記憶は信用しない、記録だけを信頼する


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4年くらい前に、ふと、写真を趣味としようと思い、始めた。
それとはまた別に、だいぶ以前には、写真というものの意味をうまく理解していなかった。
その場にあるもの、目で見えているものを、フィルムやデジタルデータに記録するだけであれば、誰がやっても同じ結果が残るだろう、それならば何か味気ない、という誤った認識をしていた。

写真は確かに記録だ。
データだ。
それそのものに善悪や感情などは含まれていない。
でも、私たち人間は、それから「物語」を読み取ったり、作り出したりすることができる。

一方、人間は記憶や思い出を重視する生き物だ。
人類が、本質的に不完全ではあるものの、事象や知識を外部に記憶して(石や紙やビットに刻み付ける)、伝達や継承ができるようになったのはつい最近だ。
それまでは記憶の口伝しか存在しなかった。

記憶が常に誤りとは言えない。
むしろ、価値判断や感情が事実にプラスアルファした一塊をもらった方が、受け手として有利なこともある。
小説や映画などはそうだ。
事実だけで満足して楽しめるほど、人間の想像力や欲望の閾値は低くない。

記録にはやはり絶対的に強力な価値やパワーがある。
私が写真を撮っていると、周りからは趣味を楽しんでいる、遊びとしか見てもらえないことが多かった。
実際、私自身も別に報道記録やドキュメンタリーを作っている訳ではなく、楽しんでもやっていた。
しかし、後日それらの活動現場の話を再現しようとすると、人間の記憶の曖昧さや食い違いがいっぱいに出てきて、いくら議論しても埒があかないことがあった。
そんなとき、何気なく撮っていた一枚二枚の写真が解決することがある。

議事録や日記、日誌、報告書など、事実を客観的に、科学的に記録する手段はいくつもある。
それにプラスして、比較的近代に発明され、デジタル+ビットで新たに発展しつつある「写真」というテクノロジーは、時に信頼に足る力を示して、私たちの人生を助けてくれる。

2011-05-22 06:00

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