残念な人に引導を渡す、自分は残念な人かという命題

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他人の残念な言動を耳にして。
私はこれまでも、メンタルヘルス分野で個人が活動していくための姿勢をテーマにエントリをまとめてきました。

メンタルヘルスの教育をするときに最終顧客を見すえる | deathhacks

鬱うつカウンセリング | deathhacks

うつ(およびリハビリ)のクライアントや惨事後の当事者・関係者をサポートするためには、支援者自身が「健全」か「倫理的」かを常に自分または仲間の協力を得て確認していなくてはいけません。
それでなくては「良かれと思ってした事が害を為す」という、最も残念な結果につながる可能性が高くなるからです。
忘れられがちですが、「何もしなくても結果は同じだった」あるいは「何もしない方が良い」という場面がメンタルヘルス分野には確実にあります。
しかし、その見極め方は未だ他の分野ほどには科学的もしくは論理的に体系化されてはいません。

機会があれば、自分の周囲だけでも「残念な人」や「残念な言動」を排除したいという思いに駆られます。

自称メンタルヘルス実力者の暗躍 | deathhacks

しかし、一方で、クライアントや関係者を「最終顧客」などと目して、偉そうに自己を規制していても、私は自分のモチベーション motivation がどこから来ているのかを感じ、考えてみると矛盾のようなものに達してしまいます。

私はまず、他人を助けたり支援したりする前に、自分を知り、自分を助け、自分が楽しみたいからです。

誰のためにメンタルヘルスの勉強をするのか | deathhacks

そんな自己チューな私に、他人の思いを曲げたり、いくら不誠実・非倫理的な言動であったとしても介入や指摘をする権利があるのだろうか? と思います。
しかし、そこで他の人にも意見を聞いて「他の人もあなたは間違っていると言っている(心配している)」と表現することは私の感覚ではアンフェア unfair な評価になります。

折しも一つの区切り・結節が近づいており、その時点での自分の言動を思い描きつつ、自分の進退や行く末については客観的にも興味深い、継続するテーマ・命題として考え、議論していくことになるでしょう。

2011-03-05 07:00

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