医療機関で働いていない医師が診断書を書くことは可能か

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思考検証中のことを一つ。

産業医になったからというだけではないが、どうもまた、医師臨床に近い話をしたり調べたりしなくてはいけない機会が少なくない。
質問もされる。
答えるためには調べなくてはいけない。

今調べていることは、診断書に関してのこと。

勤務しているときには意識しないで診断書は作成しているものだ。

今現在の自分のように医療機関、組織に属していない状態で診断を書くというシチュエイションはありうるだろうか。
そして、その作成に問題や注意点はないのだろうか。

医師法を見ても「医師は求めがあった場合には診断書を作成しなくてはならない」としか定められていないようだ。

医師法 (第19条)

だが逆に、診断書を書いてはいけない状況というものが簡単には思い浮かばない。

考えている流れとしては、

診断書を書くためには「診断」をしなくてはならない
→ 診断をするためには「診察」しなくてはならない(無診療診断の禁止、医師法第20条)
→ 診察をして医療報酬を得るためには保険医療機関に勤務、もしくは開業して申請し、「保険医療」を行わなくてはいけない
→ 保険外医療というものもあるしまったく違法ではないがそれを診断および診断書を求める患者が了解するかという問題がある

ということで、診断書を書くことに明らかな問題は考えつかない。

また、別の点として、

医師は診療をしたならば診療録に記録をしなくてはならない(医師法、第24条)
→ 診療録は5年間保存しなくてはならない(同法同条2)
→ もしも医療機関に勤めていない医師が個人で診療録を書いた場合にそれを5年間保存するためにはコストがかかるしリスクもある
→ 診療録には個人情報も含まれるから取り扱いに手間がかかるな

と、考えながら調べているとどうも「5年間保存」というのは「病院または診療所に勤務する医師のした診療について」のみというような記載があった。(同じく同法同条2)
これならば、診療録の保存に関しては考慮しなくて良くなりそうだ。

そもそも「診断書」と言うもの自体も、法律上特に決まった書式というものはない。
どんな紙に書いても診断書としては成立するし、保険会社などが診査のために記載を求める書類も診断書と呼ばれる。

また、診断書を作成することは保険診療上の報酬に入らない。
言い値で発行することが可能だ。
一般には各医療機関などが常識的な値段設定をしていることがほとんどだろうが。

こうして、もしかしたら、フリーの医師が、必要だと言う患者に対して診断書を発行するということはあまり聞かないが、調べた限りでは明らかに制限する法や理由は見当たらない。
世の中には、診断書だけを書く(もちろん診療・診察がその前提にあるが)サービスというものは既に存在していたりするのだろうか。
診断書の信頼性という面では担保することが難しそうだし、気づいていない問題がありそうという印象だけど。

ここまで考えたし、Webで調べたりということまではしたので、あと次は経験豊富なドクターに聞いてみるか、厚生労働省に直接尋ねてみるかを検討。

2012-09-29 09:00

守秘義務のレイヤーそれぞれ

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守秘義務には、法的なレイヤーと、倫理的なレイヤー、そして臨床的なレイヤーがあり、それぞれが微妙に違っている。

自分が考えるときに、それがどこに当たるかを吟味すると良い。

2012-08-21 08:00

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日本の社会でルールを知らなきゃ勝負にならない

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いざ調べたり関心を持ったりしてみると法律などで決められていることばかり。

思った以上に、日本の社会は誰かがすでに、問題意識を持っていたり、整備していたりすることが多い。

社会への関わりが深い仕事では、知恵でだけではなく、知識量や研究の蓄積がなくては勝負にならない。

2012-08-09 12:00

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カウンセリングに同意書は必要か

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ご多分にもれず、心理カウンセリングの業界でも、説明や同意、契約といった仕組みや制約は半ば不可欠なものと見なされることが増えている。
これらは、人間が人間を支援するのに、本当に必要なものかと言ったら違うわけだが、世の中のトレンドとしてはそうなってきているということだ。

こうした同意や契約のはまず、「カウンセラーは原則としてクライアントと話した内容を他の誰にもしゃべらず秘密を守る《守秘義務》」という約束から始まっている。
この約束があるからこそ、ほぼすべてのカウンセリングは成立し成果を期待できると言える。

だがそこに例外として、「クライアント自身やその周囲に緊急の危険や害悪が明らかに迫っていると判断したときには守秘義務を守らない場合がありうる」という取り決めが乗っかってくる。
そしてそのことを明確にするために、カウンセラー-クライアント間で同意書をかわすというのが流れの一つだ。
考えてみれば、建て増しを重ねたようなやや複雑で不安定な面のある話だ。

しかし私は、原則としてこのような同意書は不要だと思う。
同意書が有用、有効な場面は極端に少ない。
それがないことによるリスクは、別の仕組みややり方でカバーするほうが妥当だし、本来の目的であるカウンセリングの有益性を損ねないからだ。

同意書が「あると助かる」場面というのは次のような条件が揃ったときだ。

  • クライアントに「死にたいと考えるくらい苦しくて辛い」とか「許されないかもしれないが非常の手段を取ってしまおうかと思っている」などの本人または周辺に対する危機が認められる
  • 上記の状態について、カウンセラーが話を聞く以上の支援や介入、危機に対する予防やその情報を組織や警察などに知らせることをクライアントが拒否している

この危機は、重大だが、可能性としてはかなり限定的であって、このリスクをコントロールするためにすべてのカウンセリングケースで同意書を利用することは費用対効果が悪い。
また、「あると助かる」と書いた「助かる」の利益を得るのが誰かと言えば、まずもちろんクライアントではあるのだが、もう半分はカウンセラー側である。
カウンセラーが「楽をして」「安全でいるため」にどこまでリスクを減らすかはやはり全体のバランスをよく見なくてはいけない。

また、極論ではあるが、明確な同意を確認していなくて、つまり守秘義務を例外とする状況に関する同意書がない場合に、カウンセラーが秘密を守らず(守れず)何処かへ通報したり、連携したとしたら、あとは個別のケースとしてクライアント間あるいは民事契約上の問題として扱っていけばいいとも思う。
そう考えておくということも、リスクをゼロするという考え方でない分、健全ではないか。

今回考えていることは、あくまでカウンセラー個人があるクライアントを支援する場合の、限定的なシミュレーションだ。
組織や団体として、可能な限り一律の決まりや質でカウンセリングを提供するというのであれば、また全体の費用対効果とリスクコントロールは違ってくる。
また、単なる個別セッションなのか、継続していくケースなのか、惨事後のファーストエイド的面談なのかということも実際には考慮するべきだろう。

決して、現状のトレンドがベストということではないし、「同意書は不要」とする私の意見が常に適切ということでもない。

2012-05-21 07:00

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会社と個人と結婚と

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会社と個人の関係は通常、契約だ。
だが、単なる法的な契約 contract としてだけではなく、エンゲージメント engagement というもう少し精神性、感情性が入った考え方もある。

エンゲージメントという言葉自体からは、どちらかと言えば「婚約」というイメージが先に浮かぶ。
しかし、元々「約束」とか「取り決め」、そのものそのままの「契約」という意味も含まれている。

言葉遊びになってしまうかもしれないが、なぜ会社や組織との関係は「結婚(婚姻) marriage」ではなく「婚約」と称される(もしくは同じ言葉が違うニュアンスで使われる)のだろうか。

そこには多くの国や文化、宗教で決められているように、「結婚は(原則として)一度きりで、死が二人を分かつまでは(!)解消してはいけない」というような縛りがあるのに関係するのかもしれない。

終身雇用制度の有無や良悪、維持の継続性・可能性に関わらず、法律上の人格であったりする人工の組織と個人が、「結婚」してそれを余程のことがなければどちらかの終末まで継続・維持することを半ば強制するようなことはやはり難しいのかもしれない。

漠然と印象先行で考えてみているがどう思われるだろうか?

2012-05-09 07:00

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10年後には心理カウンセラー業に法的責任が求められる

memo20071207

2007-12-07の日誌より。
その時点で予言・予測していたこと。

5年後(2012)には、心理カウンセラーについての国家資格が成立すると思っていた。
10年後(2017)には、面談の記録と保存が制度化・義務化・システム化すると予測。
15年後(2022)には、初めて心理カウンセリングの内容について法的責任、つまり過失が認められる司法判断・判決が出るだろう。

心理臨床の国家資格は生まれていないが、臨床心理士という民間資格が一定のレベルで認知・運用されている。
これにより却って、新たに国家資格を作ったり、変革していく動きは起こりにくくなっている。

業務の記録や保存についても国家が積極的に指導監督する方向ではない。

しかし3番目の法的責任ということについては、1番目、2番目の成否に関わらず現実になる。
民事訴訟か刑事訴訟かという違いはあるだろう。

これは、その業に対する期待や責任が実力や実効とはまた別の線上で変化していっているからだ。

2011-11-07 09:00

人間の本性はどこからどこまでか

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ある国では子供や若者が日常茶飯事のように盗みを繰り返しているとする。
盗みは犯罪だ。
法律のあるなしやその判断基準などの差は国によって違うだろうが、ここでは一応他人のものを正当な理由なく奪うことを罪なこととして考える。

盗むことは、それを行った人間の本質だろうか。
その人間が本性として犯罪者だから犯罪を犯すのか。

常に盗みをしてきた人間を、例えば日本に連れてきたとしたら盗みをするかといったらしないのではないか。
盗むにしても周りに仲間はいない。
盗んだものを売ろうとしてもルートはなく、買取り手がいない。
お金を盗ったならば使いやすいかもしれないが。
警察は十分に優秀で犯罪に対する仕打ちは強い。
つまりリスクが高い。

話を大きくして、日本できちんと生活するならば盗みのような犯罪をすることは割りに合わないかもしれない。
一般論としての犯罪への抑止にはいくつかの方法がある。
刑罰でプレッシャーをかけて止める方法。
予防や警備をして犯罪以前に防ぐ方法。
犯罪を犯すよりも楽に気持ちよく十分に必要なものを得ることができれば盗みなどをうる必然性はない。

日本が安全であったり、犯罪の数が少なかったりするのは国という単位の中で様々な要素が組み合わさった上でのことだ。
それは社会というシステムでもある。

決して住んでいる人間が皆、道徳心に富んでいて、真面目で悪いことに手を染めない性質だからという「だけ」ではない。
長年の蓄積やお互いの関係性、教育などの上に安全や防犯は成り立っている。

かなりの飛躍になるが、そう考えると、人が盗むにしてもサボるにしても、殺すにしても、不正をするにしても、純粋にその個人の責任と考えるのが難しい気がしてくる。
とは言え、考えを進めて、個人の行為や言動などをすべて「社会のせい」「システムのせい」とするのも不適当だ。

人間と社会、個と集団をどのように捉えればいいかという問題になる。

2011-10-30 10:00

カウンセリングでもアサーティブ

20110824104225

カウンセラーはクライアントの様々を受容しなくてはいけないが全てを肯定するのでもない。クライアント+カウンセラーという最小単位の社会ではどうしても、多数からなる社会に比べて反社会的、非倫理的、犯罪予備的、違法な思考や感情が表現されやすいから。それらをアサーティブに扱うこと。
@neti2
小片武

カウンセラーはクライアントの考えや感情を否定せずに受け入れなくてはいけない。
これは、よく言われる「受容」に当たるだろう。

しかし、カウンセラーの価値観や人生観からして、どうしても理解できなかったり、受け入れられなかったり、どうしても一言物申したくなってしまうことよくある。
明らかに、非倫理的なことや犯罪の実行をほのめかしたり、死にたい気持ちを表現する自殺念慮や希死念慮もそれらに含まれる。

うまく対応するためには、カウンセラーとクライアントの両者が本音を出せる状況をつくることとカウンセリングの内容の順番やタイミングに注意を払う。
アサーティブに振る舞う、と言ってもいい。
お互いに、すべてを相手の為すがままにするのではなく、言うべきことは言う。
ただし、相手の感情に配慮するし、その結果は予想し覚悟する。

大事なことは、「アサーションをクライアントに説く」のではなく、「カウンセラー自身が(も)アサーティブ(という考え)を意識する」ということだ。

2011-09-02 09:00

カウンセラーは「診断」してもいい、「うつが治る」と言っていい

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カウンセリングの初級者が悩むテーマの一つに、クライアントのことを「うつ」だとか「うつ状態」だとか判断・診断していいのか、さらにはそれをクライアントに伝えていいのかというものがある。
あるいは、うつの人に「きっと治りますよ」などと言ってしまっていいのかという葛藤を抱える人もいるだろう。

私の結論としては、診断したり、治るという見通しを伝えてもいい。

医師や医療関係者は、「診断をすること」について、医師法17条の「医業」にあたるのだから無資格者がそんなことをしてはいけないと言うかもしれない。
しかし、日常では、まったくの素人が知り合いや家族同士で「熱っぽいなら風邪じゃない? だるそうだし」とか「下痢をして胃も痛いなら胃腸炎かもしれないね」という会話や判断をしているではないか。
あとは、カウンセリングという場でそういったやり取りをしたとして、カウンセリングそのものが継続・反復の意志がある業だとして、その場で「医業」に近い判断をしていいのかという部分が焦点になる。

だが、診断というものは決してそれ単独で意味を持つものではない、原則としてそれに引き続く治療や検査、処方などがあって、初めて医業と見なされる。
このことはすでに過去に私個人は厚生労働省に問い合せて確認している。少なくとも、ある個別の発言やアドバイス、診断がただちに医師法第17条にを侵すものではないと。

逆にあいまいなことを言ったり、名言を避け続けて、クライアントを不安にさせたり、うつでないことを強く説明してしまって医療や次の手段を取ることを遅らせたりそのチャンスを奪ったりする方が怖いし、クライアントの不利益になる。
間違ってほしくないのは、もし仮にカウンセラーが「うつを診断した」としても、正式に診断されたり医療を利用したりするまでには必ずキチンとした医師のフィルタがかかるということだ。

うつが治ると言っていいのか、というのも同じように、クライアント側の利益を考えている。
治らないかもしれません、と言って元気がでる、喜ぶ、というケースはとても少ないだろう。
治ると言ってはいけないのではないか、という考えの背景のほとんどはカウンセラー側の価値観や偏見、あるいは言ったことに責任を取らなくてはいけなくなるという負担感が原因だ。

確かに、単純にどんなケースやどんなクライアントに対しても「治る」ということが適切だとは言わない。
世の中と同じように、すべてはファジーだ。
数年来苦しんだようなうつが、若いときのそのクライアントの最盛期や絶頂期と同じような感覚にまで回復するかと言えばなかなかそこまでは望めない。
「今より良くなります」というくらいの説明が適切なことも多い。
うつの苦しさや見通しはその個人(クライアント)の価値観や何を幸せと思うか、何に人生の価値を見出すかによってもかなり異なる。
この部分はカウンセリングを通じて、教えてもらい、何を目標とするのか、しているのかを共有する必要があるだろう。
美容整形と同じく定義がズレていると悲劇を生む。
何を「美しい」と考えるかと同じくらい何をもって「治った」ととらえるかは違ってくる。

2011-07-25 09:00

パートナーは一人にしぼらなくても良い – 結婚について(3)

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結婚するにしてもしないにしても、「パートナー」をたった一人に限定する必要はないのではないかと思う。
もちろん、2人以上と同時に結婚すれば「重婚」だし、結婚していて配偶者以外と関係を持てば「不倫」とされ、独身でも同時に多数の異性と濃く付き合えば「浮気」と言われる。
これらには法的あるいは社会的な罰則や制裁が通常される。

別にこれらの「非倫理的(と言っておく)」行動や関係を奨めたり、許容しているというのではない。

異性間の結婚には複数のパートナーシップ関係がある。
愛情にもとづくもの、セクシャルなもの、再生産(子どもをもうける。育児)、労働の分担、経済的な共同体、趣味の共有、住居の共有、などだ。
これらを必ずしもただ一人の異性に求めるのは、ときに少々無理があるのではないか。
むしろ、愛し合う人と性的関係を持ち、親類や社会に認められて、一緒に暮らし、経済的にも充足して、楽しみを共有し、子どもをつくって次の世代に申し送る、というのは理想的すぎる。
多くの人たちは、こういっては何だが色々と妥協しているはずだ。

様々なパートナーシップを厳選した相手に一度に求めるのは、集団としては効率がよかったのだろう。
少数の雄や雌が、ある程度の規模の集団内の異性を「総取り」する種もあるが、人間そして日本ではそうはなっていない。
公平に。一人につき一つ(一人)までにしてください。
そういうルールになっている。

しかし社会は、これだけ多様に、豊かになっている。
情報の流通コストも下がった。
パートナーシップを求める相手を使い分けてもいいのではないか。
一緒に暮らし子どもをつくる相手以外に、知的により語れる関係を持つのも可。
経済的なパートナーシップと住居などをワンセットにしなくても良い。
おそらく単純な「種」としての再生産や繁栄という面では不利になるが、ヒトという種についてはその方向になる、あるいはなってきているように思う。

2011-06-23 06:00