身近な人の自殺から「見捨てられ」を感じる

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肉親や愛する人が自殺すると、悲しいという気持ちだけでなく、自分が「見捨てられた」のだと感じることがある。
これは物理的に、あるいは現実として離れ離れになるということ以上に、自殺についてとても苦しい意味を持たせてしまう。

単に「離れる」「別れる」ということであれば、人は人生経験から慣れやいたし方の無さを学んでいるかもしれない。
しかし、死を用いた別れは「何もそこまでして離れようとしなくってもいいのに……」とまで考えさせてしまう。

こうした感情体験は、子供であったり、他にポジティブな体験や拠り所のない人ほど強烈な負荷となる。
自責を生むし、うつにもする。

だから、身近な人を自殺で亡くした場合のケアとしては、乏しい情報や記憶の中から「本当に『見捨てる』というようなメッセージは存在したのか」を当事者と一緒に確認する。
あくまで比較の上でだが、このケアに比べれば、元気づけも、忘れる対処も、薬の内服も、時間の経過もあまり有効ではないし、的を射ていない。

2013-01-16 09:00

死にたい気持ちの瞬間風速

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うつで死にたいという人の苦しさは周りから見ても理解できない。
それがそのままでは目に見えるものではない「内面」「気持ち」であるということもある。
それ以外に、その苦しさの強さが刻一刻と変化し続けているものだからだという理由もある。

死にたい気持ちは「瞬間風速」的なものだ。
死にたい気持ちは現世から当人を吹き飛ばしてしまいそうなものになるのだが、その強さは常に一定というわけではない。
普段はなんとか耐えられる強さであっても、ある時、予想もつかないような瞬間、場所、きっかけでその「風力」が最大限になる。

これが怖い。
度々それに耐えられても、周りや医者、カウンセラーに説明しようという時にはその風は吹いていない。
だがその瞬間風速は確かに人を死に至らしめるほどの力がある。
続く時間がたとえほんの短い間であってもそれを日常で感じる恐怖は人を弱らせる。

2013-01-03 09:00

職場の同僚が自殺したという組織へのサポート戦略の考え方 – その3

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同僚が亡くなったグループのサポート戦略について書いてきた。

職場の同僚が自殺したという組織へのサポート戦略の考え方 – その1 | deathhacks

職場の同僚が自殺したという組織へのサポート戦略の考え方 – その2 | deathhacks

グループメンバーに個別に会って話すメリットはあるし、グループ全体に一度に説明や問いかけ、投げかけをする意義もある。

理想を言うのならばサンドイッチ方式が良いだろう。
 グループ → 個別 → またグループ
という感じが良いかもしれない。

まず一般的な惨事後反応や自殺の心理メカニズムなどについて最小限、適切に情報提供する。
10分や15分くらいで良い。
それ以上は亡くなった方の歴史や状況をより詳しく知らないことには不自然な語りかけになってしまう可能性が高まる。

そして個別だ。個別に会う。
予備情報はあらかじめグループや組織の管理者から受けていたほうが効率的に話が聞ける。
しかし、基本的にはプレーンな状態から相手の話したいこと、話したい方向へと向かってもらう。
テーマの基点は原則として亡くなった方、もしくはその状況に対する相手クライアント個人の反応になるが。

そして最後にもう一度グループ全体に惨事後介入活動のフィードバックができると良い。
最初の教育・情報提供とのズレ、一般論と違っていた今回の特徴などを補正する。
個別セッションの中で出てきた情報を守秘に気をつけつつ、全体に共有してもらう。

あくまで時間や場所などの制約に阻まれなければ上記のような手順が奨められる。
これらは手順としての定型というのではない。
要素が十分に含まれていたり、狙うところと同じか似たようなプラスがサービスとして提供できるのならば形にはこだわらない。
惨事、あるいは自殺後のグループインターベンションはマニュアル作業ものではないからだ。

2012-12-05 08:00

職場の同僚が自殺したという組織へのサポート戦略の考え方 – その2

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会社などで自殺が起きた時に、外部からサポートを行う初動戦略の考え方における要素を昨日のエントリでは書いた。

職場の同僚が自殺したという組織へのサポート戦略の考え方 – その1 | deathhacks

こうした要素は考えれば考えるほど出てくる。
それぞれの状況や組織についてよく知れば知るほど、「こうしたほうが良いな」とか「この人にも支援を提供しよう」とかいうようなアイデアは浮かぶ。
支援を受ける側も様々なイメージを持っているし、具体的な要望を出してくることもある。

しかし、時間やマンパワーは有限だ。
選択と集中をしなくては支援の焦点はズレて、結局外部の人間がワッと来てかき回してもっともらしいことやできそうにもない計画や注意を多量に置いていき、どうも支援を受ける前よりも疲れてしまったし気持ちも暗くなってしまった、というような笑えない事態になる。

元々の想定である、「組織内で起きた自殺後のサポート」に戻って考えてみよう。

「自殺やその心理についての教育」が効果的かもしれないし、「衝撃的な出来事の後の身近な人が感じるストレスや惨事反応」についての説明を求められるかもしれない。
今後管理者や人事担当者が注意すべき従業員をスクリーニングして欲しい、という要望を相手が出してくるかもしれない。

これらをすべて行うことは不可能だし(少なくとも同時期に一度には)、上に書いたようにメリットだけでなくデメリットをいたずらに増やす可能性がある。

ポイントは出来事(自殺)からの時期や、その出来事が組織や仲間内でどのような意味を持ったかをヒアリングや情報収集から読み取り、優先度の低い支援目標は大胆に切り捨て、大目標をチームで共有しながら「それ」だけは達成するべく資源を集中することだ。
「あれもこれも」という支援活動が一番良くない。

2012-12-04 08:00

職場の同僚が自殺したという組織へのサポート戦略の考え方 – その1

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職場で自殺した人が出た場合、どんな組織や規模であれ、同僚や管理者には大きな衝撃が走る。
その死の原因が事故や病気であってもショックは大きいが、それが自殺であればさらに強い影響が出る。

そうした状況や組織にサポートとして外部から入っていく仕事をしている。
その手順に基本はあるが多くは応用が必要だ。

もしもイベントが発生した組織に直接出向いて、その場の同僚や従業員に30分でも集まってもらうことが可能だったとしたらば何をしたら良いだろうか。
出来事をなかったことにしたり、その衝撃をゼロにするとか、精神的・身体的に調子を崩していく人間が出ること必ずしも皆無にすることは難しいが、そのリスクを減らしたり、不適切な反応を少しでも弱めるような支援は可能だ。
そのためには「心理教育」だとか「情報提供」だというに呼んでいる仕事をさせてもらう。

心理教育は、身近な人の自殺という簡単には受け入れられなかったり、ただただ驚くとか悲しくて仕方がないといった感情があまりに激しく暴走し過ぎないような知識、あるいは情報を提供する。

その内容や骨子にはいくらでもバリエーションがあるし、相手や細かな状況の違いに合わせて調整しなくてはいけないのだが、ザッと3つほど挙げてみよう。

  1. 死は誰でも怖いし、それだからこそ関心がある
  2. 生きることをことさら意識していない人でも、死について考えたことがない人はいない。
    普段意識していない「死」というものを身近に感じることで、あらためてその必然性や自分に置き換えての「生」や「死」について考えを強いられる。
    自殺においては「なぜ?」という疑問を生じさせることがとても多い。
    しかし、その明確な答えは得られないことも多く、その場合混乱や怖さの増幅という「反応」をもたらす。

  3. 人は自殺する
  4. 自殺は(きっと)ゼロにはできない。
    それはすべての人間が幸せになるとか、満足して死を迎えることができないことと同じくらい確かなことだ。
    上記の件と同じように「自殺の理由」を後から他人が確実に述べることはできない。
    しかし、我々外部からの専門的支援チームは過去の経験や研究、そしてなによりも現場で得た経験から、的を射ている可能性の高い「自殺の原因」を提案することができる(提案というのも変だが、推測して提示し、それを受け取るかは自由に任せるしかない)。

  5. 人間は身近な人が自殺した場合、自分を責める気持ちや原因を探すモードで、過去の出来事を検索する
  6. 原因や理由が明らかであれば、どんなに悲惨な出来事出会っても、人間はある一面で安心することができる。
    不安を感じるスイッチをオフにすることができる。
    自殺は、その理由や原因が永久に解明できない(ような気がする)ことが多い。
    そうすると、人によっては、グルグルといつまでも自分を責め、過去の記憶を(時には自分に都合悪く書き換えながら)思い浮かべることを止められなくなってしまうことがある。
    これは苦しく、新たに身体的・精神的不調を来す者を増やしていくことにつながる。

結局、こうした仕組みや悪循環を、適切に扱い、「おかしいことではないが、過剰にあるのは不適切だ」というようにバランスを取りながら、自殺者周囲の人の状態や心理を正常化し、より苦しみの少ない適切な状態に変化していくことをサポートしていくのが我々の仕事であり、そのツールの一つが心理教育である。

と言いつつも、自殺(体験)には「惨事」としての側面もある。
そちらへのアプローチとのバランスをどのように考えるかについてはまた別のエントリにて。

2012-12-03 13:00

場所に注目して犯罪やPTSDに対処する

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犯罪を減らす方法として、犯罪者個人に注目する以外にも、場所を切り口にするというものがある。
犯罪が起きる条件としては、人間の内面的要因はもちろんあるわけだが、もしもそうした「誘惑」や「迷い」があったとしても、「場所」という外部の環境要因が揃わなければ、それが生起する可能性を下げられる。
この考え方から、地域で犯罪多発場所マップを作って注意を喚起したり、街灯が少ないとか、住民の目が届きにくい公園や林などを改変したりパトロールしたりといった工夫につなげていく例がある。

自殺多発地でも、立て看板や巡回で最終の一線を越えるのを阻止するというのも、広い視点からの費用対効果はまた検討されるべきだが、一定の根拠と効果はあるというのは同じようなことだ。

さらに、PTSDやうつリハビリについても、本人・周囲という人間要因だけに注目するのではなく、物理的・物質的・環境的な面から分析したり、ヒアリングしたりして、適当な対処を模索するのが有効だ。

2012-08-16 08:00

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不幸極限への対応の考え方

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トルストイが言うには、

「幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」

らしい。

これは個人についても当てはまるだろう。

ただし、不幸が極まると、これもまた幸福と同じようにワンパターンな状態になるというのが現場の印象だ。
ワンパターンというのは、「消えたい」「死にたい」「自分なんかいない方が皆のためになる」「離婚しよう」「会社を辞めて責任を取ろう」などなど。

この不幸の極限状態は、深さで言えば相当なもので大変深刻だが、ワンパターンな故、対応・打つ手・初動・ファーストエイドとしては、やるべきこと、できることが限られているから理論はシンプルで、あとは実践の取り組みが勝負になる。

2012-07-27 08:00

(関連リンク)

レフ・トルストイ – Wikipedia

トルストイ 名言 – Google 検索

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うつの疲労感表現の例

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うつ症状の重要なものの一つに疲労感がある。

疲労を感じたことがない人はいないだろう。
疲労を回復するには、基本的には休まなくてはならないし、時間もかかるということには納得してもらえるのではないか。

しかし、それが死にたいという気持ちにつながったり、それほどの苦しさに直結するということになると途端にイメージしにくくなるようだ。
それは、結局は疲労が目には見えず、痛みとかと同じく当事者主観でしか測れなかったりと、明確に共有できる尺度がないからだ。

だが、その表現には遺書などの上に、驚くほど共通性が見られることはすでにわかっている。

例えば、自殺したマラソン選手の円谷幸吉の遺書にも「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」というように書かれている。
これは半分は比喩としての疲れであり、当たり前だが決して運動の直後に書いたからというわけではないのではないか。
ただし、本人には休めばある程度短時間で回復する疲労と、うつ的な染みついたような疲労感の区別はつかないし、それどころの気分や思考状態ではなかっただろう。

円谷幸吉 – Wikipedia

自殺者の遺書については、E・シュナイドマンの「シュナイドマンの自殺学」が詳しく興味深い。

2012-07-10 08:00

(関連リンク)

シュナイドマンの自殺学―自己破壊行動に対する臨床的アプローチ
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うつの人は死にたい理由すらも忘れてしまう

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《2007-10-12 FRI 0921》

病気による影響もあって、「忘れんぼさん」になる。

死にたい気持ちだけが残る、エネルギー枯渇という状態だけ、結果だけが残る。

その後に何かいわゆるライフイベントがあったとしたら、
《死にたくなる → そのライフイベントで死にたくなったのだ》と、勘違いしてしまう、勘違いされてし まう。

さらに弱るとライフイベントでなくても単なる「イベント」出来事で死にたいと感じることもあり得る。

(関連エントリ)

うつの人の日常は惨事である | deathhacks

2012-06-29 07:00

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