陰口というわけでもないけど、聞きたきゃ聞けばいいのにと思う

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世の中、腑に落ちなかったり、釈然としない事だらけだ。
ある人が自分の視点や価値観だけに頼って物事を見てしまっている時にはなおさらそういう世界観に陥るだろう。

そんなときに必要なものは、解釈や非論理的なビリーフを修正するような転換なわけだけど。
それに要するものはまず情報だ。
そして情報を得るためにはコミュニケーションが必要になる。

ところがうまくコミュニケートするためには適切な解釈や論理を持っていなくては行動に移せなくなる。
相手に対して何かしらの疑心や恐れを持っている場合、自分が行動したり考えたりしていることが間違っているのではないか、正当ではないのではないか、恥ずかしいことなのではないか、などの思い込みがある場合、コミュニケートすることは自分の立場を危うくしたり、評価を落とすことになる(ように思える)。

かくして、間違った解釈→情報不足→コミュニケーション不全という悪循環はどこかの時点で誰かが高所から見直し手を加えなくてはキープされてしまう事例が多々ある。

2013-01-23 09:00

一般情報では足りなくて、公式情報では複雑すぎる

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2009年、世界的に流行し、社会的な混乱を巻き起こした新型インフルエンザについて調べなおしている。

あの出来事や事象が何だったのか。
次に同様のことが起きたときに個人、そして組織や専門家がするべきことは何なのか。

様々にレビューはされているが、一般的な情報(Webサイトやブログ)では、内容的に網羅されていなくて足りなかったり、専門家・権威の裏付けが少し欲しくなったりする。
政府や行政の報告書などでは、複雑すぎたり、厳密さを要求するあまり、知りたいことを簡易に読み取るには複雑すぎたりする。一度出した報告について新たな知見や情報が出てきた時にも拙速よりはじっくりと吟味した上でのアップデートになるから小回りが効きにくい。

これはあくまでササッと調べてみた上での印象だ。

欲しいもの、望ましい形態は次のようになる。

  • A4サイズ1枚程度にまとめられている
  • 重要な情報はYahoo!ニュースの見出しくらいにコンパクトに10数文字で記述され、3〜5文くらいの大見出しになっている
  • 随時こまめにアップデートされている。文書タイトルとヘッダに年月日バージョンが明記されている

自分でまとめればいいのだろうが、要求しておきながら、デザインやアップデートしていくことを考えるとなかなか始められない。

2012-11-19 08:00

(関連リンク)

2009年新型インフルエンザの世界的流行 – Wikipedia

インフルエンザ – Wikipedia

自分個人を広く開示することの問題点

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私が自身について、周囲や公に情報を出していくのにはいくつか問題を感じてきている。

その内容については、情報の量や範囲をうまいことコントロールしたいということではない。
どちらかと言えば、ドンドンと広まって欲しいくらいなのだが、おもに技術的な制約からなかなかスッキリいっていない。

内容としては、私が考えること、経歴・キャリアなど。

考えていることについては、このブログ(deathhacks | 心理カウンセリングとその周辺について毎日書いています)で足りているとは思う。
広がるかどうか、適当な相手に届くかどうかは、状況や相手次第なのであまり気にしてもしかたない。

経歴やキャリアについては、これも見せ方の問題なのかもしれない。
自分としては、顔出ししようが、履歴書をそのまま公開しようが、別に構わないくらいの感覚で今のところやっている。
しかし、これも情報の受け手が、得やすく、容易に到達できるような工夫はした方が良い。

こうした方法論を考えているというのも、私が他人に対して、その人が何をしてきて何を考えているのか、どんな表現をしているのかというのを知りたいと思うからだ。
その対象はとても限定されているけれども、結構強い願望としてある。

2012-07-01 10:00

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カウンセリングに同意書は必要か

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ご多分にもれず、心理カウンセリングの業界でも、説明や同意、契約といった仕組みや制約は半ば不可欠なものと見なされることが増えている。
これらは、人間が人間を支援するのに、本当に必要なものかと言ったら違うわけだが、世の中のトレンドとしてはそうなってきているということだ。

こうした同意や契約のはまず、「カウンセラーは原則としてクライアントと話した内容を他の誰にもしゃべらず秘密を守る《守秘義務》」という約束から始まっている。
この約束があるからこそ、ほぼすべてのカウンセリングは成立し成果を期待できると言える。

だがそこに例外として、「クライアント自身やその周囲に緊急の危険や害悪が明らかに迫っていると判断したときには守秘義務を守らない場合がありうる」という取り決めが乗っかってくる。
そしてそのことを明確にするために、カウンセラー-クライアント間で同意書をかわすというのが流れの一つだ。
考えてみれば、建て増しを重ねたようなやや複雑で不安定な面のある話だ。

しかし私は、原則としてこのような同意書は不要だと思う。
同意書が有用、有効な場面は極端に少ない。
それがないことによるリスクは、別の仕組みややり方でカバーするほうが妥当だし、本来の目的であるカウンセリングの有益性を損ねないからだ。

同意書が「あると助かる」場面というのは次のような条件が揃ったときだ。

  • クライアントに「死にたいと考えるくらい苦しくて辛い」とか「許されないかもしれないが非常の手段を取ってしまおうかと思っている」などの本人または周辺に対する危機が認められる
  • 上記の状態について、カウンセラーが話を聞く以上の支援や介入、危機に対する予防やその情報を組織や警察などに知らせることをクライアントが拒否している

この危機は、重大だが、可能性としてはかなり限定的であって、このリスクをコントロールするためにすべてのカウンセリングケースで同意書を利用することは費用対効果が悪い。
また、「あると助かる」と書いた「助かる」の利益を得るのが誰かと言えば、まずもちろんクライアントではあるのだが、もう半分はカウンセラー側である。
カウンセラーが「楽をして」「安全でいるため」にどこまでリスクを減らすかはやはり全体のバランスをよく見なくてはいけない。

また、極論ではあるが、明確な同意を確認していなくて、つまり守秘義務を例外とする状況に関する同意書がない場合に、カウンセラーが秘密を守らず(守れず)何処かへ通報したり、連携したとしたら、あとは個別のケースとしてクライアント間あるいは民事契約上の問題として扱っていけばいいとも思う。
そう考えておくということも、リスクをゼロするという考え方でない分、健全ではないか。

今回考えていることは、あくまでカウンセラー個人があるクライアントを支援する場合の、限定的なシミュレーションだ。
組織や団体として、可能な限り一律の決まりや質でカウンセリングを提供するというのであれば、また全体の費用対効果とリスクコントロールは違ってくる。
また、単なる個別セッションなのか、継続していくケースなのか、惨事後のファーストエイド的面談なのかということも実際には考慮するべきだろう。

決して、現状のトレンドがベストということではないし、「同意書は不要」とする私の意見が常に適切ということでもない。

2012-05-21 07:00

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惨事後集団へ介入サポートするときの個別セッションで考えるべきこと

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惨事介入のときの個人カウンセリングあるいはセッションは、通常の面談とは頭を切り替えて行う方が良い。
決して「個別カウンセリング×(かける)人数分」ではない。
このことは、やり方、そして得られる成果や効果につながる話だ。

普通のカウンセリングと違うことの一つは、面談の中で出てきた情報を、意識して提示し、活用し、つなげていくのが大事だということだ。
その情報とは、惨事についてでもいいし、組織のこと、管理者のこと、日常業務のこと、その他なんでもいいし、あらゆることだ。
もちろん、いわゆる守秘義務については配慮する。

惨事のことのうち、公然の事実であっても、細かい認識や理解にはズレがあったりする。
これをキチンと時間を確保して落ち着いて話すことは、一見単なる確認であっても、惨事体験後の人にとってはありがたい。

職場の状況や環境についても、業務内容の細部でなければ原則として、深刻な話を聞いてもらうのには誰でも知っておいてもらう方がいいと考えてもらえることの一つだ。

こうした内容や情報は、人数を重ねて、個人セッションを進めるほどに、惨事介入チームのもとに集まってくる。
チームのメンバー間でもこまめに情報などを共有する。
共有できた情報を適切に出して利用していくと、個人セッション内で、クライアントの味方になる早さがまったく違ってくる。

惨事介入時の面談は対象人数が期間に比してたいてい多い。
一人に対して20分から30分くらいしか割り当てにくいこともしばしばだ。
そこで、あらゆるテクニックや資源を使って、スピード感を高めて仕事をしていく必要がある。

一般的なカウンセリングのように、1セッションが50分から1時間、回数も数回から、期間も数ヶ月から年単位という設定があるのならば、一人一人から、面談のテーマについてゼロから教えてもらっていき、ラポールあるいは良好なリレーションを作るメリットもあるだろう。
しかし、やはり、この道筋をたどるのは、惨事後組織へのファーストエイドとしてはスピード感が合致しにくい。
面談のテーマは、その場での惨事に限定するということはないが、もしも惨事周辺の話をすることになれば、できるだけ概要の確認は短時間で済ませてしまい、個人としての反応や考えていること、困っていることなどにさっさと話題を移してしまった方が、単刀直入にメリットが得られるし、違和感も特にないはずだ。

このように、活動の全般を見渡し、適切な程度以上に近視眼的にならずに、個人対応や一つ一つの仕事をこなしていくのが得策だろう。

2012-05-19 08:00

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知る必要のない秘密を聞いてしまうこと

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世の中、思っている以上に秘密というものはいっぱいある。

知りたくなってしまうという秘密はもちろんある。
人には好奇心というものがあるから。
本能的に、より多くの知識や情報があると生存や快を得るのに有利だということをわかっているということもある。

場合は少ないかもしれないが、聞いてしまったあとに「聞かなければ良かった」と感じるような秘密もある。
物事を忘れないようにしたり、憶えておこうとするためには普通意識的な努力が必要だが、逆にわざと忘れようとして苦労し苦しむこともある。
不快な思い出やトラウマ的な出来事が記憶に残り続け、繰り返し頭の中で再生されることが人生に大きな影響を与えることが実際にあり得る。

情報の量が増え、社会が豊かで複雑になった現代では、一度知ってしまったからといって、思考としても立場としてもそのことを知らなかった以前の状態に戻ることができないということが存在する。

秘密を話す側は特別意識をしていなかったとしても、知っているはずの無かった秘密を聞いた人間は、今度は秘密を守る立場になってしまったりする。
それは難しいことではないかもしれないが、こころのリソースをいくぶんか消費し続けたりするのでちょっとやっかいに思う。

こんなときには、そもそも秘密をなるべく作らないようにすればいいのにとも考えてしまう。

2012-01-22 12:00

情報の圧縮と増幅が文化を間違わせる

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ある場所やコミュニティ、社会の文化というものはどのように作られるのか。

まず一つにはその事柄についての優劣によって取捨選択や淘汰がなされるだろう。
腕力が強いものが生存に有利で得をする場面が多いのならば、たいていそこにグループができ、格差を利用した政治や商売などが生まれてくる。
そこにはさらに、尊敬や愛情というようないわゆるポジティブな感覚も並んでくる。
もちろん一般にマイナスな要素も同じように現れるのが常だ。

つまり、事柄の優劣に加えてもう一つの要素として、多数の原理が文化の成り立ちに関係する。
より多くの人間が価値が高いと認めた方向に社会全体が向かっていくということだ。
直接にしろ間接にしろ、民主主義や民主的な選挙のようなシステムが使われているのが当たり前ということはない。
そこには様々なコストや努力が払われている。

選挙というものは、日本の間接的な投票選挙も含め、時間もお金も大量にかかるから頻繁にあらゆることの決定に使うことはできない。
どんな服装や髪型が流行るか、男女関係はどうあるべきか、家族はどのように暮らすべきか、どんな職業や仕事に人気が集まるかなどは選挙で決めたりはしない。
それらは無数の連続的・継続的な優劣の判断と多数の原則で決まっていき、決まったらば個人を縛ったり、影響を与えたりする文化というものになっていく。
これは「時代の空気」や「雰囲気」がつくられていくということだ。

こうした文化や「空気」が形作られる過程では、今まではなかなか一部の個人の思惑が集団の文化を決めてしまうということは少なかった。
少なかったとは言っても、例えばヒトラーが代表してドイツ全体を動かしたり、日本が大戦に参戦していくのにマスメディアが引率する大きな力になっていたりということは実際にありえた。
例として出したこれら歴史上の出来事はとてつもなく大きいものであったが、数や期間としては大部分を占めるものではなかったということには多少の救いがある。

しかし、今では技術やメディアの発達と個人への浸透によって、こうした文化や空気作りの元になる情報の伝達や広がり、交換の質も量も爆発的に増えた。
増幅だけではなく、それら情報はとてつもなく圧縮されてもいる。
一次情報自体は人数比やその教育の成熟度の増加で確かに増えているが、それ以上に上に挙げたような技術やツールによって二次情報、三次情報等が増えている。

そして情報は増え、密度が高くなればなるほど単純に総合的な質も確実に上がるとは言えない。
決してそれ自体が悪いことではなく、単なる流れであり、善悪の色が付いているものではない。
けれども、長い目で見た時に間違った空気が流行ったり、誰の得にもならないような文化が発生して広がるチャンスは確実に増えている。

2012-01-18 14:00

組織介入においては単純に守秘すればいいわけではない

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ある組織で事故や自殺が起きたとき、または災害に見舞われたときなどに、外部から惨事に対するメンタルサポートをチームとして提供するノウハウはまだ一般的なものはない。
チームサポートの存在自体がまだ一般的に知られていないということと、日本でその重要性や必要性が認識されたのが最近の十数年であるからだ。
具体的には阪神淡路大震災以降ということになる。

外部組織がチームとして介入サポートをする場合、そして教育や情報提供だけでなく、個人へのいわゆるカウンセリングをする場合に、「秘密」の取り扱いが一つのテーマになる。
旧来のカウンセリングの原則としては、たとえ組織が主導した場とは言っても、その組織所属の個人とカウンセリングで話した内容については秘匿することになる。
しかし、はじめに書いたように、この分野や活動はまだ過渡期であり、社会も常に変化してきている。
ある程度、型が決まってきているように思われることもあるカウンセリングと同じく、現場や個別ごとのアレンジや応用の範囲は広い。

何か重大な問題と状況を抱え、しかもそれが周囲に知らされていないようなクライアント個人と面接をした場合、その人の秘密(共有されるまでは秘密のままだ)やカウンセリング内容、フォローアップをどう扱えばいいだろうか。
介入を依頼した組織としても、とにかく色々な情報を欲しいという実状がある。

「面接で、ウチの社員はどんな様子でしたか?」とか「注意して観察しておいたほうがいい人はいませんでしたか?」とかいう質問を担当責任者からされたときに、「いや、カウンセリングで話した内容は守秘することになっていますから!」という古典的な応対は現在は難しいし、現実にそぐわない。
かといって、何でもかんでも組織と共有してしまうという風に簡単にはいかない。
バランスを取ることが必要になる。

「こんな問題を抱えている人がいました」とか「かなり疲労しているけれども表面的には出していない方がいました」というように概略だけを伝えるやり方もある。
ただし、具体的個人名がないまま、この内容だけを話すと、相当に理解があり、責任能力がある人が担当者でない場合に、単に心配事を増やしてしまうことにもなりうる。

困っている個人にも説明し、理解してもらった上で、組織に対しても説明して、この先協働していく方向に持っていくのが、一番理想的かもしれない。
しかし、個人が内心や秘密を守りたいという意思があれば(それがたとえ冷静で適切で論理的なものではまったくないとしても)それを貫く権利はある。
介入者がプロフェッショナルであっても、組織に管理責任があったとしても、押し付けることは難しいし、実際にはその問題の内容によって境界はあいまいで定型的に判断することはできない。

個人には内緒にしたまま、組織・担当・責任者には、情報を伝えるという手もなくはないが、もしもそのことが明るみに出た場合を考えるとリスク高い。

組織への介入については、これまでに学術的な議論や研究はされてきているが、日本で現状に即した情報は少ない。
これは、個人に対するカウンセリングや契約とはかなり違うということを認識しておかなくてはいけないということだ。
相手も組織で複数あるいは法人格(など)、サポート側もチームであったり能力が様々であったりする。
現場では、通常のカウンセリングやサポートと同じで延長線上にある部分と、そうではない部分をチームの全員が高いレベルで理解していなくてはいけない。

2011-08-28 09:00

Google検索、Webでの評判、コストパフォーマンス

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いまどきのブランディングについての雑感。

Googleで検索されないものはこの世に存在しないも同然

これだけのネットワークが存在するのだからそれを利用しない手はない。
過去の、狭く深い人間関係・情報との結びつきから、広く浅い関係に移ってきている。
ここで大事なのは、「狭く深い」か「広く浅く」かは選べるということ。
もちろん理想的には「広く深く」なのかもしれないが、時間という有限な資源によって制約を受けるということを考えれば、広さ(狭さ)と深さ(浅さ)はX-Y軸にはならない。
その掛け算、つまり面積が一つの軸の値になり、もう一つが時間になる。

良いアイデアを出すためには一つ一つの質を高めることの前に、量(数)を増やすことが有効だということは常識になっている。
それと同じで人間関係の分母を増やすためにはWebネットワークの力を用いないわけにはいかない。
そのために必要なのは、現時点ではまず、「検索されること」である。

Webでの評判は重要ではない

「Googleで検索されないものは無いも同然」と言ったことと矛盾するが、Web「だけ」を重視する必要も、今のところはない。
結局、スマートフォンなどが急速に普及はしてきているが、大衆が本当にそれを求めているのか、心からそれを望んで楽しんでいるかはわからない。
本当の普及、情報革命には数十年はかかる。
産業革命や鉄道革命と同じ事だ。
革命が革命に見えている間はまだ革命は終了していないということだ。
それを見て、無感動というのではなく、なぜそれが革命なのか、革命だったのか忘れてしまっているという状態になって初めて、歴史がそれを革命だったと記録する。

Webは流行っているように見えるが、まだまだ気にしていない世代は多く残っている。
そういう人たちは最後までWebや検索に積極的に関わろうとはしないだろう。
自分をエゴサーチしてどんな評価がされていようが気にしなかったり、そもそも知らなかったりする。
もしも自分に関する悪評があっても、それはごくごく少数のノイズにしか見えない。
周りには自分を守ってくれる、自分が守るリアルな人間関係もあるだろう。
しかし、革命は革命であるが故に進行していく。
決して止まらない。
あとは時間との兼ね合いで、革命がどの状態までくるか。
それに対して自分の人生が終わるのか。逃げ切れるのか。黙殺して終わる、終わることができるかという人知を超えた話になる。

評判とコストパフォーマンス

人間関係や評判、Web検索性などは、別にそれら一つ一つが常に最重要なものというわけではない。
例えば、あるレストランがあったとする。
そこの料理の味は最高なのだが、接客やサービスなどに難があるとしよう。
他人や客から見れば、「惜しい」気がしてしまう。
「もう少しお店の人が気持ち良く対応してくれたらいいのに」「場所さえ良ければもっともっと流行って儲かるだろうに」と考える。

しかし、当事者、店のオーナーやシェフ、スタッフはそうは考えていないかもしれない。
「今くらいお金が入ってくるなら問題ない」「別に不満があったり、嫌だったりする客だったら来てもらわなくてもいい」と思っているかもしれない。
実際、メディアや口コミなどをきっかけにして、急にそのレストランが流行ってしまい、却って常連を失ったり、料理の質が落ちたりということでせっかくのバランスが崩れてしまうことは常に可能性としてある。
あるいは、店がそういう遠謀深慮をしていて、うまくコントロールしている結果としての状態が今現在なのかもしれない。
「あまりサービスや立地を改善したり、宣伝をするとかき回されたり、自分たちのペースが乱れてしまうぞ」という風に。

まとめ

かように、ネットワークや情報、評判やそれに伴うブランディングというものは複雑な面がある。
それ自体は本質なのかどうかも定かではない。
しかし、それらをコントロールしたり、主体的に選んだりできるかは別にしても注目はして耳を立てておく必要はある。

2011-08-24 08:00

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