鍵を拾っても鍵穴を知らなければ使えない

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およそ3年ほどもメンタルヘルスやカウンセリング、惨事ストレス周辺について考えてきた。
一つ一つの知識やアイデアは小さな点だけれども、さすがにこれだけの時間を継続的に費やしてきたら、カバーできる範囲はかなり広く隙間なく、統合されてきているように最近感じる。
24時間考えているから。

知識は、ただそれを知っているだけではいわゆる雑学でしかないから現場で役立たたない。
実際に現場から吸収した知識であることや、全体を知った上での部分への対応力というものが実践家としては必要になる。

雑学としての知識とは、ある日どこかで偶然に拾った「鍵」のようなものだ。
素人であって、何も予備知識や全体への認知、想像力が「なければ」、その鍵で開けられる錠(鍵穴)があることに喜びを感じることができる。
あるいは、どんなロックでも開けられるという万能感をイメージしてしまうかもしれない。

しかし、実際には鍵は鍵でしかない。
開けたり閉めたりする錠前(鍵穴)とセットであって初めて機能するし価値が出てくる。
それが、どこにある、どのような錠前を開け閉めできる鍵であって、それを開け閉めした先に何があるとか、鍵を回すことで何が起こるとか、それを知っていなくては実は全く意味はないし、実践家としては怖い。

車の鍵を拾ったとしても、この世の中には無数の車がある。
それをすべて試してみることはできない。
たとえその鍵が、どこかの銀行の金庫の鍵なのだとわかったとしても、自由に出入りすることはできない。
そもそもたまたま拾った鍵で「試す」という行為はできないからそこにプロとしての認識や制約、契約が要ることになる。

知識が統合されて、実践ができるということの意味は、鍵を鍵として見るだけでなく、その対となる錠前を認識したり、場所を知っていたり、その鍵を使うことの意味やそれによって起こることなどを隙間なく面として知っていることだろう。

2011-06-30 06:00

(関連エントリ)

謙虚になりたい | deathhacks

自殺した人を非難してみる

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自殺が起きた後に、周囲の個人と面談して話すときに、十分聞けているか、「味方」になれているか、信用されているかを確かめる方法がある。
自殺で亡くなった当人を少し非難してみるのだ。
明らかな悪口を言うというまでではなく、多少「あきれて」みる。
個人の人格を否定するというのではなく、自殺という行動を取ってしまったことを、面談者の苦しさや辛さベースで説明して振ってみる。

これは管理者や専門家などが公の場で発言するのとはまったく意味合いが違ってくる。
そのような場合には、聞いた者は自己保身的な匂いを嗅ぎつける。

個別の、原則としては守秘を伴う場での会話は別物だ。
十分に情報や状況の把握ができているのならば、第三者としての正直な感覚をぶつけて反応をみてみる。

これは、秘密が守られる場所で、面談者が自殺した当人に当然感じているであろう怒りや伝えたかった思いなどを言うことを許すことにもなる。
実は感じている、考えていること、でも皆の中や前では言えないことを表現させてやる。
こういったことを建前として話せないことも自責の原因になっている可能性がある。
その自責感を緩めることにもつながる。
そうしたことを考えてしま「っても」当たり前であると支持することもときに有効である。

2011-06-29 07:00

倫理規定は要らない

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倫理的な決まりがないといけないような気はするが間違いだ。
決まりが人間の行動を決めるのではなく、あくまで物事をなす主体は人間自身だから。

そもそも法律も多すぎる。
量刑などの価値観や尺度によって異なる部分だけを決めておけば十分。
抑止効果を狙うのならばまた別だが。

倫理に関する問題は個別性や価値判断がそれぞれに違うからあらかじめ考えておくことが難しい。
その度、その時点で、合議・検討するしかないだろう。

カウンセリングでの二重関係を避ける規定や守秘などもあくまで目的やゴールを認識して向かってこそのものだ。
運用次第という、はなはだ不安定な意見かもしれないが、そこにプロフェッショナル性が求められると感じる。
個別の能力によっても判断や判定は変わる。

2011-06-28 07:00

(関連リンク)

倫理規定を作らなかった倫理的な企業:発想七日!:ITmedia オルタナティブ・ブログ

ヒーローをつくらない組織を目指す

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少数のヒーローやエースに頼るのはリスクだ。
「ワンマンチーム」というのはネガティブなイメージを持つ。

劇団四季やシルク・ドゥ・ソレイユには名前をパッと言えるダンサーやパフォーマーは(寡聞にして)いない。
逆に名前を聞いて「あー、あの人かー」と誰もが知っている演者もいない(マスメディアが取り上げていない、あるいはマスメディアをあえて「使わない」戦略を取っているのかもしれない)。
だからといってチームとしての仕事が劣るわけではなく最高にすばらしいエンターテイメントを継続して生み出している。

組織が大きくなれば、一人や少数の人間の力ではどうしても安定した事業はできない。
一時的には苦しくても、後継者や次世代を常に育成しなくてはいけないだろう。
育成の部分をごく短期的視野でしか考えなかったり、運任せにしてしまえばうまくいかない。
野球やフットボールなどのプロチームスポーツと同じだ。
あるいは個人競技でも国家単位で水泳や柔道、フィギュアスケート、卓球、スキーなどをイメージしてみるとよい。
難しいのは、育成システムに基本形はあるかもしれないが、組織や分野ごと独自にあつらえなくてはいけないだろうことだ。

また長期的・継続的・安定的な生産性というのが重要だ。
そのためにも個人が寄与する部分を適切にする。
安定したシステム・系が確立すれば繁栄が得られるし、トータルでのアウトプットは時間についての掛け算が成立することによって莫大になる。
このメリットは個人の努力や一人の天才の働きでは得にくい。

とは言っていても、個人個人にもどのように自分の力を活かすか、成長をしたいか、高い評価や満足できる承認を得たいかということを選ぶ自由がある。
滅私という概念は個人的にあまり今は魅力的に感じない。
しかし社会や環境などの外部と仲良く、というか上手く共存・成長していくためのヒントをみつけたい。

2011-06-27 06:00

正しい手洗いのコツ

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正しく手を洗っているか。
手をきれいに洗うことが万能だったり、最優先というわけではないけれども。
わかっていること、自分が理解していることをまとめてコツとしてメモしておきたい。

手洗いは一生使える技術である。
また、夏には食中毒を、冬には風邪やインフルエンザを予防することに役立つ。

  • 手を洗うことの目的は「汚れ」を落とすこと。「汚れ」は無機物と有機物に分けて考える
  • 無機物というのは泥やホコリのような物。汚れとしては見てわかりやすい。種類や量にもよるが直接に人体に影響をあたえることはない
  • 有機物は汗や体液、油、脂のようなもの。化学的に皮膚に影響をおよぼすものもある。大事なのはウイルスや最近の栄養や培地、足がかりに好適だということ
  • 乱暴に言えば、流水で無機物を主眼にして洗い落とせば、衛生的に十分清潔になる。それだけでは不十分になるという例外は食品を扱う場合や医療などの分野
  • ウイルスや細菌の感染や伝播を予防するには石けん(など)を使い「化学的」に洗う必要がある。石けんの役割は結局、「アブラ(脂・油)」を皮膚から引きはがし、細かく分け、再び戻ってくっつかないようにし、水に優先的に引かれる状態にすること
  • 最大のコツは石けんをよく泡立てて洗うこと
  • 泡立っているのがうまく洗えている(アブラが十分な量の石けんで処理されている)サイン。一度洗っても泡立ちが悪いようならば「アブラがまだ石けんの量を上回っている」ということ。キチンと洗うということは回数や時間ではなく、「泡立ったか」で判断する
  • (2011-06-26 15:30 追記)泡立っているということは十分に表面張力が低くなっているということ。泡を立てるのは洗顔でも、洗浄でも、別に「見た目が洗っているっぽい」からというわけではなく、洗浄効果が出ているかどうかの良いしるしである
  • 指輪や腕時計は外す。いくらキチンと洗ってもこれらの大きな「無機物」があってはムダになる。「ちゃんと洗うつもりがあるか」はこれをしているかでもすぐわかる
  • 細かく言うと、必然的に利き手は非利き手で洗うことになるので比較の上では洗い方が不十分になりやすい
  • 手洗いの後には「乾燥」が要る。手がぬれたままあちこちに触るということは、また「汚れ」を付けることにつながる。水(水分)があるだけでも微生物にとって有利な環境になる。余談だが、調理施設などの床も水で流せばそれでキレイになったように感じてしまうが今どきはドライにするのが衛生的に標準
  • 食中毒やインフルエンザの流行でスーパーストアや公共の場所などにアルコールスプレーなどが置かれるようになったが、それのみでは有効とは言いがたい。まず先に無機物・有機物などを洗い除いてから、さらに本当に必要ならばアルコールによる殺菌をするのがスジ。効果がまったくのゼロとまでは言わないが、シートベルトをしないでエアバックにすべてを頼るようなもの。主従が違う。適切な組み合わせと相乗効果を理解すること
  • 石けんやアルコールも過剰に使えば、皮膚を傷める。ミクロレベルでも傷ついた皮膚はかえって細菌などの好適な「土壌」になる。皮膚のバリア機能を害するほど洗うのは本末転倒になる
  • コストパフォーマンスを考えるべきだが、センサー式の水道蛇口やペーパータオルは物理的な接触による細菌などの伝播を減らす。しかしこれもまずはキチンと洗えることの方が大事だし、そういった施設やインフラにばかり目を向けても意味はない。繰り返すがコストパフォーマンスの問題

すべてを科学で解明できるわけではないけど、すでにわかっている or 論理的に自明なことを、知らなかったり、実行していなかったりすることは残念で悲しい。

2011-06-26 14:00

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独身の子育て – 結婚について(5)

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私は結婚も離婚も再婚もしたことはない。
もちろん子供はいない。
しかし、「子育て」はしていると思っている。
それは税金を払っているからだ。

国は結婚させたがる – 結婚について(2) | deathhacks

上のエントリに書いたように、「国」を発展させたり守ったりするためには、資源がいる。
物質的な資源ばかりでなく、人的資源は今後もさらに重要になる。
そういった意味で、子育てへの行政的な支援や、教育は国の根幹だ。
直接に子供をもうけて育てていなかったとしても、税は支払っているはずだ。
これは間接的な育児と言える部分を含んでいる。
何も人口が増えるだけが良い国家繁栄の策でないのは明らかだが、世代がうまく交代していかなくては国家も人類も終了する。

非婚であることや子供がいないことを辛さや恥ととらえる人もいれば、それを主体的に選んで人生を楽しむ人もいる。
結婚している側として、独り身のことを奇異に感じたり、真偽は定かではないがうらやんだりする者もいる。

結婚というものは、生き物としての自然や本能による行動というだけでなく、契約や制度としての面や、国などの集団からの観点、感情や日々の生活に直結する悲喜こもごもなどを含んでいて興味深い。

《ここまでの5連続エントリで「結婚」についてはいったん終わり》

2011-06-25 08:00

(関連エントリ)

「貧乏人は子を産むな」と言っている人々は、一つ重大なことを忘れている。

子を産むのは確かに親だが、子を育てるのは親だけではないということを。

404 Blog Not Found:貧乏な社会で子を産むな

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結婚に恋愛は不必要 – 結婚について(4)

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恋愛・愛情は結婚の大きな動機の一つだろう。
しかしそれが結婚すること、あるいは結婚が「うまくいく」ことに必須の条件とは言えないのではないか。
世の中にはお見合い結婚(どこからどこまでを「恋愛」結婚でないとするかは実は難しいと思うけど)というものもある。
自由恋愛からの続きとしての結婚が主流(のように見える)となる前は、「家」や「政略」によって婚姻がされた。
その他、「特に選択の余地なく」といったペアも、人口が密集する社会になる前は当たり前だった。

熱狂的な恋愛やロマンティックなドラマ、困難(の克服)がなくても、それほど夫婦関係が「失敗」するということはない。
たとえ強制的な組み合わせによる結婚だったとしても、生活していくうちになんとかなってしまっていたのが、旧来の婚姻だろう。
かえって現代日本のように、基本的に自由恋愛が可能だったりする方が、結婚自体ではなく、結婚「後の」生活に妥協できないのではないか。
そう。結婚が自由であると同じように、離婚も(不倫関係も)自由になっている。

メディアの恋愛観が人々に与える影響も大きいだろう。
確かに映画やテレビ、コミックなどで展開されるドラマはきらびやかで憧れを刺激されるが現実に当てはまるかはまた別だ。
芸能人やセレブリティの恋愛や出会い別れは興味を引くが参考にはしにくい。

小林よしのり氏のマンガにも「恋愛原理主義」のデメリットについては出てくる。
「良い」恋愛をしなければいけない、最愛の人と結ばれないならば生きている価値はない、といった extreme な物差しを持ちやすくなっている。

恋愛自体が不要と言っているのでも、愛情という感情に意味がないと言っているのでもない。
しかし少なくともそれらと結婚(というシステム)とをイコールで結んだり、セットで考えたりする必要はないと思う。

2011-06-24 08:00

パートナーは一人にしぼらなくても良い – 結婚について(3)

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結婚するにしてもしないにしても、「パートナー」をたった一人に限定する必要はないのではないかと思う。
もちろん、2人以上と同時に結婚すれば「重婚」だし、結婚していて配偶者以外と関係を持てば「不倫」とされ、独身でも同時に多数の異性と濃く付き合えば「浮気」と言われる。
これらには法的あるいは社会的な罰則や制裁が通常される。

別にこれらの「非倫理的(と言っておく)」行動や関係を奨めたり、許容しているというのではない。

異性間の結婚には複数のパートナーシップ関係がある。
愛情にもとづくもの、セクシャルなもの、再生産(子どもをもうける。育児)、労働の分担、経済的な共同体、趣味の共有、住居の共有、などだ。
これらを必ずしもただ一人の異性に求めるのは、ときに少々無理があるのではないか。
むしろ、愛し合う人と性的関係を持ち、親類や社会に認められて、一緒に暮らし、経済的にも充足して、楽しみを共有し、子どもをつくって次の世代に申し送る、というのは理想的すぎる。
多くの人たちは、こういっては何だが色々と妥協しているはずだ。

様々なパートナーシップを厳選した相手に一度に求めるのは、集団としては効率がよかったのだろう。
少数の雄や雌が、ある程度の規模の集団内の異性を「総取り」する種もあるが、人間そして日本ではそうはなっていない。
公平に。一人につき一つ(一人)までにしてください。
そういうルールになっている。

しかし社会は、これだけ多様に、豊かになっている。
情報の流通コストも下がった。
パートナーシップを求める相手を使い分けてもいいのではないか。
一緒に暮らし子どもをつくる相手以外に、知的により語れる関係を持つのも可。
経済的なパートナーシップと住居などをワンセットにしなくても良い。
おそらく単純な「種」としての再生産や繁栄という面では不利になるが、ヒトという種についてはその方向になる、あるいはなってきているように思う。

2011-06-23 06:00

国は結婚させたがる – 結婚について(2)

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基本戦略として国家は、国民が結婚して子どもをつくるを推奨する。
そうすることが国民を増やし、経済的にも、軍事的にも、多様性としても、国力を増すことになるからだ。
そう。結婚という自由意志や権利に思える行動を、国がコントロールしているとまでは言えないが、大きな影響を与える。

例えば、結婚をして夫婦が生活していく上では、税法上の控除があったり、育児のための便宜があったりする。
つまり国は、その裁量内で、「結婚した方が有利ですよ」あるいは「子どもをもうけた方がメリットがありますよ」というメッセージを適切な強さで送ることができる。
それが国家としての政治機能の一つだ。
国民が幸せに快適に生きることによって国が強くなる。国が強くなることによって国民が満足する。

この周辺を考えるとまた実感する。
独身は不利だと。(そして私は独身だ)
「独身貴族でいいですね」などと言われるのはお為ごかしだろうと思う。
おそらく人間というものはよく言われる性質の関連として、自分が独身のときになぜ結婚しよう(したい)と思ったかを忘れてしまうのだろう。
あるいは現状の不満や不安を、過去の選択の間違いに起因するものとして考える。
だけどきっとそのネガティブな感覚は過去にどのような生き方を選んでいたとしてもあまり変わらないだろう。

2011-06-22 07:00

結婚は契約である – 結婚について(1)

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結婚とは何かと問われたら「契約だ」と答える。
それは結婚に法的義務がつきまとうからだ。

結婚したら責任が生じる。
それは企業と企業が商いをするときの取り決めと同じように。
個人が車や不動産や冷蔵庫やパソコンを買うときと同じように。

だから結婚という社会の中のごく私的な関係について司法は口を出す。
介入する。

やれ夫婦生活はどれくらいが普通だとか、経済活動で得た収入の分配だとか、共有財産(そこにはペットや子どもも含むかもしれない)の所有権だとか。
ありとあらゆる部分について(司法が必要とされて、司法が受け持ったならば)法が解を与える可能性がある。
法治国家としてのあり方と言えばそうだ。

もちろん契約という面だけではなく、人間の感情や生き物としての本能に沿った部分はある。
しかし、先に結婚という制度があって、だから男女が結婚するのではないことには気をつけなくてはいけない。

2011-06-21 06:00