K10を調べている

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「K10」は近年開発された、うつなどの気分障害疾患のスクリーニング心理テスト。
2002年に米国の Kessler らがつくり、厚生労働科学特別研究事業として、古川壽亮、大野裕らが日本語版をを作成。
有用性について検討し発表している。
「K6」という6設問のテストもある。

一般人口中の精神疾患の簡便なスクリーニングに関する研究(PDF

原版(原著論文)はこちら。

Short screening scales to monitor population prevalences and trends in non-specific psychological distress (PDF)

研究事業報告内や下記ブログでもコメントされているように、テストを開発した Kessler らが使用に関する権利を解放している(?)のが一つの特徴だ。

TFT・心理療法・催眠 MHL(エム・エイチ・エル) | あなたの心の健康は? 心理テストやってみますか?

ブログ筆者コメント

  • K10/K6は科学的、統計的に有用性が相当には検証されているようだが、使用にあたっては、使用者自身が十分に理解し、責任を持って利用するべきだ
  • いったん、有用と考えられても、社会や疾患概念などの変化によって、その有効性が変化することは当然ある
  • あくまでスクリーニングテストとして開発・検証されていること、物事、特に心理やメンタルヘルス分野には「例外」が多いことや、「アレンジ」が必要な場面が少なくないことを肝に命じておくこと

2011-05-31 10:00

振り返りまでを、教え、トレーニングするのは難しい

いわゆる素人(メンタルヘルスの専門家でないということ)に教育するのでも、実習の時間割合を多くした方が最終的に満足度は高くなる。
その指導の際は、欠点や失敗を直すよりは、アグレッシブに一つのやり方に固執・礼賛しすぎる傾向を多少修正するくらいにとどめること。
振り返りを被教育者同士だけで上手にやるには、かなりの時間コストが必要になる。
専門家を育てるのでないのならば、修行で終わってしまうような教え方を押し付けるのではなく、教える側としてもそこそこの成果と技術習得で満足するべきなのだろう。

2011-05-30 14:00

やはり外に出ないとダメだ

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限られた自分のフィールドだけで生きていると、いくら意識しようとしても、感覚や常識が狭く固定化される。
アウェイの環境に無理矢理にでも自分を置いて、危機やピンチ、失敗や残念、後悔を感じよう。
そのトレーニングや経験は必ず自分の成長や成果として現れる。
もっと早く気づいて行動しても良かったが今からでもまったく遅いということはないだろう。

2011-05-29 09:00

グループミーティングの結果得られる心地よさはどこから来ているのか

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仲間内の勉強会で自分たち自身がグループミーティングをした。
テーマは東日本大震災の始まりから今現在までの3ヶ月弱における個々の行動や生活、考えや思いについて。

内容については別として、少なくとも私自身としてはミーティングによって「気持ち良さ」が得られた。
その「気もち」はどこから来ているのか。
なぜそう感じられたのか。

一つには情報が得られたことが理由だと思う。
自分以外の人間が3月11日の発災のとき、どこにいて、何をしていて、どう考え、いかに行動したかを知ることは、とても興味深いし、自分のことと対照して振り返ることができる材料になる。

しかし、一般的な情報は別に今回のように仲間内であらためて集まり、交換しなくても多く得ることはできていたはずだ。
では、それらと何が違ったのか。

それは仲間内という関係に含まれた「属性」や「背景」が影響していたと思う。
知り合いで面識があり、似た立場や仕事をしている間で互いに情報や思いを交換をしたことは、より自分個人との比較や考察の上で質・量の両面でメリットがあったのだろう。

まとめて考えると、

  • まず情報は、まったくなかったり、不足しているよりは、分量がある方が良い
  • ただし、単に情報の量にこだわるだけでなく、参加する人間の属性や背景をうまく扱うことで質的にも量的にもグループミーティングの成果は上がる

ということだ。

2011-05-28 11:00

あっさりと謝れるか

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人間の器の大きさの問題ではなく。

こだわり、しがらみ、か。

でも、自分のこだわりについては譲らない。

狂犬のように何にでも噛み付くわけではない。

他人からどう見られるかはわからない。

2011-05-27 09:00

メッセージコントロールのトレーニングに鏡を使う意義

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カウンセリングの基礎として「メッセージコントロール」を教えている。
カウンセリングはただ単にフンフンとクライアントの話を聞いていればうまくいくというものではない。
(うまくいくことも、もちろんある)
カウンセラーが適切に「メッセージ」を出さなければクライアントとの間に適切なリレーションは生まれない。

メッセージコントロールのツールにはいくつかある。
うなずき、表情、質問、要約、間、アドバイスなどだ。
このうち「表情」をトレーニングするのに鏡(手鏡)を利用してもらっている。
なにしろまず、自分がどんな顔をしているか、クライアントが見ているものは何か、それがどんな印象を与えるかを知らなくては話は始まらない。
スポーツと一緒で自分がどんなプレーをしているかの現状認識をすることは大切だ。

このとき鏡の大きさは重要だ。
ただ「鏡を用意してください」とだけ言うと手のひらくらいの大きさの鏡を持ってくることが多い。
女性ならば化粧用で携帯できる大きさのコンパクトミラーなど。
しかし、この大きさでは適切なトレーニング、現状認識はできない。

なぜか。
小さい鏡だと、自分の顔全体を見ようとしたとき相当に近づけ、覗き込まなくてはいけなくなるから。
顔の一部分を確認したり、簡易に化粧をしたりする目的ならいいが、メッセージコントロールにおける表情や全体の印象を見るためにはこれではダメだ。
目安、理想としては概ね、一般的な会話(カウンセリング)でカウンセラーとクライアント互いの距離の半分の距離に鏡を置いて顔全体が映る大きさということになる。
つまりこの条件で見える自分の顔や表情をクライアントは見ているということになるからだ。

人間の目や頭は視覚的な環境やゆがみに対して、平常では驚くほどうまく適応している。
しかし実際はある対象に顔を近づけて見ようとすれば、視野が狭くなるし、目に映る映像は遠近法的に不自然(普通の会話の距離と比べて)になる。
カメラで景色や人を写し取ってみると、思いのほかデフォルメされているように記録されてしまったり、画角が気になってしまったりするようなことはある。
それと同じことだ。

鏡だけでなく、他人から見た印象を聞く、ビデオを使ってみる、姿見くらいの大きさの鏡を使ってみる、iPad2で録画してみるなど、できる限り、「自分がそうだと思っている自分」と「他人(クライアント)が見ている自分」のビジュアルを近づけておく訓練は必要であり、有効だ。

2011-05-26 10:00

適正な言動や能力が伴って初めて、資格が認定される

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「自分は○○という資格を持っているのだから、私のした○○は正しい」という言説がよくある。
この言説はまったく順番が違うし、道理を履き違えている。

資格それ自体はその人の能力も知識も人格も人間性も、直接には何も表してはいない。
正しい(と思われる)行為や発言がある一定の水準と頻度で繰り返されたときに、その人が信頼され、信用でき、認定組織との一定の契約によって認定される。
ただそれだけ。

「何を言うか」よりも「誰が言うか」ということもある。
それに大きく影響を与える「資格」には十分注意をしたい。

2011-05-25 11:00

活動した後にアウトプットしなけりゃ成果は半分以下

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テーマとしてはメンタルヘルスのチームワークに関して。
現場で実践するだけでは足りない。
学習としてもったいない。
そのチーム内、あるいは仲間同士でアウトプットし合えば、実践での学びの大きさや深さは、おそらく倍以上になる。

私が思うに、結果の振り返りを、自分一人だけでするに終わらないことの利点は3つ考えられる。

1 良いところの確認、改善点の洗い出し

まず、当たり前のことのようだが、活動全体および個々細部の検証をキチンとすることが大事だ。
良かったところは褒め(合い)、確認しあう。
悪かった点、失敗や改善した方がよいことがあれば、自分について開示したり、互いに指摘しあったりする。
あらたまって、振り返りをしなければ、個人としてもチームとしても、「なんとなく良かったんじゃないか」「何かわからないけどモヤモヤした気持ちが残った」という曖昧な印象になる。
この振り返りはできるだけ早く、適切な時期にしなければ、印象が事実を覆い隠したり、記憶が誤ったものに塗り替えられたりしてしまうことを恐れなくてはいけない。

2 アウトプットして抽象化することによる自分自身へのフィードバックと記録

できるだけ事実を、時に客観的に、時に正直な感情を思い返して想像して、表現してみると良い。
表現する、あるいは表現しようとするだけでも、思考は進み、抽象化され、一般化されることによって、再利用可能な学習効果が得られる。
この作業は同じ場にいた人間、信頼できる、力量のある仲間と協力しあうことによって、よりうまくできる。
そうは言っても、クライアントの直接的不利益にならないような自分だけが気づいた失敗や、どうやっても言葉にできない感覚的なものなどは、無理に形として出したり残したりしなくても良いとは思う。
厳しい業であっても、原理的な修行でも、マゾヒスティックなプレイでもないのだから。

3 周囲の育成。次を育てなくては続かない

最後に強調したいのは、集団としての学習効果だ。
そしてその反復をシステムやルチーンにまでして欲しいということだ。
業界に入っているからには、過去の知見を受け取り利用するだけでなく、常に貢献する道義があると思う。
第一歩を踏み始めたビギナー・ルーキーでなければ。
否。
新人であってもメンタルヘルスの分野では、その人個人の人生をかけて、何事にも「ひとこと」はコメントできるだろう。
また、現実的に、ドンドンと次世代を育てなくては、自分も組織も、次のステージに進むのは難しい。
育てることは自分自身のためでもあるのだ。

まとめ

極端に言えば、全体の成果が目減りするとしても、記録や振り返りに労力を費やした方が良いと思っている。
メンタルヘルスあるいはクライシスというものを扱う場合には、結果に汲々としなくてもいい、過剰なくらいに慎重に謙虚にするべきだ。

2011-05-24 08:00

記憶は信用しない、記録だけを信頼する

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4年くらい前に、ふと、写真を趣味としようと思い、始めた。
それとはまた別に、だいぶ以前には、写真というものの意味をうまく理解していなかった。
その場にあるもの、目で見えているものを、フィルムやデジタルデータに記録するだけであれば、誰がやっても同じ結果が残るだろう、それならば何か味気ない、という誤った認識をしていた。

写真は確かに記録だ。
データだ。
それそのものに善悪や感情などは含まれていない。
でも、私たち人間は、それから「物語」を読み取ったり、作り出したりすることができる。

一方、人間は記憶や思い出を重視する生き物だ。
人類が、本質的に不完全ではあるものの、事象や知識を外部に記憶して(石や紙やビットに刻み付ける)、伝達や継承ができるようになったのはつい最近だ。
それまでは記憶の口伝しか存在しなかった。

記憶が常に誤りとは言えない。
むしろ、価値判断や感情が事実にプラスアルファした一塊をもらった方が、受け手として有利なこともある。
小説や映画などはそうだ。
事実だけで満足して楽しめるほど、人間の想像力や欲望の閾値は低くない。

記録にはやはり絶対的に強力な価値やパワーがある。
私が写真を撮っていると、周りからは趣味を楽しんでいる、遊びとしか見てもらえないことが多かった。
実際、私自身も別に報道記録やドキュメンタリーを作っている訳ではなく、楽しんでもやっていた。
しかし、後日それらの活動現場の話を再現しようとすると、人間の記憶の曖昧さや食い違いがいっぱいに出てきて、いくら議論しても埒があかないことがあった。
そんなとき、何気なく撮っていた一枚二枚の写真が解決することがある。

議事録や日記、日誌、報告書など、事実を客観的に、科学的に記録する手段はいくつもある。
それにプラスして、比較的近代に発明され、デジタル+ビットで新たに発展しつつある「写真」というテクノロジーは、時に信頼に足る力を示して、私たちの人生を助けてくれる。

2011-05-22 06:00