優しいのではなく単に余裕があるのだ

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優しい、と言われることが最近結構ある。

その背景には、善意、のようなものもあるのだろうが、余裕の有り無し、が一番大きな要因だと思う。

優しくない人は余裕がなくなるような止むに止まれぬ原因があったりするのではないか。
もちろんそうではない人もいるけれども。

2014-01-15 21:00

僕はモラトリアム人間だと言われる

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近年よく「モラトリアム人間だねぇ」とか「モラトリアムをもう止めたら?」とか言われることが重なっている。

「モラトリアム人間」が何かと言えば、どうも小此木啓吾先生が著書の表題にもしているくらいの、いわば“由緒正しい”言葉であっって考察や研究の対象にもなる。

どこの党派にも、どの組織にも帰属感をもたない、無党派、脱管理社会、若者文化志向の万年青年的な心性の持ち主

らしい。

ただ、どうして僕がそういった性質や人格を持っているのか、どうしてこうなった、のかについては個人的に考えていくつもり。

一つには、僕の体験した臨死体験、がある。
もう一つには、天の邪鬼気質、が絡んでいると思う。

ライフワーク的とらえ方を今の時点ではしている。

2014-01-09 22:00

小此木啓吾 – Wikipedia

アイデンティティというお題が出て考えたこと

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「アイデンティティという言葉を聞いてどんなことを考えますか?」というテーマがあった。

アイデンティティについてのあるなしを考える人もいれば、自分のアイデンティティ(の基になるもの)は何かを考える人もいる。
そもそもアイデンティティとは何かということを考察する人も多い。

「あなたのアイデンティティは何ですか?」と問われると、仕事、職業、あるいは勤務所属する会社や団体のことが頭に浮かぶ人が多いと思う。
しかし、今の僕であれば自分が含まれる仕事や会社、グループのうちの、ある一つを思い浮かべるということはない。
根無し草のように、いいかげんに、自由に、その日暮らしくらいの気持ちで、フラフラと生きてみたいと考えて実行して2年くらい経ち、まったくと言っていいほど反省や後悔をしていない。

自分の今のアイデンティティと言うならば、いくつかフワフワと適当に所属しているグループやら趣味やら友人やら勉強会やらSNSやらこのブログのエントリやらを総合して、自分なり他人なりが感じたものがそれだと思う。
そのアイデンティティは当然ながら見る人や持っている情報の質、量によって違ってくる。
自分の見方と他人の見方が一致するということの方があり得ない。

かくして、自分が何なのかという質問には大変答えにくい。
フリーターだとか返してしまうことが多い。
こうした答えは決して質問してきた人を煙に巻くとかおちょくるとかの意図はないのだけれども、何かシャキッと会社名とか職業名とかの分かりやすいラベルが返ってくることを期待している人は戸惑ったりイラッとしたりするのかもしれない。

2014-01-01 18:00

40歳になると直球が変化球になる

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40歳になると(私は実際にはまだ39歳だけど)、それまでと同じ言動をしていたとしても、あるいは自分自身を変革したパターンでも、周囲・社会の受け取り方は20歳代、30歳代のときのそれとは異なってくるのかもしれない。

かなり強引な一般論だが、40歳も過ぎれば、世の中や人生の様々なことを見聞きし、経験してきているだろうから、うまい具合にアクが抜けたり、適度に妥協することを憶えたり、今更自身や環境を変化させることを嫌うようになったりするような気がする。
私自身も漠然と、そういった中年以降の大人を見てきていたり、自分がそうなっていくこととを想像していた節がある。

しかし、自分がその地点に来てみると、そうした想定は一部は当てはまるが、結構な割合で外れていたり、まったく似ても似つかない方向性を持っていたりするような気がする。
そして、基本的にはそれが心地良い。
あるいは逆に、心地良くなろうとしていると、アクを出し、妥協せず、まだまだ変化していこうと思える。

そして、そうした性質が中年の自分にあると周りの少なくない人からは新鮮で異端で変わり者で掴みどころがない人間であるような評価を受ける。
まったく望むところでありがたいくらい。

プロ野球の投手が新人から20歳代のうちは速球派で鳴らしていても、30歳代も進むうちに技巧派・変化球投手にトランジションしていくケースはとても多いだろう。
それは悪いことでも奇異なことでもない。

しかし、そこで速球派のままにプレーを続けることができたならば、対する打者やチームは頭や目では理解していても「この年齢の投手がこんなにまっすぐ主体で投球を組み立ててくるはずがない」とか「勝負どころではやはり変化球で来るだろう」とかいう微妙な錯誤をする確率が高くなるのではないか。
20歳代の投手が時速140kmの球を投げ込んでもある意味、意外ではないが、それが40歳の投手であれば、魔球とまではいかなくても「逆に」変化球のような効果‐それはほとんど心理的なものであるわけだが‐をもたらすかもしれない。

ちょうど水島新司の「あぶさん」(違った?)に出てくる超ベテラン投手兼監督の岩田鉄五郎が、全力投球していて、打者としてはもうその疲労困憊の様子が高度な心理的駆け引きとしての演技なのか、本当にへばっているのがよくわからなくなって、結局打ち取られてしまうという場面が私には思い浮かぶ。

私自身の場合は、自己分析的にはさらにひねくれていて、20歳代のときにはさまざま人生や思考をこねくり回していて、言わば変化球を投げまくっていたような感じかもしれないと勝手に思っている。
そして、今ごろになって何を思ったのか、目一杯力んで速球をビュンビュンと投げたくなってしまっているようだ。
これが適切かどうか、体を壊さないか、続くのか、はたまた続けるのかはわからないが、当人としてはとにかくワクワクしているし続けたいという気持ちのようだ。

2013-03-22 08:00

あぶさん – Wikipedia

自分がシャイなのか

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周りが無遠慮なのか。

でも、数百人いたとしても多分手を挙げていた。

数人であっても近寄ったり触らせてもらったりしなかった(かも)。

2013-02-11 06:00

Posted from Drift Writer on my iPad mini

困難に向かう性質

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疲れるのにわざわざ出かける。
回復するとまた行きたくなる。

しんどい思いをすることを選び、わざわざ他人にお願いして、自分自身に負荷をかけることをよしとする。
自分一人では自分を管理したり、成長・超回復するための修行が積めないから。

これは性質・正確なのだろうが、どんな人間でも持っているものでもある。

2012-12-23 11:00