相手が年末年始をどう過ごすのかをなぜ質問するのか

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この時期(2012年12月下旬)「年末はどうするんですか?」という質問をよく耳にするし、尋ねられる。

単純に他人の動きに興味がある。
自分の過ごし方を話すための枕として。
帰省することの楽しさや困難さなどを共有したいという心理から。
あるいは、まったく社交辞令として。

どうして聞くのかとか、どう答えるのかとか、そのあとの会話の展開なんか考えると、興味深く、緊張する。

2012-12-30 12:00

自分の家で料理したり食事をしたりすることが珍しいことになっていく

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食事、料理は専門家や専門サービスが担い、個人や家庭で料理をすることは稀になり、趣味やニッチとして残るのみになるだろう。

こんな話をすると、食文化の否定のように思われたり、家庭の味や食事を通したコミュニケーションが無くなるわけがないと感じられるかもしれない。

だが、例えば農業について考えてみて欲しい。
大昔には家族や村単位で自給自足的に農作物を作り生活していた。
しかし、今では人口が増えたことにより(そのことが鶏なのか卵なのかはわからないが)、一部のプロが大量生産をして、その他の人類に供給している状態だ。
家庭農園や菜園などを玄人はだしでやっているというのは、やはり趣味的なものであるか、余程特別なニーズか志があってのものだろう。

また、医療についても挙げていこう。
家庭ややはり村などで、病や怪我を処置したり、治したりといったことは生き物としてヒトにとっても自然で重要なことだっったはずだ。
そこへヒポクラテスを象徴的な始祖として「医学」という概念が生まれ、科学と論理・経験の積み上げと継承によって専門的手技や体系、サービスとして確立され続けてきた。
今では一定以上の医療については、家族や一般人が為してはいけないというまでになっている。

このように農業や医療が一般人や家庭から奪われた。否。社会への適応や効率化を目指した自然な結果として、工業化、産業化、サービス化、専門家が起こり、一般の人間はその成果を利用して別の部分での仕事や生活にエネルギーと時間を向けることができるようになったのだ。

こうして考えると、個人や家族の中で料理をして食事をするという様式が、数十年か数百年かの時間をかけて、まったく存在しなくなることはないにしても、とても珍しい文化行動になっていくのではないだろうか。

2012-11-22 08:00

学習スピードはグループ内で一番遅い人が律速する

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グループ学習は果たして効率的なのだろうか。
その時々で見る角度や焦点を意識しながら判断する必要がある。

経験的に、グループでの学習スピードは、どうやっても一番遅い人に合わせることになる。
もしも、進行を早めようとしても、ある程度まではできるだろうが、結局配慮や質疑応答などによってブレーキがかかる。

これはデメリットだけではないし、社会全体としても同じことが言えるから、「小さな社会」でもある「グループ」でも許容しなくてはいけない面がある。

逆に許容してはいけない場合もある。
例えば、グループやチームがプロ契約として、活動しサービスを提供している場合。このときには、チーム内に未熟な者がいたとしてそこにレベルを落として合わせることは、期待された最高の成果を上げる妨害となる。
また、学習が一番遅い人、能力が他の人に比して著しく低い状態の人がいることによって、所属組織そのものの存在が危うい場合。そうしたときには「切り捨て」もやむを得ない。

要するに、組織の属性や位置づけにだいぶん左右される。

2012-10-01 07:00

一緒に旅をできない人たち | deathhacks

日本の社会でルールを知らなきゃ勝負にならない

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いざ調べたり関心を持ったりしてみると法律などで決められていることばかり。

思った以上に、日本の社会は誰かがすでに、問題意識を持っていたり、整備していたりすることが多い。

社会への関わりが深い仕事では、知恵でだけではなく、知識量や研究の蓄積がなくては勝負にならない。

2012-08-09 12:00

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時間とお金の等価性の話

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時間をお金で買うことができる

「時間をお金で買う」とは、長距離移動する時に、車なら高速道路を使うとか、電車ならば急行や特急、新幹線に乗るようなものだ。
徒歩と電車・バスを組み合わせるのではなく、タクシーを使ってしまうというのも、時と場合によってはコスト的に十分ペイするだろう。
ルーチンワークなどを社内外の他人に外注して、自分自身はより高付加価値のある仕事をするというのも同じことだ。

現代社会のネットワークや技術、密度などを活用すると、増々容易に時間というものをお金で買うことができるようになっている。

お金を時間で買うこともできる

では、逆に「お金を時間で買う」ということを考えてみる。

これは一般的な雇用における時間拘束や、もっと直接的には時間給を払うことで労働力を買い上げるしくみということになる。

実際は時間だけではなく、その時間内に肉体や頭脳を使って仕事力を提供することによって、汎用的な価値のある金銭を得る。
金銭が時間に比べて優位なことは、それを様々な物やサービスと交換しやすいという点だ。
それに他人の時間を直接にいただくわけにはいかないが、お金ならばそれが可能になる。

「タイム」という映画ではそのものズバリ、金銭が経済の血液ではなく、時間がその代わりになっているという世界を描いている。

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時間とお金の違い

時間とお金の違いは何だろう。

どうやら、現代社会ではうまいことに、互いに様々なレートで行ったり来たりをさせることができる。

ただし、お金の方が、無限性が大きい。
科学的にどうかはわからないが、ある程度コントロールされつつも、世の中の貨幣経済の総量は増えている。
理論的には無限だろう。

実際は無限でなくてもお金と比較すれば、その差は歴然だ。
時間は誰でも最大で一日24時間しかないものだから。
逆に何かしらの理由で時間を早く進めたくても不可能だ。

それに人間は生き物としての制約があるから、24時間が平等に与えられていても、その中で睡眠や食事、社会的な義務などでその利用には一定の制限が加えられている。

まとめ

時間とお金は異なる概念だ。
ただし異論はあるかもしれないが、どちらも人間が生み出したものだ。
概念は変えられるし、意思や思考によって利用や運用ができる。

これらを交換可能だというのは、別に不思議でもなんでもない。
元々どちらも人工的なものだからだ。

2012-07-21 09:00

(関連エントリ)

自由と時間と健康とお金の話 | deathhacks

ホーソン効果と私

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ホーソン効果というヤツがある。
観察されるとパフォーマンスが向上するという結果が棚から牡丹餅的に発見された。

ホーソン効果 – Google検索

観察者効果とも言うし、プラシーボ効果だって似たようなものだ。
観察者効果という言葉からは、量子力学やシューレディンガーの猫といったキーワードにもつながっていく。

観察者効果 – Google検索

量子力学 – Google検索

シュレディンガー – Google検索

私自身にも当てはまる現象ではあるのだが、逆に天邪鬼な性格が出てしまうかもしれない。

人間は、他人に評価されないと生きていけない。
「感謝されようと思ってやってるんじゃない」
「有名になりたくてこの仕事を選んだわけではない」
そうしたセリフは美しく思えることもあるし空虚に聞こえることもある。

2012-06-06 09:00

(関連エントリ)

他人のためにカウンセリングをしない | deathhacks

他人を助けたくて勉強したりカウンセリングしたりしているのではない | deathhacks

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人間のほうを研究しています

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最近また、自分の今後の身の振り方、行く末を考えている。
これまでも折に触れて繰り返して考えてはいる。
例えばそれがある程度明確な指針のようなものにまでできれば個人人生のミッションステートメントとも言える。

自分のミッションステートメントを考えてみた | deathhacks

ミッションステートメント、と言ってしまうと何かクレドや年間計画のように、行動や決心を縛る制約としての面が大きい気もしてくるので、もう少しゆるく、あらためて自分が何を好むのか、今何に興味があるのか、何をして何を考えているときが一番楽しくて興奮するのかを観察してみる。

今の興味対象は断然「人間」だ。
しかし、人間に興味がないとか言い出す人がいたらちょっとしたビョーキだろう。
また、人間観察と言えば、他人に趣味を聞かれて何か無難に回答しておいたみたいな印象も受ける。

「人間」をテーマにすると言っても、その切り口は様々だ。

人間を個体・個人として見ることもできるし、人間同士の繋がりを考えるとそれは社会というものを観察することになっていく。

人間のトラブルを身体的に捉えれば医学や・科学・化学などがものさし・ツールとして役に立つ。
心理やストレスという精神的な面を見ていけばカウンセリングやPTSDなどの括りになる。

人間としてのトータルな幸せとは何か、と考え詰めていけば快や不快を扱い、法律や政治・宗教などに向かってもいい。

会社や人事、災害、数学、うつ、楽しみ、心、争いなど、当然と言えば当然だが、この世に人間がその存在を認識したからには人間と無関係のものは結局あり得ない。

ということで、今の自分については焦点はまとまらないし、まとめなくても良いと思うのだが、人間やその「周辺」を、広く、ときに深く興味の赴くままに生活している。

2012-06-01 07:00

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カラオケによって業界のレベルが上がったことから

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以前に書いたエントリ(カウンセラーに向くのは新しいものを受け入れられる人 | deathhacks)の通り、プロのカウンセラーは停滞していてはいけない。
学び、トレーニングし続けなくてはいけない。

世の中や世界に普遍的なもの、要素は確かにあるが、それ以上に変化の量やそのスピード、表現形の多彩さは増えていっている。
人間の根本的な部分はなかなか変わらなくても社会はどんどん変わっていく。
メンタルヘルスやうつの知識は、そのレベルや正しさはともかくとして、一般的になってきている。

コミュニケーションのうまさだって、個々を見れば確実に上昇している。
生涯に出会う人間の数や種類は増えているし、言葉や文字を上手に使える程度も向上している。
もっとも、このことはコミュニケーション「レベル」の格差が広がっていることにも直結している。

つまり、メンタルヘルスの知識のような面でも、コミュニケーションの実践や知見の面でも、カウンセラーがプロフェッショナルを名乗ろうとするならば、素人一般人を上回らなくてはならず、それには自身も日々向上し変化していかなくてはいけないだろう。

テレビが普及し、何度かのお笑いブームが訪れ、素人の日常会話の中でも「ウケ」や「オチ」が求められる。
「ツッコミ」や「ボケ」という、元々は専門的な用語だったり、技術だったりしたものが一般化した。

カラオケが珍しいものでなくなったことにより、昔であったら、人前で大きな声で本気で一曲を歌い切るというような、一生かかっても出会わないかもしれなかったような経験がしやすくなった。
それにより、才能が埋もれる確率が少なくなり、芸能としてのプロに向かう分母が飛躍的に増えたことで業界全体の質も高まってきたのではないか。

まったく違う業界、分野のようであるが、社会の変化とプロフェッショナルのあり方に関しての考え方は通じるところがある。

2012-05-10 07:00

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個人の問題や病気でなく、社会の問題・病気

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AD/HD(注意欠陥/多動性障害)や発達障害、学習障害や識字障害など、こうした状態が存在するということ自体があまり知られていなかったものが注目されている。

ただし、これらは従来のイメージの「病気」「疾患」とはまた違ったものだろう。
これらは個人の病気というよりは、社会に深く関係した現象であり、問題だと思うからだ。

こうした問題を抱えた本人が苦しいとか、困っているとか、「治る」か否かというのとは別に、その所属するコミュニティがどう考え判断し行動や方針を決めるかが一つの焦点になる。

「問題」を抱えた人らを社会やコミュニティがうまく受け入れ生活していくことができれば、実は問題の一部が解決してしまったり、問題としての次元がガラッと変わってしまう可能性がある。

文字がまだ存在していなかったり、発達も普及もしていない世界や時代であれば、現代の先進国ほどには識字や学習の問題は大きくなかったはずだ。
そもそもその問題に気付かれることなく、かつ特に不具合や悲劇、不幸な出来事も起こらなかったかもしれない。

世の中、社会として、足並みを揃える必要がある部分は確かにあるが、すべてを同じ基準で考え、そこに個人個人を当てはめるというのは民主的でないし不幸な社会だと思う。
科学はどこからどのようにつながっているか複雑なものだから軽々しくは言えないが、例えば、ガリレオ・ガリレイが天動説をとなえたときに、他の大多数人が理解できなかったり、受け入れられなかったりすることに罪はない。

極端に言えば、昔であっても現代であっても、別に太陽が地球の周りを回っているのでなく、地球が太陽を回っているのだということを知らなくても生きていける。
「ガリレオ問題」は科学的にはある理論が検証・追試できなかった(されなかった)問題だが、社会的にはそれが迫害や名誉の毀損をもたらしたことがいけなかった点だ。

時計が発明されて初めて時刻や遅刻というものが生まれた。
測定の精度が上がったり、より厳密な物差し・尺度が作られれば、それに合わせて誤差が大きくなる(あるいは気付かれていなかったものに気づいてしまう)
物理法則や現象は不変であっても、社会や世の中、見る目や尺度が変化すれば、違うものが見えたり、同じ物事が違うものに見えてしまう。

観察者と対象、個人と社会の関係というものは常に相対的なものだ。
動物園のサル山を見物している時に、猿のほうが人間を興味深く観察して色々と考えているかもしれない。

2012-03-07 17:00

(関連検索リンク)

ad hd – Google 検索

(関連エントリ)

天才は正しさを証明しなくても良い | deathhacks

感情は原始的で、理性が上位にくるのか

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言動が感情にふりまわされるさまは「動物みたいだ」とか、最悪の場合「鬼畜である」というように評される。
このように考えられるのは次のような常識があるからではないか。

  • 人間は動物よりも高度に進化した上等・上位の種である
  • 原則として、理性や知能というものは、本能や感情よりも間違わず、これもまた優秀かつ上位の機能である

しかし、私の考察と想像では、感情が原始的なもので、理性や論理的思考が上級で、進化によってヒトに備わった資質というわけではない。
感情と理性は、はっきりと上下関係や支配あるいは主従関係にはない。
もしくはむしろ感情のほうが生き物としては非原始的な要素だと思う。

人間は複雑な概念や言語、時間や科学といったものを集団で発展させる過程で、それを単純にひとまとめにしたり、ある種の安全装置として感情を身につけた(または感情を持たない種は淘汰された)のだろう。

論理的に考えれば、個としての自分に直接に得にならない行動を継続して家族を養ったり社会に貢献したりすることはそれほど合理性がなかったりしないか。
不安や後悔という感情は時間というものを頭の中に生み出し、社会が動くのに不可欠の要素としなければ、実はこれほど強烈に人間の思考や行動に影響を与えることはなかったのではないか。

もちろんこれらにはそれぞれすべてにメリットとデメリット、または個人としては合理的ではなくても集団や社会としての利益が大きいもの、あるいはその逆があったりもする。

呼吸をしたり心臓を規則的に動かしたり睡眠と覚醒のサイクルを調整したり食物を摂(獲)らせたりするための本能は確かに生き物としてはより基本的な機能だろう。
つまり原始的ということだ。
一定以上に複雑なしくみを持つ生物はこれらの能力なしには生命を維持することが難しい。
その点ではヒトも動物などと同じように支配されていると言える。

しかし、現代の人間やその社会には愛情や功名心、羞恥心や物欲、不安や後悔、焦りといったそれらそのものが生きる上で本当に必要なのか不可欠なのかわからなかったり、どう考えても害悪にしかならないのではないかとう感情や思考がある。
その部分を理解するためには、感情が何であるか、なぜ感情があるか、動物には感情があるか、果たして人間は動物よりもはるかに優れた種なのかなどを考えてみると良いと思う。

2012-02-13 08:00

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時間はなぜ左から右に流れるのか? | deathhacks