多数決はキライです

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一人一人がそのテーマに対してキチンとコミットしていないのに民主主義の象徴だとでも勘違いして義務的に習慣的に多数決を取ろうとする人がいます。
安易に多数決を採ることによって物事の決定が遅くなったりブレたりする怖さをわかっていないのかもしれません。

家庭の主婦が1日3回、食事のメニューを夫や子供たち、そして自分を含めて、全員の多数決で決めようとしたらどうでしょうか?
子供の意見が焼肉とカレーライスとハンバーグという組み合わせでローテーションし続けたらどうしますか。
夫の返答が毎回「何でもいいよ、オレは」であったらどう扱えばいいでしょうか。
食事ごとに人数も変わることがありますから多数決の参加対象は一定でもありません。

多数決では、長期的に見ると必ずしも適切ではない意見が多数を占めることがありえます。
どんなに子供たちの大好物だったとしても、毎食ハンバーグを食べてもらっていて良くはないでしょう。
栄養や味覚が偏るかもしれませんし、家計に与える影響も考えなくてはいけません。

多数決を採ろうとしているテーマに対して関心が薄い、あるいは理解をあきらめている(コミットしていない)人が多ければそれも問題をはらみます。
数人で食事をしようというときに全員が「私は何でもいいかなー」と言っていたらいつまでも食べるお店が決まらないかもしれません。

コミットしていない、あるいはコミットできない事情や状況があるのであれば、その多数決への参加を棄権したり委任したりするのが適切かもしれません。
その場合でも議論や意見の表明に限定的に参加することは許せます。

多数決や間接民主制としての公共選挙などを完全否定しているのではありません。
ある物事を決めるときに、盲目的に、あるいは慣れによって、多数決を採用することには異義があるのです。
多数決というやり方に、不適切な結論や時間の浪費、手間の増大という側面があることを知っていなくてはいけないでしょう。
(つまり、それらの問題を了解して受け入れるのならば問題は少なくなります)

民主主義としての多数決は決して万能で欠点のないものではありません。
独裁や方針の不統一よりかは「いくらか良い」というくらいがわずかながらの、そして他にはない、多数決の利点です。

2010-07-16 7a.m.

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