「うつの入り口」という小手先の物言い

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悩み相談や心理カウンセリングで、明らかにうつの症状が出ていると思っても、カウンセラーはそのまま「あなたはうつかもしれませんよ」とは言いにくいようだ。
これは、判断したことを伝える単なる「見立て」とも言うべきものが「診断」という、医師だけに許されているもの、最終決定のような重みを勝手に持ってしまうことを嫌ってのことだ。

確かに「うつである」あるいは「うつではない」という一つの判断がクライアントに伝わることによって、「うつ(病)ではないのにうつだと言われそれが次の行動に結びついた」または「うつ(病)であるのに『うつではないですよ』というカウンセラーの意見によって医療機関への受診や対応のタイミング・機会を損なった」ということがはっきりとあれば問題になりうる。
だから多くのカウンセリングでは、クライアントから「私はうつ(あるいは病気)なんでしょうか?」と訊かれてもはっきりと答えることがためらわれることが多い。

カウンセリングは、あえて医療と同じことを範囲を被ってわざわざやらなくても良いとうまく考え活動できるならば問題は起こらないだろう。
しかし、時には踏み込み気味に感じても、はっきりとした意見をクライアントに投げかけてあげたほうが良いサポートになることもあるし、何しろ話が早くなるというメリットがある。

小手先のテクニックのように思えるかもしれないが、「うーん。話を聞いていると、どうもあなたはうつの入り口にいるかもしれませんねー」というような物言いはどうだろうか。
「いやね。別にいまのあなたがうつ病だというのではないし、ここで話しているだけでは決まらないし分からないんですよ。
でも苦しいしピンチだというのは事実だし、このままの状態が長く続いたら本当にうつ病になっていくかもしれません」
と継いでいく。

これならば「診断」をしているというような誤解や不適切性は無くなると思うのだがどうだろうか。

2012-12-09 13:00

ゲートキーパーがうまく機能することを妨げる3つの壁

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うつや自殺の兆候教育というものは、ずいぶんとスタンダードになった。
政府行政も、メンタル不調者をなるべく早い段階で見い出し、医療や専門家につなげるためには、職場や学校、家庭などに「ゲートキーパー」を育成することをすすめている。

もちろんこうした地道ながらボトムアップ的に、一般や社会の知識を啓蒙していくことは短期的に成果は出にくいかもしれなくても、結局は最短距離であり、もっとも効果的な方策の一つだろう。

しかし現実として、ゲートキーパーとしての役割がうまく機能しなかったり、当事者が困難を強く感じていたりする。
自殺した人の兆候を事前にまったく感じずショックを受けたり、死にたいくらいの苦しさを持って休養していた人が身近に戻ってきた後に日常的にどう接していけばいいのか不安に感じたりするケースは少なくない。

私としては、うつや希死念慮のサインを一般の多くの人に教育することには、ある程度以上のメリットはないと思うし、相当に注意が必要だと思っている。

自殺に事前のサインはない | deathhacks

それでは、なぜゲートキーパーがうまく機能しないのか。
そこに3つの壁があるからだ。

1 気付けない

いくら知識を身に付けたとしても、日常の生活や仕事のかたわらで、どれだけ関心があるにしても、家族や同僚の内面の変化や苦しさに的確に気づくことはやはり難しいと言わざるを得ない。
日常的に一緒に過ごしているからこそ、少しずつの変化には慣れてしまい、合算としてはおかしな事象でも「フツー」見えてしまうことも多いだろう。
正常性バイアスもかかる。

メンタル不調の表現は、個々によってかなり違う部分もあるから、専門家の研究教育でない、一般層への啓蒙では必ず「気付けないこともある」という免責的な視点を提供するべきだろう。

2 気づいても声がかけられない

仲間に何か異変を感じたとしても、即座に声をかけられるかどうか。
気のせいではないか、相手が迷惑に感じるのではないか、今は気持ちが落ちていても彼/彼女なら必ず元気に復活してくるはずだから見守るだけにしよう、以前にも同じようなことはあったから大丈夫だ、自分の方が大変だし、考え違いであったら恥ずかしい、などなど様々な心理的ブレーキがかかる。

一部には、無邪気なキャラクターで心配やコミュニケーションを取ってサポートできる人もいるだろうが、それはレアな存在とみるべきだ。
一般すべてにそれは要求できない。

3 声をかけても本人は否定し、止まらない

声をかけて、異常な状態を本人が認め、なんらかの具体的な支援を頼まれるとか、医療あるいは専門家などにつながるなどハッピーな展開となれば、こんなに喜ばしいことはない。
メンタル不調者が出ると、さも皆や管理者の失敗であるかのように思い込まれることが多いが、世の中に自殺やうつは常にあった。
数の大小やその社会的影響に上下はあっても、これからも事故や病気と一緒で完全になくなることはないだろう。

その前提で言えば、不調や不具合が見つかって、休養するパターンに持ち込めることは大成功なのだ。
病気休暇や休職に「成功」などという言葉を使うと、当事者や人事担当者からはお叱りを受けるかもしれないが。

話はそれたが、多くの場合、一度や二度、声かけをしても心配された本人は仕事や動きを簡単に止めたりはしない。
他人からの指摘で客観的に自分を見つめなおして、冷静に調整をできるようならば、元々自分でコントロールできているだろう。

そして一部のコントロールを残念ながらできなかった者が、日常を一時的に続けられない状態にまで陥っていく。
すべての者ではないことにも注意。

こうした現場でゲートキーパーに役割としての満足や自信が維持できるかは難しいように思う。

まとめ

メンタルヘルスに関連した、ゲートキーパー教育や知識啓蒙の全部にダメだしをするというのではないが、現場で役割を持った者の様々な困難やリスクと不安にも配慮しなくてはいけない。
また、ごく短期的な成果を求めすぎてもいけない。

原始時代に「うつ」はなかった

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原始時代にうつはなかった。
心身ともに疲れきった状態での行動に、感情面からブレーキをかけるうつ的なものが長期間存在できなかったからである。
疲労困憊したら自然環境に負けたり獣に襲われたりして即座に命を落としていたから。

痛みや疲れというものは人にとって原則、嫌なもの、ないほうがいいもの、忌み嫌われる感覚だろう。
自分自身がそれで苦しんでいるときには「いったい何処のどいつが、なんだってこんな嫌なものを作りやがったんだ!」とでも言いたくなる。

しかし、こういった「ブレーキ」がないと、生き物は際限なくエネルギーを使ってしまったり、危険を適切に認識して避けたり、対策をしようとしたりはしなくなってしまう。
それでは、個としても集団としても不利になってしまう。
まあ、ここでは人間という種が、必要に応じてその性質を手に入れたのか、それとも元々そうした特徴を持ったグループが残って繁栄したのかとかいう進化論的な話はとりあつかわない。

疲労しきってしまったときに、動かない(動きたくなくなる)とか、動けなくなる、休む、などというのはハイリスク、ハイリターンであり、状況によっては究極の選択と集中だろう。
繰り返しになるが、人間が個としても集団としても、周りから比べれば相対的に弱小である場合には、ちょっと怪我をしたり、疲労したりしただけでも、生存を脅かす危険度は一気に上がり、閾値を越える可能性が高い。
こうした場合に有効な戦略は、慎重な行動などに向かうものではなく、メリハリの効いた、一か八か、一発逆転のものだ。

しかしながら、現代社会では、そこまで極端に変容したり、過剰に防御的になることはかえってマイナスが大きくなる。
これを、ブレーキなどの「誤作動」だと表現することもある。

長命になることによって「がん」という病気の危険や重大さがぐんぐんと上昇していることや、飢えに対抗するためにエネルギーを蓄える能力に秀でていたことが肥満や糖尿病をもたらしていることも基本的には同じ考え方でせつめいできる。

こういった考え方は即、科学的に正しいとか、論理的だとかいうものではないが、基礎的な研究や事実をつないで物事を本当に理解するための物語として重要だ。

2012-05-08 08:00

(関連エントリ)

長生きするようになって日本で癌死が増えた話から考えたこと | deathhacks

(関連書籍)

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うつに対して「治るよ」と反射的に言うための準備と訓練と覚悟と

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うつが治るということについては、何回かエントリを上げてきた。

うつは治ると言う | deathhacks

カウンセラーは「診断」してもいい、「うつが治る」と言っていい | deathhacks

うつは治るが治せない | deathhacks

「うつは疲労である」と言うことの意味 | deathhacks

「うつは疲労である」と言うことの意味〜翔〜 | deathhacks

カウンセリングやサポート、ケアなどで「うつが治る」と言おうと決めたならば、あとはそれを反射的に実行するための準備と訓練が必要だ。
これは「あらかじめ覚悟をしておく」と言い換えてもいい。

普通「覚悟をする」と聞くと、ある瞬間から精神的なものがガラッと変わり、啓示のようなものが降りてくるようなイメージがあるかもしれない。
しかし私は、覚悟というものには一定の期間の準備が必要で、ジワジワと整うものだと考えている。

例えば、先日私は、小走りしていた人が路上で派手に転んで顔面をしたたかに打ち付けてしまい、流血までするような場面を正に目の前にしたことがあった。
自分は特に意識せず、すぐ駆け寄ってそばにしゃがみ、「大丈夫ですか?」と声をかけ、ティッシュペーパーを差し出し、適切に様子見と手当てをした。
私と同行していた人に後から聞くと、「ずいぶんスムーズに行動していたねー」という印象だったようだ。

ここで言いたいのは、別に私がすごいとか優しいとかえらいとか道徳心がどうとかいうことではない。
実は私が、ためらわず、サッと動いて、倒れた人をケアしようとできたのには、正に準備をずっとし続けてきたからなのだ。

過去に数回、似たように怪我や病気などで具合が悪い人にたまたま出くわすことがあり、その度に「次はこうしよう」とか「もしこんな状況が起きたらどうすればいいかな」ということを考え続けてきた結果が、今の私の準備であり、今回やったこと、そして次回にできることにつながっているのだ。

そう考えると、覚悟や実際の行動は単にごく一部分、あるいは結果でしかない。
時間や労力のかかった大部分は日常の中の準備や備えだったとわかる。

同じようなことは、禁煙とかアルコールを減らすとかいうことにも通じる。
もちろん、タバコを止めた瞬間、飲酒量をどういう風に減らせていったかを、ある時点で測定したり確認したりすることはできる。
しかし、そのための準備、行動が変わる(変容する)までの内面的、精神的な変遷にも注目するべきだというのが、近年の医療や心理学上の常識だ。

「うつが治る」と言うか、言えるか、ということについても同様だ。
半分は意識上の理解や知識そして納得であるけれども、残り半分は現場を意識した反射や習慣のようなものであって運動やスポーツと同じく訓練の繰り返しが必要になる。

2012-04-26 08:00

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「うつは疲労である」と言うことの意味〜翔〜

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一昨日4/13に《「うつは疲労である」と言うことの意味 | deathhacks》というエントリを書いたが補足しておく。

「うつは疲労である」という説明は、クライアントであっても、学んだりそれを用いるカウンセラーにとっても、多くの場合にしっくりと腑に落ちる。
しかしそれは「必ずいつも、誰にでも」というわけではない。

学んで、感動し、目からウロコが落ちた成功体験がカウンセラーにあると、現場で思考停止してしまい、深い考えもないで、どんなクライアントにでも「あなたのうつは疲れによるものですよ」と言ってしまいがちだ。
ここには落とし穴がある。

「うつやその症状、トラブルが疲労によるものだ」という言い方は、時としてそれを聞いたクライアントに「私の苦しさはたかが疲労なのか…」「こんなに困っているのにカウンセラーさんはたいしたことないと思っているのだ」という裏メッセージを与えることになる。

現場ではクライアントや時期と場面に合わせて、
「疲労だから休めば良くなる」
「誰でも疲労はするものなのだからあなたは絶望しなくてもいいのだ」
「疲労と言ってもヘトヘトという感じ」
「疲労というよりは疲弊かなぁ…」
「疲労困憊している感覚ではないですか」
「ただの疲労ではないからここは注意して協力しながら乗り切ろう!」
などのように細かに丁寧にメッセージを調節しなくてはいけない。

先のエントリに書いたように、うつの原因は完全に解明されてはいないし、相当先まではっきりはしないだろう。
「うつは疲労」という説明も、永遠に、高い確率でクライアントをうまく支援できる説明の一つであるかはわからない。

すべてのことについて、なぜ「そう」説明するのかを深く考え続けなくてはいけない。

2012-04-15 08:00

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「うつは疲労である」と言うことの意味

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物事にはすべてに意味や目的がある。
メッセージが込められる。

うつは一般に確かに病気と扱われることが多い。
しかし、我々は100%うつが病気だとは思っていない。
クライアントにも、あなたは病気だと言うことはほとんどない。
その必要もメリットもないことがほとんどだからだ。

我々は、うつを疲労の表現形の一つだというくらいに考えている。
「あなたは疲れきってしまっていて、身体が不調になっていたり、世の中や他人の見え方が以前とはガラッと変わってしまっているのだと思うよ」と。
こう捉え、説明することの意味や意義は何だろうか。

人間誰でも、運動したり、勉強したり、仕事をしたりすれば疲労する。
疲労したことがないという人も、そういった状態を想像もできないという人はまずいないだろう。
また、疲れた時には、気分転換やおいしいものを食べるなどによって回復することも実感として知っているだろうが、結局は休まないと状態は良くならない、戻らないということも納得できるだろう。
うつを「病気」ではなく「疲労」だと言うことに込められるメッセージは「あなたは壊れてダメになってしまったのではなく、疲れてしまっただけだ(その可能性が高い)から、休めば回復できるよ」というものだ。

「あなたは病気だ」と言って、どうしたら、どのくらいの時間をかければ、元の状態に戻れるのか、今の苦しさが和らぐのかという不安をいたずらにクライアントに負担させることに果たしてメリットはどれくらいあるだろうか。

実のところ、医学的にもうつの原因はわかっていないわけで。
セロトニンがどうとか、アドレナリンがどうとか、遺伝子が関係している、電気や磁気を使って症状が改善したとか、そういった研究を否定はしないが、相当部分が解明されたということではまったくない。
結局、クライアント本人の主観的症状を中心にして、1週間だ2週間だ、それが続いていれば「とりあえず」うつという診断をつけましょう、治療をしてみましょうというくらいのユルさだと私は感じている。

繰り返すが、物事にはすべてに意味や意義、目的がある。
ある、というかあるべきだ。
お茶の作法や起居振る舞いのひとつ一つに意味や目的があるように。

カウンセリングでも教育でもお茶でも、クライアントや相手にどんなメッセージが伝わるかということを常に考えるべきだろう。

2012-04-13 08:00

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ライフイベントや惨事が一段落した瞬間が一番疲労している

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結婚や引越し、昇任や異動、転職などのライフイベントは、それに対する感情や受け止め方が、良いものであれ、悪いものであれ、ストレスや疲労の原因になる。
もちろん適度な刺激やストレスは必要だし、そもそも生きて生活していくこと自体がストレスなのだ。
しかし、その程度がとても大きかったり、いくつかのイベント、公私のイベントなどが一時期に集中すると、体調や精神面に不調をきたす確率が高くなる。

疲労が蓄積したことがうつの原因になる場合、この原因と結果の関係が時間上数ヶ月単位でずれることには注意しなくてはいけない。
イベントなどによる疲労はそれが終わった瞬間がピークである。
もしもその疲労レベルが数日や数週間の休息によって回復するくらいのものでなかった場合、その状態から元の日常生活を再開することになる。
そして、その日常生活ですら疲労の合計をさらに増やしていく場合がある。

周りの人から見て、「ああ、なんとか落ち着いて良かったですね」「肩の荷が下りたようだから、ここから本格的に活動して欲しいな」「一番大変な時期は乗り越えた」と思える。
本人もそう思っている。
しかし、そこから何かしらの変調が起き始めても、時期が1ヶ月や2ヶ月ずれてしまうと、多くの人間にはその因果関係が見えにくく、理解しづらくなってしまうのだ。

これは惨事についてもそうだ。
震災のような極大な出来事であれば、回復にまで時間がかかることも腑に落ちるかもしれない。
だが、人の死や失敗、失恋など、様々なレベルの惨事とそれに対する人それぞれの価値観というものがある。
その感覚のずれはしばしば、誤解や非難につながる。

このように、うつや惨事における心理や反応、遠目近目両方の見方や視野を得るには専門家の支援があると良い。

2012-03-06 08:00

失恋の立ち直り方からうつ休養を考えた

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うつの人が休養するのに一番やってほしい、ベストの方法は「ただ寝ているだけ」というものだ。
ところがこれが難しい。
うつの人には無力感や自責の念があることが多く、身体を休めているつもりでも頭の中で思考が回り続き、神経が休まらないからだ。
また、焦りや不安があるときに、いくらそれが一番良いのだと人から言われ、自分でもなんとなくわかってはいても、何もせずに休むことは逆に最も苦しい行動なのだ。

だから、うつの休養をサポートするときには、何か別のことに気をとらせたり、集中させたりして、トータルとして疲労や思考の苦しみが少なくなり、エネルギーの回復量が多くなるようにバランスをとることが大切だ。
その「別の何か」は決まったものはなく、その人に合わせて選んだり、カスタマイズするしかない。身体や性格、人生に個性があるように、何がその人にとって一番の癒し(結果としてだが)になるかは簡単には分からないこともある。

散歩がいいかもしれないし、日記やメモを書くのがいいかもしれない。
音楽を聞くとか、本を読むのがいいのかもしれない。
人それぞれだ。

何かに悩み、ある思いが頭から離れないで苦しいときに、「そんな悩み忘れてしまいなさい」「考えてもしょうがないことじゃない」とアドバイスして効果がどれほどあるだろうか。
それよりも、別のことや考えに注目させる、集中せざるを得ないような状態や状況をうまくつくりだすといいだろう。

トータルのエネルギー収支がマイナスになっていないかどうかには注意。
そもそもの目的は極論すれば「時間つぶし」「暇つぶし」だ。
その間に自身の回復力を味方につけ、危機を脱していく。

これは恋愛やなにやと同じことだ。
失恋から立ち直るのには、好きだった相手を無理に忘れようとするのではなく、新しい恋をするのが一番の早道だ。
同じ人間の気持ちやこころの話なのだから、同じようなことはうつにだってちゃんと当てはまる。

2012-03-02 08:00

うつと惨事は切り離して考えられない

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うつと惨事に対する反応(いわゆるASD、PTSDなど)はどちらも心理臨床や精神科医療が扱うものだが、その相互関連はあまり認識されておらずまったく別のものととらえられている。
しかし私はうつと惨事というこの2つは結局は別々に理解したり、研究したりするのが不可能なくらい、密接に関係していて、まだらに混じり合っているものだと考えている。

例えば、知り合いの死や自殺、災害や事故などを体験した後には惨事に対する反応が現れる場合がある。
出来事が起きてから早い時期には、それら反応についての情報提供や回復の見通しを予測してあげたりストレスを緩めるためのツールを伝えたりすることが有効だ。
しかし、ショックを受けた人のうち、惨事の強度に応じた確率で反応が長引いたり、追加の出来事や環境の不具合などから、以前の状態への回復がうまくいかず、うつに移行したり被ってくるケースがある。
こうしたときには、元々の原因の大きな一つである惨事やその反応にあまりにずっと注目していてはケアや情報提供の焦点がずれることになる。

また、逆に疲労が蓄積するかたちでうつになっている人の理解やケアの一部にも、惨事やそれに対する反応を理解していていないと本質を見逃してしまう。
それはうつの人が一度悪循環が始まってしまうレベルまで疲労し落ち込んでしまうと、なぜなかなか回復のきっかけがなくなってしまうのかや、なぜ変化が感じられないほど少しずつしか調子が戻らないかの説明に関係するからだ。
これは「うつの人にとっては日常が惨事」になってしまう場合があるため、健康で元気な人の常識ではその怖さや自責といった気持ちがうまく分からないのだ。

さらには、いわゆる新型うつやディスチミア型、若者型といわれる種類のうつを説明するのにも惨事反応を組み合わせればしっくりくる。
なぜ自罰的でなく他罰的な言動が見られるかといえば、そこには惨事に対する反応である過覚醒が表れているからだ。
考えてみれば、うつの人でもイライラをつのらせて家庭や職場の人間関係でトラブルになることはよく聞く(その後に後悔や疲労につながり、より落ち込む要因になってしまうのだが)
自殺などは自分への攻撃の究極のものだが、一線を越えるには疲労や絶望といった感覚・感情だけではなく、同じように過覚醒や怒りのような高めの行動エネルギーが出るような状態が必要ではないか。

このように、うつと惨事は「両方を知っていたほうが良い」というレベルではなく、「両方を知らなくては良いケアやサポートはできない」というものであると考えられる。

2012-02-23 09:00

(関連エントリ)

うつの人の日常は惨事である | deathhacks