伝聞でしかないのだけど、今般の災害に被災した方々の一つの気持ちのありようは、「今のことしか考えられない」「目の前のやることをやらなきゃ」というものだという。
発災当日からの激動の危機や生活の変化がはっきりと思い出せなかったり、それほど遠い先でもないと頭ではわかっているのにこれからの生活の立て直しや諸々の手続きなど進んで向かえなかったりといいたことなのかもしれない。
もしも、そのような状況の人たちを心理的にサポートするのならば、「今だけに目が向く(向いてしまう)」ことを専門家として”解釈”してあげる必要があると思う。
過去にしろ将来にしろ、ある程度の長さの時間感覚で振り返ったり、見通したりするのは、実はとても高度に頭脳が発達した人間の特徴だと言える。
いわゆる平常の日本の生活ではそれで問題は生じにくい。
むしろ、過去の自分の一生を省みて何か有益な発見をしたり、10年単位で自分の行く末や死について思いめぐらせたりということは人生を豊かにする一つの標準的姿勢かもしれない。
しかし、生死の境をさまよったり、自身や家族・知人の生命の危険を脅かされたり、財産をなくしたり、衣食住もままならない状況、あるいは情報の乏しい状況などでは、原始的生き物としての本能から言って、時間的に「長い目」で見ることができなくなることは当たり前のことなのだ。
つまり、そのような心理的反応を「防衛規制」と考えてみることができる。
身体あるいは精神は、そういった反応をする(している)ことにメリットがあるということになる。
プロとしては、他の、うつやPTSDなどと同じようにある一定の解釈を適切に、情報やメッセージとして提供することが求められる。
もちろん、単純に話や表現を聞く、共感をするというのも場合によっては有効かもしれないが、大事なのは「支援者自身のため」に共感することではない。
その微妙な距離感を失うとそれは「同情」というややネガティブな状態になるかもしれないし、感情転移に気づけないということにもなりうる。
大事マンブラザーズバンドの歌にも「そこにあなたがいないのがさみしいのじゃなくて、そこにあなたがいないと《思うことが》さみしい」という歌詞があった。
そんな微妙な距離感、違いなのだと思う。
子どもでも大人でも、何か大きな困難や心配事、悲しい出来事などに出会ったりすると、わざと自分を追い込んで忙しくしたり、がむしゃらに頑張って自ら余裕をなくして乗り切ろうとすることがある。
それ自体は短期的には必ずしも悪い面ばかりではない。
プロがそれを見たときには、客観的に間違いを指摘したり、否定したりすることが最初には来ない。
当事者とは違う角度、視点、時間感覚から、その状態のメリットとデメリットを考え、適切なときに適切なやり方でサポートするのが仕事になる。
違いは、当人がそういった自分の気持ちを意識して半ばわざとやっているのか、災害や危険・困難に対面して思考や感情が「勝手に」そういった状態になっているのかということである。
例えば、時期を見て、心理的な事象についての情報提供をする、行政や医療などの連携できる資源とつなげるなどである。
ある一定期間、一定の時期には、防衛規制や極端なコーピングスタイルも有効ではあるが、今回の災がではそれがあまりに長期間に及び、うまく生活が立ち上がったり、行政や支援のサービスが提供されても、それと被災者個々の心理的復帰のタイミングが合うかは正に個別のデリケートな課題になる。
2011-04-06 07:00
コメント