酸欠か、脱水か、ハンガーノックか、わからない

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こないだトレーニングをしていて危うくイキかけた。
トレーナーに付いてもらいながら、厳し目のメニューで追い込んでいた時だった。

自分も、せっかく見てもらっているわけだったので結構やせ我慢して身体の異常に気づいてもストップしたり、トレーナーに伝えたりすることを怠った。
結果、少々の間、頭がボーッとして、身体もなんとなくしびれてダルくなり、横になって休まざるを得なくなってしまった。

意識はまあしっかりしていたし、どんどん悪化するとか、息苦しさが強まるというのでもなかったので、心配するということはなかったけれども、こういうのは嫌なものだ。
自分の限界を知るというのも嫌だ。
そんな状態は中学とか高校とか大学とか、クラブ活動でもほとんどなかったのじゃなかったか。

そして、その状態や原因は、はっきりしない。
自分が医者であっても、なかなか感覚的なものとして、判断するのは難しいと、今回あらためて思う。

おそらく状態・原因としては三択で。

  • 低酸素血症(酸素欠乏)
  • ごく軽度のショック(脱水、循環血漿量の減少による)
  • 低血糖(ハンガーノック)

ふりかえって考えると、食事はちゃんと摂っていたし、水分もまあ十分補給していたと思う。
するとまあ、単純に低酸素血症だったのだろう。

基本的にはスタティックな感じの体幹トレーニングだったので油断したが、途中途中に挟まれた有酸素運動がかなり激しかったかも、と。

反省するとともに、久しぶりに自分の身体を通して興味深い体験をした。
次回以降に同じような失敗や危険を防ぐツールとして血中酸素飽和度モニターを買ってみようかしらと思ったが、血圧計とかよりも価格として高めだからさすが購入には至っていない。
最近は、AEDとか、超音波エコー装置とか、個人でも欲しいと思えばかなりの本格的な医療機器や器具でも手に入れられそうだから物欲としては強まっているのだけれども。

2013-01-19 13:00

「うつの入り口」という小手先の物言い

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悩み相談や心理カウンセリングで、明らかにうつの症状が出ていると思っても、カウンセラーはそのまま「あなたはうつかもしれませんよ」とは言いにくいようだ。
これは、判断したことを伝える単なる「見立て」とも言うべきものが「診断」という、医師だけに許されているもの、最終決定のような重みを勝手に持ってしまうことを嫌ってのことだ。

確かに「うつである」あるいは「うつではない」という一つの判断がクライアントに伝わることによって、「うつ(病)ではないのにうつだと言われそれが次の行動に結びついた」または「うつ(病)であるのに『うつではないですよ』というカウンセラーの意見によって医療機関への受診や対応のタイミング・機会を損なった」ということがはっきりとあれば問題になりうる。
だから多くのカウンセリングでは、クライアントから「私はうつ(あるいは病気)なんでしょうか?」と訊かれてもはっきりと答えることがためらわれることが多い。

カウンセリングは、あえて医療と同じことを範囲を被ってわざわざやらなくても良いとうまく考え活動できるならば問題は起こらないだろう。
しかし、時には踏み込み気味に感じても、はっきりとした意見をクライアントに投げかけてあげたほうが良いサポートになることもあるし、何しろ話が早くなるというメリットがある。

小手先のテクニックのように思えるかもしれないが、「うーん。話を聞いていると、どうもあなたはうつの入り口にいるかもしれませんねー」というような物言いはどうだろうか。
「いやね。別にいまのあなたがうつ病だというのではないし、ここで話しているだけでは決まらないし分からないんですよ。
でも苦しいしピンチだというのは事実だし、このままの状態が長く続いたら本当にうつ病になっていくかもしれません」
と継いでいく。

これならば「診断」をしているというような誤解や不適切性は無くなると思うのだがどうだろうか。

2012-12-09 13:00

「困った」と「病気」の間で

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うつや認知症など、病気なのか正常(とは言え、やっかいで困った状態。あるいはピンチ)なのかは、目に見えないから難しい。
それらが急に、痛くなったとか、血が出たとかいうのでもないことも問題を難しくしている。
健康・健常と「困った」と病気は連続的に変化することが多いし、レベルの問題なのだ。

すると、日常では、「これは悩みレベルなのか、病気でお医者さんに行ったほうがいいのか?」とか「おかしいような気もするけれども年をとったらこれくらい普通かな……?」などという迷いが生じる。
迷いは、ある意味中途半端な状態だから、病気であるなどの確定がなされた状況よりも、気持ち的には苦しかったりもする。

皆が日常的にこうしたあいまいさやそれぞれの状況で打つべき手などを考えておくのもいいが、効率は良くない。
コンシェルジュ的に専門家や役割を持った人が民間あるいは公共に配置されていれば、それを必要な時に利用するということでいいだろう。
特に、日本やそのうちでも都会には人口が集まっているし、生産産業ではなくサービス産業として社会的にも有意義だ。

近くに詳しい人やメンタルヘルスなどの専門家のような人がいるならば相談してしまえばいい。
その場で問題が解決するようなことは少なくても、まず悩みの対処ができる。

最初に書いたように、気になっていることや対象がまず、「問題ない」「少しマズい」「ヤバい」「病気だ」などのレベル分けを判断するのが当事者にとって一番難しい。
レベル分けさえできてしまえば、対処方法はだいたい決まってしまうものだ。

逆にここで誤ってしまうと「病院に行って診てもらったけれども大丈夫と言われた。また調子が悪くなったら来てくださいと言われた」というように判断の難しさを知らされて、不安がかえって高まるということが起こる。
また、「それくらいなら全然大丈夫じゃない?」と言われたとか、思い込んでいたとかで、時間を使ってしまい、もっと早くに病院や専門家に当たった方が良かったのに、という事態もありうる。

こうしたことへの対策として、気軽に近場で相談できる手段や資源を普段から用意しておいたり、もしもそういう時にはどうするのだというようなシミュレーションをしておくのが良い。

2012-10-31 07:00

フランクにしてはいけないときもある

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クライアントと接するときに、いつでもどんな場合でも、親しく、というか馴れ馴れしくすればいいというものでもない。

そのクライアントからみて、関係がある程度長く続く可能性を感じられなければ、別に親しくなる必要はないし、親しく話しかけられるメリットもない。
かえって、クライアント自身の個人情報やら、内心やらを、カウンセラーや医者とはいえ、赤の他人に把握されることには、現代ではかなり抵抗が大きい。

TPO、タイム・プレイス・オケイジョンに合わせて、適切な対応というものは違ってくる。
サービス側としては、適切なレベル以上に突っ込んでいく必要はないし、そうすることは無用なデメリットやトラブルの種になる。

健康診断なんかでざっくりと、不定愁訴のようなものまで含めてクライアントの不安情報や問題を可能な限り拾おうとする時には、意図的にフランクに振る舞い、瑣末的なことでも言ってみようかという気になるように演出しなくてはいけない。
1回切りのものでなく、慢性疾患のものや、術後経過観察の外来診療などでも、十分に気の置けない関係づくりをするほうがメリットは多くなる。

2012-10-08 08:00

医療機関で働いていない医師が診断書を書くことは可能か

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思考検証中のことを一つ。

産業医になったからというだけではないが、どうもまた、医師臨床に近い話をしたり調べたりしなくてはいけない機会が少なくない。
質問もされる。
答えるためには調べなくてはいけない。

今調べていることは、診断書に関してのこと。

勤務しているときには意識しないで診断書は作成しているものだ。

今現在の自分のように医療機関、組織に属していない状態で診断を書くというシチュエイションはありうるだろうか。
そして、その作成に問題や注意点はないのだろうか。

医師法を見ても「医師は求めがあった場合には診断書を作成しなくてはならない」としか定められていないようだ。

医師法 (第19条)

だが逆に、診断書を書いてはいけない状況というものが簡単には思い浮かばない。

考えている流れとしては、

診断書を書くためには「診断」をしなくてはならない
→ 診断をするためには「診察」しなくてはならない(無診療診断の禁止、医師法第20条)
→ 診察をして医療報酬を得るためには保険医療機関に勤務、もしくは開業して申請し、「保険医療」を行わなくてはいけない
→ 保険外医療というものもあるしまったく違法ではないがそれを診断および診断書を求める患者が了解するかという問題がある

ということで、診断書を書くことに明らかな問題は考えつかない。

また、別の点として、

医師は診療をしたならば診療録に記録をしなくてはならない(医師法、第24条)
→ 診療録は5年間保存しなくてはならない(同法同条2)
→ もしも医療機関に勤めていない医師が個人で診療録を書いた場合にそれを5年間保存するためにはコストがかかるしリスクもある
→ 診療録には個人情報も含まれるから取り扱いに手間がかかるな

と、考えながら調べているとどうも「5年間保存」というのは「病院または診療所に勤務する医師のした診療について」のみというような記載があった。(同じく同法同条2)
これならば、診療録の保存に関しては考慮しなくて良くなりそうだ。

そもそも「診断書」と言うもの自体も、法律上特に決まった書式というものはない。
どんな紙に書いても診断書としては成立するし、保険会社などが診査のために記載を求める書類も診断書と呼ばれる。

また、診断書を作成することは保険診療上の報酬に入らない。
言い値で発行することが可能だ。
一般には各医療機関などが常識的な値段設定をしていることがほとんどだろうが。

こうして、もしかしたら、フリーの医師が、必要だと言う患者に対して診断書を発行するということはあまり聞かないが、調べた限りでは明らかに制限する法や理由は見当たらない。
世の中には、診断書だけを書く(もちろん診療・診察がその前提にあるが)サービスというものは既に存在していたりするのだろうか。
診断書の信頼性という面では担保することが難しそうだし、気づいていない問題がありそうという印象だけど。

ここまで考えたし、Webで調べたりということまではしたので、あと次は経験豊富なドクターに聞いてみるか、厚生労働省に直接尋ねてみるかを検討。

2012-09-29 09:00

人間の眼の機能について私はまだ何も知らない

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今回は珍しく人間の生物的な機能としての「眼」の性質についてメモ的エントリを。

私は医者だから、ひと通り、医学的な、学問としての人体やその関連については当然学習している。
かっちりと基礎から勉強したのはもう15年以上も前になる。

しかし、今ごろ、最近になってからも、あらためて人間について「知る」機会は多い。
もちろん現在指向しているような心理や社会学上の人間というものについては発見ばかりだ。
それだけでなく physical なことについても、昔はなんとなくわかったような気になっていたが、実際の日常や自身の体験としてあらためて再発見することがよくある。

その流れで、「眼」や「視力」というものについて。

  • 知り合いにも、色々なタイミングで出産や乳児・幼児を子育て中ということが増えた。新生児から乳児くらいまでの間に、視力は成長する。人間の眼は生まれながらに「1.5」とか「2.0」というような能力を持っていない。赤ちゃんはたいてい目の前近くにいる両親をボヤーッと見ているだけだ。後は光の明暗を感じているくらい
  • 眼には中心視力というものがある。簡単に言えば、視野に入ったものすべてにピッタリと焦点が合って、はっきり見えているというわけではないということ。意識して視線を定めたごく狭い範囲でしか文字を読んだりすることはできない。これが腑に落ちた体験は、自分で撮った写真を後から眺めていて、なんで撮っている時にはこのディテールに気付かなかったのだろうと思えることが何度もあったため。静止画として固定した写真ではじっくりといろいろな箇所に視点を向けられるから、当然撮影時には認識できなかったような細部まで観察することができる
  • 中心視野に関係してもう一つ。街を歩いて、知り合いに偶然あったりするような時に、ごく近く、ほんの1m前や横に相手が来るまでまったく気が付かないということはよくないだろうか。これは単に意識をしていないとか、気を抜いていたからというだけが理由ではない。人間の眼はしっかりとその方向に視線を向けなくては物の形や人の顔などを判別することができないのだ。かえって遠くからまんべんなく人の雑踏を眺めていたりすると(確率的な問題はもちろんあるが)知人を見つけてしまったりする

このように、専門的であってもそうでないにしても、「知っている」ということには単なる「知識」というレベルだけでなく、「体験としてしっている」「適切な事例を挙げられる」などの段階がある。

ただ好奇心を満たすという望みだけであれば別だが、世の中すべての事柄について「体験」や「事例」のレベルまで詳しく知ることは不可能だ。
そのことを知った上で、専門家としての領分では自分の知識や技術が果たしてどのレベルであるのかを、吟味して自分自身に突き詰めることを繰り返さなくてはいけない。

2012-08-07 15:00

産業医学の未来予想

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産業医学は、予防・予測としての面が大きい。

一次予防が強調される。

医者一般が考える臨床医学のイメージはまだまだ、「何か病気が(既に)あるのじゃないか」「病気やケガを(起きてしまった後から)治療する」という方に傾いているのではないか。

一般人や行政が考える医療、そしてそこへのニーズが健康ブームだったり、医療費削減の方向に向いているのは明らかだから、それに合わせるのは決して間違っていない。

2012-08-01 06:00

医者と写真と心理カウンセラーと精神分析

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お医者さんが皆すべからく写真撮影の原理・知識を持っていると言ったら、意外に思うだろうか。

医療上の画像診断方法として、ゆるぎなく最もポピュラーなレントゲン検査を知らない人は少ないだろう。
あの検査をしっかりと活用するためには、写真というものの性質の基本的なことを知っている必要がある。

被写体(レントゲンでは人体および各臓器)の大きさや形だけでなく、X線透過性の違い、露出補正、臓器同士の前後関係、投射光と臓器の角度や位置そして感光体との遠近など。
およそ写真という技術について知っている必要があること、知っていると良いことに原則として違いはない。

蛇足として付け加えれば、現代医学では超音波エコー検査や、X線CT、MRI、放射性アイソトープ検査、SPECT、PETなど、新たな検査技術がどんどん増えているが、これらを正しく効果的に診断や治療に役立てるためにはどうしてもその科学的技術の理解が必要になってくる。
こうなってくると、医者は人体について知っているというのは、単なる前提条件にすぎない、というくらいの話になってくる。
最先端の現場で重要なのはそれにプラスして、適切な基本技術の深い理解が要求される。

翻って、心理だ。

メッセージコントロールや常識的なファーストエイドで、多くのカウンセリング場面で適切に対応ができるとは思う。
これだけでも大きな失敗はしにくいというのは大事なことだ。

しかし、より本当に心理を理解し、対応をしていくには、基礎や人間の深層部分を知っておく必要がありそうだ。
それが、精神分析なのか成長発達理論なのかはわからないけども。

(NOTE76,2011-05-12,THUより)

2012-06-22 08:00

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労働者が睡眠と食事を削ることの意味

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労働者について産業医学的な見地からは、1日の睡眠時間がおよそ5時間を切る辺りから、脳血管障害や心疾患が発生する可能性が明らかに高まるそうだ。
実際に健康障害が発生して、睡眠時間への影響やストレスなどと職場環境や労務管理の因果関係が認められれば、労働災害ということになる。

もちろん睡眠障害や睡眠時間の短縮には様々な背景が考えられる。
仕事との関連だけでなくプライベートのトラブルもありうる。

睡眠(や食事)の状況がなぜ労働災害や過労死と密接に関連するのか。
イメージとしてわかりにくいことはないけれども少し説明をしてみる。

人間にはいわゆる三大欲求というものがある。
食欲、睡眠欲、性欲の三つだ。

性欲は置いておいたとしても、食欲、特には睡眠欲を抑え込むということは、生き物にとって究極のピンチであり、ぎりぎりの状況だ。
普通そこまでになる前に、別の部分でなんとかつじつまを合わせようとするだろう。

サラリーマンであれば、趣味の時間を削る、通勤時間を確保するために会社に泊まり込む、家族サービスを諦める、などだ。
実際のところ、仕事が忙しくて目が回るような状態で、睡眠時間を先に削って、家族サービスを最後までキープするという人は極々まれにしかいないだろう。

食事についてもだいたい同じようなことが言える。

つまり、食事や睡眠の質と時間を犠牲にしているという状況は、もう余程追い込まれていて、それ以上頑張るとか工夫の余地が少なくなっていると客観的に言って良い。
そして、疲労や総合的なストレスなどの影響と蓄積から、労働災害や過労死が起こるリスクを考え、そこには重大な労務管理責任や安全配慮義務があるというふうに、現在の産業医療では解釈している。

2012-05-05 07:00

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うつに対して「治るよ」と反射的に言うための準備と訓練と覚悟と

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うつが治るということについては、何回かエントリを上げてきた。

うつは治ると言う | deathhacks

カウンセラーは「診断」してもいい、「うつが治る」と言っていい | deathhacks

うつは治るが治せない | deathhacks

「うつは疲労である」と言うことの意味 | deathhacks

「うつは疲労である」と言うことの意味〜翔〜 | deathhacks

カウンセリングやサポート、ケアなどで「うつが治る」と言おうと決めたならば、あとはそれを反射的に実行するための準備と訓練が必要だ。
これは「あらかじめ覚悟をしておく」と言い換えてもいい。

普通「覚悟をする」と聞くと、ある瞬間から精神的なものがガラッと変わり、啓示のようなものが降りてくるようなイメージがあるかもしれない。
しかし私は、覚悟というものには一定の期間の準備が必要で、ジワジワと整うものだと考えている。

例えば、先日私は、小走りしていた人が路上で派手に転んで顔面をしたたかに打ち付けてしまい、流血までするような場面を正に目の前にしたことがあった。
自分は特に意識せず、すぐ駆け寄ってそばにしゃがみ、「大丈夫ですか?」と声をかけ、ティッシュペーパーを差し出し、適切に様子見と手当てをした。
私と同行していた人に後から聞くと、「ずいぶんスムーズに行動していたねー」という印象だったようだ。

ここで言いたいのは、別に私がすごいとか優しいとかえらいとか道徳心がどうとかいうことではない。
実は私が、ためらわず、サッと動いて、倒れた人をケアしようとできたのには、正に準備をずっとし続けてきたからなのだ。

過去に数回、似たように怪我や病気などで具合が悪い人にたまたま出くわすことがあり、その度に「次はこうしよう」とか「もしこんな状況が起きたらどうすればいいかな」ということを考え続けてきた結果が、今の私の準備であり、今回やったこと、そして次回にできることにつながっているのだ。

そう考えると、覚悟や実際の行動は単にごく一部分、あるいは結果でしかない。
時間や労力のかかった大部分は日常の中の準備や備えだったとわかる。

同じようなことは、禁煙とかアルコールを減らすとかいうことにも通じる。
もちろん、タバコを止めた瞬間、飲酒量をどういう風に減らせていったかを、ある時点で測定したり確認したりすることはできる。
しかし、そのための準備、行動が変わる(変容する)までの内面的、精神的な変遷にも注目するべきだというのが、近年の医療や心理学上の常識だ。

「うつが治る」と言うか、言えるか、ということについても同様だ。
半分は意識上の理解や知識そして納得であるけれども、残り半分は現場を意識した反射や習慣のようなものであって運動やスポーツと同じく訓練の繰り返しが必要になる。

2012-04-26 08:00

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