映画や小説のコアテクノロジーは端折ること

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映画でも小説でもマンガでも自己紹介でも、その核となるものは「省略」だ。

元々の物語と同じだけの尺を使わないと表現できない、伝えられないというならば、いくら時間や資源があっても足りない。
映画でも、説明書でも、ある人間の思考や思想、(擬似)体験を、別の人間に、そのまま同じではないにしてもリピートさせる。
それ自体は経験的に可能だし、素晴らしいことだが、すべてを完璧にやろうとしたら、人生や人格を二重にコピーするという不可能仕事になってしまう。

だから、端折る、のだ。

幸いに端折っても、実質問題のないくらいには、補間できる知能、というか能力を人間は多かれ少なかれ持っている。

この「端折っても伝わる」という現象がうまくはたらかなかったり、逆に「伝わらない」「伝えられない」という状態や心理をもたらすものの一つが惨事やクライシスと言われるものだ。
そうしたときには、聞くにしても、話すにしても、「端折らない」という日常とは真逆の工夫が必要になってくる。

2012-12-18 07:00

人に会っていなくても影響は受ける

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家族や夫婦でもなければ、人と人はそんなに長くは直接にコミュニケーションを取ってはいない。
これは一定時期・期間の職場や学校での人間関係についても同じだ。
そもそも、ヒトは生きている時間の3分の1は眠っている。
眠りの間は独立孤独な時間だ。

しかし、人間は他人の考えや思想、思念というものから影響を受ける。
会っていないときにも、特定の人を思い浮かべる。
会っていたときに話したこと、聞いたこと、そのときの行動などを思い出したり、反芻したり、あらためて意味を考えたりする。
シミュレーション的な議論だってする。
自分が困難にあったり、ピンチになったり、悩んだりしたときに、他者の言動を参考に「もしも、自分があの人だったら、こんなときどうするだろうか」と考えたりもする。

カウンセリングの効果の理由にも似たようなことが言える。
だいたい標準的な悩み相談、カウンセリングとして、たかだか1週間に1回1時間会って話しただけで、なぜ人やその考えが変わるのか。
もちろん時間や感覚に関わらず、ある一言やメッセージがガラっと人生を変えるということはありえない話ではない。
しかし、人と人が直接にやり取りをしていないときにも、同じくらい価値や重さを持った反応と思考が動いていると考えるのはごく自然だ。

「マディソン郡の橋」のように、普通に考えればごく短い期間の人間関係と感情がその人の人生そのもの、キャラクターに深く影響を与え、かつ与え続けるということはあるのだろう。
つまりそれは恋愛に限るようなことではない。

2011-11-17 10:00

(参考)

マディソン郡の橋 特別版 [DVD]
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物語が人の心に響くのはなぜか

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人間は原則として一度に一つのことしか認識できない。
同時に別のことを考えることはできない。
マルチタスクは幻想や錯覚だ。

「いや、私は一度にいくつものプロジェクトを切り盛りしているぞ」とか「ながら勉強は?」とか「車の運転をしながら音楽聞いたり英語の耳学習したりしているのはどうなの?」という声もあるだろう。
それらは集中するタスクを細かく切り替えながら処理しているか、訓練や慣れによっていくつかのタスクをパッケージ化して擬似的にワンタスクにしているかのどちらかだ。

人は一度に一つのことしかこなせないのに複雑な物事や仕事、思想や思考を流れや順番を考えながら処理できる。
それはなぜか。
人間には時間感覚と記憶というものがあるからだ。

時間感覚というのは、便宜上、1本の線のようなものの上を戻ることなしに流れる「時間」という概念があるという感覚だ。
そして、あらゆる事象や思考、体験をその線上に配置して認識することを人間はしている。
そのやり方の中では過去、現在、未来は原則として区別でき、区別される。
事象や体験そのものに時間や時刻が組み込まれているのではない。
人間が自分の認知や能力で「勝手に」頭の中で「時間」や「時刻」というタグをつけているだけだ。

記憶についてはどう考えたらいいだろう。
事象や体験とそれに時間というタグをつけたものが短期あるいは長期に「記憶」され、ある程度自由に意図を持って出し入れがコントロールできることによって、人間同士が直接、または世代や時空を越えてやり取りすることができる。
自分自身とのやり取りもここには含まれる。
メモや録音、録画、芸術、本、言い伝え、なども「記録」という記憶と似た機能を持つツールということになる。

ただし、このような「記憶」と「時間感覚」だけでは、人間はここまで複雑な活動を個人や人類としてしてくることはできなかったはずだ。
そこに絡まるもう一つの要素は「物語(ストーリー)」だ。
事象や体験、記憶に物語を絡ませることによってのみ、人間は一連の知的活動が可能になる。

単純記憶は難しかったり、コツが必要だったり、得手不得手が人によってかなり異なる。
しかし、「エピソード記憶」になると、途端に誰でも驚くような記憶力を示すものだ。
自己紹介ができない人間はいない。
苦手というのはあるかもしれないが、自分の過去や特徴が何も頭に浮かばないとしたらそれは一般には「病的状態」だからだ。

エピソード記憶は「興味」が関係している。
多くの人には経験があると思う。
自分が興味を持てない数学の公式や歴史上の事実、英文などは憶えられなくても、感動した映画や小説、恋人とのデート、びっくりした出来事であれば、強制されずとも、時間が長く経っても鮮明に再生できる。

興味とは、つまり感情だ。
物語には「感情」や「理由」「驚き」「快」「楽しさ」「悲しさ」「恐怖」などが含まれる。
物語(ストーリーまたはエピソード)が人間に対して説明をしたり、説得したり、記憶を残すために有効なのは、そこに「感情」が存在し、「時間感覚」に支えられた「順番・流れ」を認識しているからだ。

2011-09-12 11:00

世の中、質問に答えていないことがよくある

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自殺発生後の組織へのポストベンション、つまり介入をチームで行う時には「ストリー説明」というツールを我々は使う。
組織へのチーム介入の教育をしていて、ひと通りの座学説明が終わった後に、受講者から教育スタッフへ「スイマセン。『ストーリー説明』っていうのは『何』なんでしょうか? よくわからないのでもう一度教えて欲しいんですが。。」という質問がされていた。
ストーリー説明はなかなか一般に、概念や言葉としてまだまだ普及していないので、被教育者もとまどうことが多い。
今回出てきた質問は、よくあるものだ。

そこでのスタッフの対応としては「ストーリー説明って言うのはですね、、」から始まり「こういう風に情報を集めて、、」「こんなように心理学的に分析と考察を加えて、、」というような説明をしていた。
しかし、このときの対応や回答の目の付け所としては「ピントがずれていた」。
その状況についてだけ当てはまる見方であるのだけれども、質問をした受講者は「腑に落ちていなかった」。

こういったことは学習の場でも、日常でもよくある。
セミナーや講演発表などでも、質疑応答で演者のやり取りがずれているというようなことだ。

今回の質問では「何」という言葉を使っていたから、それに対応して「内容」を真面目に答えていた。
まったくの間違いではなかったのがさらに微妙な誤解が残ったままになった原因の一つだ。
ここでの質問者の「本当の意図」は「なぜ?」だったのだ。

「なぜストーリー説明をすると同僚の自殺が起きた組織の人たちは落ち着くのか?」という部分がうまくわかっていないという状態だった。
しかし、質問としては「何」という言葉を使ってしまっていたということだ。
こういうときにはその質問の背後や真意を理解していれば、「ほら、昨日まで普通に自分たちの隣で仕事をしていた人が、ある日自分で命を絶った、ということが起きたら『えっ、なんで!?』『信じられない』という気持ちになるでしょう。それでびっくりして落ち着かない。そんなときに必要なもの、ほしがるものは『コレコレこういう理由で自殺という結果になった可能性があると専門家の私たちには見えますよー』という理由の説明と解説なんです」という返答がまず適当ということになる。
その部分が飲み込めていないと、実際に現場でやることや標準的な手順を話しても質問者には「腑に落ちない」。

実際その場面では、講義の主担当がスーパーバイズ的に補足していた。

このように、質問に対して、本当に適切に対応していないということは世の中にたくさんある。
もちろん100点満点の回答が必ずできるというものでもない。
しかし、こういった質疑応答での「ズレ」というものを意識して敏感になることで教育ややり取りの質や相手の満足度というものは意外なほど良くなるものだ。

質問というのは、質問をする側にとっても、受ける側にとってもとても難しく奥の深いコミュニケーションだと思う。
だからこそ、エキサイティングだし、新しいアイデアや楽しい理解が生まれる場面でもある。

2011-09-05 09:00

「小川の辺」とメッセージコントロールとストーリー

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映画「小川の辺」を観てきた。

映画「小川の辺」公式サイト

時代劇で、主要な登場人物は武家の人間だから、表情の変化や感情表現が少ない。
その分を演出の間や心象風景、身体の動きや声音で表している。
「名優系」の演技は、カウンセリングでのメッセージコントロールとは反対方向のコミュニケーションになる。
わかりやすいものではないが、通好み、というか時代背景や文化を知っていればいるほどストーリーが理解できる。

たとえば、兄妹と幼なじみかつ家族として暮らし育ってきたキャラクターの立場や考え方などは日本人であっても、想像しにくいかもしれない。
ましてや、時代劇や武士文化をまったく知らない外国人などは、かなり補足情報がないと楽しめないかもしれない。

2011-07-13 10:00

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比ゆやショーマンシップの活用は邪道ではない

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メンタルヘルスの教育や情報提供の場に限らず、たとえ話やストーリーの「見せ方(魅せ方)」というのは大事だ。
しかし、そのコツや技術は伝達や教育、形式知にすることがやや難しいため、あるいは学問や科学的なものではないと思えるため、軽視されたり、「自分にはできない」「必要ない」とあきらめられたりしがちだ。

本道ではないと言われがちだが、そういったショーマンシップ的なツールは必須である。
前エントリ(人間は一度に一つのことしか認識できないからストーリー(流れ)が必要になる | deathhacks)の考察のように、人間は結局、物語がないと理解できないし、エピソードがないと記憶できないからだ。

もちろん「魅せる」だけではいけない。
科学的な知見や技術も適切に利用するべきだ。
経験的な「事例」というものを使うのも良いだろう。
(余談だが、喩えや比ゆは不正確で、事例は事実だからガチ、というのはまったく勘違いだ。どちらもクライアントや今現在の状況と離れた事象・イメージ・概念という点では同じだ)

個人的に、科学的、という話をするのであれば、私はグループ内では一番 evidential に探求している人間だと思う。

2011-06-08 06:00

人間は一度に一つのことしか認識できないからストーリー(流れ)が必要になる

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どんな教育でも同じだろうが、メンタルヘルスの教育でも一つのテーマについての知識や知っておくべきことは「全体としては」大きくなる。
これを、まったく知らない状態から丸々憶えたり現場で使えるようになるのはやはり簡単ではない。

小さなテーマそれぞれの順番やつながりを意識しなくてはいけない。
そこで有効かつ必要になるのがストーリー(流れ・物語)だ。
関連性や時間軸・時系列というようなものの中でたいていの人は「記憶」する。
エピソード記憶、というやつだ。

例えば、ある殺陣をやる場合に、複数の敵に囲まれていれば1回の攻撃で全員を倒すことは不可能である。
そこで、誰からどういう風に倒していくか、その間に自分がどう動いてどう敵の攻撃をかわすかということを流れ(つまりストーリーだ)で考えて動かなくてはいけないというわけだ。
ただし、ここで重要なのは(きっと)その流れには「唯一の正解」というものはないということだ。
人が変わればできること、やりやすい流れは変わってくる。
より美しく危険の少ないやり方もあるかもしれない。
見栄えのする派手な立ち回りも工夫できる部分があるだろう。

お弁当のご飯やおかずをどんな順番でローテーションして食べるかというのにもルールはない。
しかし、人それぞれにこだわりや「その人自身がやりやすい」やり方があったりする。

教える側としては、最大公約数的・ベストな「全体の見せ方」を探求しつつも、それが聞く側にとっては、流れをイメージしにくかったり、順番や重点を置く箇所が腑に落ちなかったりすることもあるのだということを認めておかないと指摘を受けたときに慌ててしまったりするだろう。

2011-06-07 07:00

(追記 2011-06-25 09:00)
(関連エントリ)

「人間にはマルチタスクはできない」という13歳の少女が作った含蓄あることわざ : ライフハッカー[日本版]

しゃべることによって話が(変化して)まとまる

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頭の中で考えていることを整理するために、誰かに話を聞いてもらうということはよくある。
このとき、結果としてアウトプットされたものは、元の思考やアイデアとおなじだろうか。
経験的にも、最初に思いついていることの色合いは残していたとしても、まったく違う話が出てくることが多い。
ということは、多くの場合、しゃべることによってアイデアを「まとめる」というのは「新たにアイデアを生み出す」ことに他ならないのだろう。

まず最初の起点となる”エウレカ!”が存在する。
よく言われることだが、この時のアイデアというものはとても儚く弱々しくモヤモヤとしたものだから、すぐにメモをするなりしゃべるなりしないとあっという間にどこかに消え去ってしまう。

次にアイデアを確固たるものとするためには、それを言葉や図式にしなくてはいけない。
言葉や図式と言ったが、よく使われるツールとしては言葉かもしれない。

言葉は(図式もそうだけど)「抽象化」の道具だ。
「抽象化」ということは、物事や事象、アイデアの「部分を抜き出す」という作業になる。
つまり、「抽象化したものは元のアイデアをそのままに表していない」ということになる。
似てはいるし、面影は確かにあるけれども、”まったくの別人”と表現してもいいかもしれない。

部分を抜き出す、というだけでなくその過程で、新たな部品が付いたり、表現手法が洗練されたりといった変化もする。
これも、抽象化あるいは他人へ伝えるコミュニケーションの中で自然に発生している現象である。

こうしてできあがったものが生成物としての「話」なのだと思う。
話すことや書くこと、自分の頭の中だけに思想や思考を閉じ込めておかずに抽象化してデータにし、外部化することは、決してできあがっているものを単に記録するというだけのものではない。
失われるもの、付け加えられ磨かれるものが必ずあって、そこでは創造的作業が行われている。

2011-03-30 08:00

話を聞くというのは事実を聞くのではなく物語を共有すること

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物語を共有するには事実と思考・感情をバランスよく、順番がわかるように聞く。

それによってカウンセリングであれば、物語を話したクライアントは、カウンセラーを信頼できるようになるし、味方になってもらえる可能性を感じるし、アドバイスを受け入れる態勢が整う。

ドラマであれば、そうして初めて、感動や喜び・悲しみ・楽しさ・問題意識などの深い感情と思考が受け手に現れる。

2011-02-21 07:00