自殺を最後の一線で止める要素はおそらく数少ないように思っています。
もちろん、見方によっては無限ともとらえられるかもしれませんが。
そして、いずれにしてもその内心について、生き残った人は積極的に語らず聞けずという面があり、死んだ人はそもそも語ることができません。
自殺を最後の一線で思いとどまらせる、というか躊躇逡巡させるモノの一つは恐怖です。
「死」というものはこの世で最も不可解な事象の一つです。
死んでから生き返って、死について説明した人間は人類史上ただの一人もいないからです。
「人間は必ず死ぬけれども一度しか死なない」というのは真理です。
「死」が分からないからこそ、多くの宗教や科学はその解明や説明を重要なテーマにしています。
死にたい人間にとっても死にたくない人間にとっても死というものに対する恐れは絶対的な力があります。
「死」に対する恐怖の少し手前には痛みや苦しみに対する恐怖があります。
個人的にはむしろ「死」そのものへの恐怖よりもこの「痛み・苦しみ」への恐怖の方が、少なくとも平常の人間にとっては重大だと思っています。
苦しみの回避は、一部の人間にとっては人生の大きなテーマです。
ですから、あの手この手で、意識的無意識的に、死のうとする人間は、この「痛み・苦しみ」への抵抗を減らそうと努力します。
アルコールを使う、眠りを利用する、危険を避けようとしない、自己催眠をかける、などの手段を並行的に使うことによってできるだけ楽に死に近づこうとします。
恐怖や痛み・苦しみという本能に近いモノ以外で死を拒ませるものには理性や合理、論理があります。
例えば「死にたいと思うのは(道徳的、宗教的な意味ではなく)間違いだ。だって一端生まれてきた生命がわざわざあらためて死を願うのは矛盾している」とか「何世代にもわたって変化・淘汰されてきた自分という最新の末端の生き物が不要なはずはない」というように考えることです。
このように考えることは、ある一定程度には有効ですが、自殺企図思考のかなり近くまできた状態ではあまり効果なく、予防もしくはリハビリというような状況に限ると思います。
2010-11-30 07:00
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