ん坊は自分と母親の区別が付かない。
食べるにしても、寝起きにしても、寒暖への対応にしても、遠慮や我慢をしない。
赤ちゃんが、ミルクや食事を与えてくれた父母に「いつもありがとう」と言ったりはしないのは知能や言語能力は未発達だからということもあるが、他人や欲求が通らない世界を知らないからということが主な理由だ。

成長し、学習することによって、どうやら自分とそれ以外というものがあるらしいこと、自分以外にも意志を持つ生き物が他にいるらしいこと、一番身近なそれらが父そして母というものらしいということを認識する。
世の中というものが、どうやら自分の思うとおりにならないものであるらしいことを段々に知っていく。
お腹が空いても食べられないことがあるらしいこと、欲しいものがあっても手に入らなかったり我慢させられたりすることがあるらしいこと、かまって欲しいときに父母がかまってくれないことがあるらしいことなどなど。

快楽原則と現実原則のズレを初めて感じ、それに怒りやイライラを憶え、表現し、最初に外部から観測されるのがいわゆる反抗期だ。
当然だが、抵抗を示す。
なんとか世界が自分の思い通りに動いてくれないかと言葉や態度で要求する。
なぜ自分が世界の中心ではないのかを自分や周りに問う。

そう考えると反抗期がはっきりしている人と、「そいういえば、うちの子は反抗期なんてなかったわー」などと言われる者がいるのもわかる。
家族の目に触れるような現実原則との葛藤よりも前に、別の現実で十分に学習した場合、あるいは知能の発達が早くて想像やシミュレーションで現実原則を学習してしまった場合などである。

まとめ

自己と他者を区別できること、(自己ですらそうだが)他者や世の中は自分の思い通りにならないことがあるということは、普通の大人にとっては当たり前のように思えるが、これらの認知は生まれつき持っているのではなく、後から発達しつつ学習したものである。
世の中、時にはがまんが必要だったり、思い通りにならないことがあったりすることを「現実原則」と言う。

2011-09-25 08:00

(追記)
今回書いたものは、いわゆる第1反抗期について。
青年期の第2反抗期というのは、その時期に幼少期の第1反抗期と同じくらいに、自己と他者の関係が変わったり複雑になったり欲望と現実のギャップの大きさを感じるからだろう。
しかし、一般に青年期を過ぎてからの方が人生は長いし、「本番」と言える。
反抗期の前には現実原則に必ずしも従わなくても良い、守られ保護された環境や時期がある。

(関連URL)

現実原則 – Wikipedia

快楽原則 – Wikipedia

自我 – Wikipedia

自由と時間と健康とお金の話

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この世で一番貴重なものは「自由な時間」だ。
このうち「自由」と「時間」はX軸とY軸のような関係になっている。

いくら自由度が高くても、それをうまく活用するためには時間が必要になってくる。
時間がいくらたくさんあっても、その使い道を制限されていたり、他人にコントロールされていれば、価値は少なくなる。
自由な時間の価値の合計は自由と時間の掛け算ということになる。

ここで自由について考えてみる。

皆さんは今、自由だろうか。
日本であれば、幸いなことに全人類の中でも自由度がめちゃくちゃ高い環境だと言える。
食べ物は豊富にある。治安が良く、安全だ。清潔で病気も少ない。義務教育も含め高等な教育が普及しているし、図書館や大学、インターネットなどを通じても勉強できる。ネットワークも発達している。

とは言っても、自由には精神的な状態も含まれる。
例えば、イライラしていたり、何かに腹を立てていたりするという状態は「不自由」だ。
そうでなければ楽しみや勉強やリラックスに充てられるはずの時間を、不愉快な疲れを増やす感情に囚われてしまっているからだ。
そう、疲れや悩み、怒りや悲しみというものがあれば、一見誰も何もあなたを縛り付けてはいないようであってもあなたは「不自由」なのだ。
痛みや病気があっても、あなたは自由に制限を受ける。
自由と健康はほとんど同じ意味を持っていると考えて良い。

お金についても考えておきたい。

「自由な時間」が大事だ、と言ってもお金がなければ生きていけないし楽しめないではないかという意見はあるだろう。
確かにそうだ。
ここで、お金がなくても人生は満喫できるという信念も、お金さえあれば何でもうまくいくという考え方も、どちらも極論ということになる。

お金はやはりツールや手段に過ぎない。
ただし、お金はとてもとても応用が効く、汎用性の高い、強力なツールだから、ときに自由や時間よりも大事なものに見えてしまう。
お金で時間や自由を買うことができる。
しかし逆も成立している。
お金を稼ぐために、私たちの多くは時間や自由を対価として支払って交換していることがお金の価値を過大に評価させる原因だ。

これから一生どこかの牢獄に閉じ込められ、命令のままに働かされるとしたら、どれだけお金をもらっても、誰もが拒否するだろう。
1分後にあなたの生命、つまり人生残りの時間がなくなるというのに、お金を欲しがる人はいない。
そういうことだ。

2011-09-24 10:00

決めるか決めないかを「決める」こと、その事前準備

R0013659

会議などで大事なのは、議題・アジェンダを明確にしておくことだ。
時間には限りがあるからだ。

雑談や議論にも価値はある。
しかし、意思決定の場でそれらが中心となってしまうと、重要な案件に割くべき時間やエネルギーがもったいない。

バランスは大事だが、事前の準備にかけるべき労力は多くの場合予想以上に大きい。
会議に必要な事前準備内容は2種類ある。

  • 何を決めるかと、その意思決定のために必要な情報
  • 何を決めないかと、そのことを再検討する時期

この準備と区別、そして案件間の優先順位があれば、あとは実行あるのみだ。

2011-09-23 11:00

まず驚き、なるほどと思うことが共感につながる

R0013617

カウンセリングではクライアントに「共感」すると良い、とはよく言われる。
しかし、それを具体的に実行するのには「共感」について掘り下げてみる必要がある。
共感とはどういった状態・事象なのか?
どうしたら共感はクライアントに伝わるのか?

一般に、感情と言えば「喜怒哀楽」のことだと思うだろう。
素直に「共感してみましょう」と教わったらば、「なるほど、クライアントと一緒に、悲しいことを悲しみ、困ったことに悩み、うれしいことには喜べばいいのか」と考えるかもしれない。
これは半分当たっているが、半分ハズレだ。

まず注目するべき大事な感情は「驚き」と「なるほど」だ。
もちろんカウンセリングでも、喜怒哀楽に焦点を合わせる段階はあるが、ただそれを闇雲に強引に実行してもクライアントに適切なメッセージは伝わらない。

まず基本として、クライアントの話や感情を、新鮮なものとして「驚き」をもって聞くこと。
そして、そこに何らかの納得できる筋道をみつけて「なるほど」と理解して、それをクライアントに向けてわかりやすく表現すること。
この二つがカウンセリングで重要な共感、つまりクライアント感情への理解と受容ということになる。

カウンセリングでは、ここで言う「共感」を上手にしていったならば、情報や認識としてクライアントと共通の場所に立つことにつながる。
その上で、最後の仕上げに「喜怒哀楽」を、クライアント自身の感覚を確認し、比べながら、カウンセラーも表現すれば良い。

旧来、カウンセリングの理論教育で言う「共感しましょう」は、このゴールの部分、あるセッションなどの終盤で達成されると良い目標を示しているだけで、途中経過や段階について細かには説明されていない。
いきなり喜怒哀楽、ではなく「驚き」と「なるほど」から始めよう。

2011-09-22 10:00

相手を変えるためには自分が変わる

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ショッキングなものや著名人のものであるという理由で、自殺がマスコミにより、興味を主体に報じられることがある。
それらが社会や現に自殺に近づいている人に対して悪い影響を与えることは知られている。
自殺をニュースとして扱うときの注意点は以前からWHOがまとめているし、とっくに日本語訳をされ、マスコミ各社へも通知されている。
それでも、遺書現物の公表や、あたかも自殺が避けられなかったかのような内容を強く込めた報道がされる。
マスコミは学習していない。

一方で、そういった報道やマスメディアに対して、先に示したような「WHOの勧告を守れ」というメッセージを出すだけでは状況は変化しない。
もちろん、既に実績のある効果的な内容の勧告や基準を捨てるべきだというのではない。
しかし、同じことを繰り返しても大衆には届かないし、一般大衆を目標にしているマスメディアは気に留めない。
Webやサービスと一緒で、検索されなければどんなに良いもので正当なものであっても存在しないことと同じになる。
素人一般に広く楽に届くようなキャッチーなメッセージをつくるべきなのだろう。
こちら側が何も変わらずに、マスコミや一般大衆に「なぜずっと言っているのに理解しないのだ」と感情的になるだけではそれこそ世界は変わらない。

2011-09-21 12:00