社会に属したくなかったら死ぬか出家するしかない

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自分の意志で生まれる生命はない

「誰が産んでくれって頼んだんだよ!」と文字にしてしまうと余計に一昔前のテレビドラマに出てくるセリフなってしまいますが、まあまず言いたいのはそういうことです。実際に口に出したり、耳で聞いたりすることはないかもしれませんが、人間が本当に弱ってしまうとこれに似た考えが生じることがよくあります。
「生きることの意味」探しと考えると実存的な悩みとも言えます。

どんな生命であっても、自分が最初に属する社会を自分では選べません。
人間ならば例えば、日本で生まれるか、アメリカで生まれるか、アフリカで生まれるか、イスラム圏で生まれるかは運、運命としか言いようがありません。人間として生まれるか、他のほ乳類として生まれるか、鳥として生まれるか、魚として生まれるか、さらには植物として生まれるということも可能性としてはあったかもしれません。
かと言って生まれて育ってから、自分の意志であらためて自分が所属する社会を吟味して選べるかと言うと、それにも限界があります。

「社会を選べない、もしくは選択肢に限界がある」ということはネガティブな要素しかない訳ではありません。
人間は他の生物種と比べると未成熟、未発達な「弱い」状態で生まれますから、生まれた瞬間から、生きるために「社会」による保護を必要とします。
保護を受けるためには何の契約も交換条件もないはずです。原則無償です。社会や社会に属する先輩たちは本能的に、当然のこととして赤子という新しい生命を保護し育てるのです。

人間は、冒頭の「誰にも産んでくれなどと頼んではいない」という疑問を持つことができるほどの意思や自我を持った時点では、すでに返却できないような分量の恩恵を社会から受けてしまっています。それを後から「頼んでいない」という理由は確かにあるのですが、返すことは難しいでしょう。

出家は社会から逃れることのできる一つの手段である

それでも、強制的に所属させられてしまった(と考えたとして)社会から逃れる方法はないのでしょうか。
その方法は2つあります。
「死を選ぶ」ことと「出家する」ことです。

死んでしまえば社会に属することで得られる、そして得てきた「利」はなくなると考えられますし、社会に属して生きることによる悩み・苦しみ・義務はなくなるでしょう。しかし、死は不可逆なものですし、本能的に強烈な恐怖を感じるものですから、社会からの離脱や悩み・苦しみから脱出する方法がそれしかないとしたらかなり酷な話です。

そこで「出家」というものが宗教にもよりますが用意されています。出家すれば、俗世間との関わりを少なくしたり、社会との接し方や接点を変えてしまったりすることができます。
そういった目的で出家することが正しいのかどうかとか、そういう理由で出家できるのかとか、そもそも出家の定義や資格のようなものが宗教・宗派によって決められているのではないかという点は考えてみなければいけません。

社会、死、そして宗教

「社会に属する」ことは、時によっては楽であり、時によっては苦しいものでしょう。
通常それは、意思や自我よりも前から存在しますし、それらを持った後にも選びなおすことは困難です。
(一見すると)社会(性)から逃れるために自ら死を選ぶ場合があることは知られています。
宗教や出家というものは個人と社会の間にありますし、生と死の間に存在するとも言えるでしょう。

2010-05-22 10a.m.

(追記 2012-06-25)
(関連URL)

404 Blog Not Found:貧乏な社会で子を産むな

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コメント

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