人は歯が痛くなってから歯医者さんに行く

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人がカウンセリングに行こうとするのはどんなときだろうか。

誰かに勧められたとか、上司に指示されてという場合には、自分の意思決定でないということもありうる。
しかし、そうでなければ、クライアント自身が、カウンセリングに行くことを必要または適切だと感じたということだろう。

それでは、何がきっかけとなるのか。
別の言い方をすると、なぜ「今」「このタイミング」でカウンセリングに来たのかという理由があるはずだ。
それを考えるのは、まずはカウンセラーの仕事となり、もしかしたらクライアントとの共同作業の中ではっきり確認されていくかもしれない。

カウンセリングのきっかけを歯のトラブルで例えて考えてみよう。
自分の歯を定期的にキチンとメンテナンスし続けているというのでなければ、潜在的に歯に何らかの不安要素やトラブルを抱えていることはよくある。
だが、人間なかなか腰を上げないものだ。
歯科検診などで、ちょっとした問題を指摘されたり、歯科通院を1回や2回勧められたくらいでは実際に行動はしない。

やはり、人が歯科に行くときというのは、「痛くなってから」というのがどうしても多くなる。
切羽詰らないとアクションを起こせない。
それが、突然に生命に関わるようなものではなく、日常の陰でじわじわと進んでいくような歯のことであればなおさらだ。

カウンセラー目線で行くと、この「なぜ今か」ということを忘れないようにする。
クライアントが、どこから自分の悩みを語りはじめたとしても、それが本当にテーマを適切かつ最短距離で表現しているとは限らない。
カウンセラーは、クライアント本人も気づいていなかったり、無意識下に押し込めてしまっていたりするテーマを、適切に取り扱うことをサポートする。

ただし、私自身でも実感しているのだが、余暇があって、つまりヒマなのでカウンセリングやら自己啓発やらで、自分や生活を見つめなおそうというクライアントも当然いる。
時間と気持ちの余裕ができたのでここらで一つ、歯科にいってひと通り点検してもらっておこうかというような感覚だ。
こうした気軽でカジュアルな通院なりカウンセリングでも、なにかしら問題や適当なテーマ、そしてやるべきことや処置が出てくることは間々あるのだが。

2012-08-31 08:00

惨事対応をチームでする理由

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惨事対応は、多くのケースにおいて、チームで行うことを追求する。
単独で介入することは不可能ではないが、事態やサポート対象人数の規模が当然大きいのが、そもそも惨事という、介入する必然性の高い事象の特徴だからだ。

単独で介入に入ったとしても、個別にカウンセリングのようなツールを使うか、組織の管理者に助言するか、全体に最大公約数的な心理教育と情報提供をするというように基本的な仕事は変わらない。
しかし、これらを十分に効率的に実行して、しかも組織や介入側が割くコストに見合うだけの成果を得るのは、相当に技術と経験がある人間ででも単独では難しい。
そこで、チームでの対応を基本にするわけだ。

ここで「チーム」とは言っているが、2人以上を考えているから、最小限2人でも良いのだ。
時には、最上級に優秀な介入者1人が入るよりも、そこそこの技量・能力の者が2人で仕事をした方が適切ということもありうる。

だいたい、惨事後の組織というものは、活動の均等性が損なわれていることが多い。
活動の均等性というのは、ある箇所では惨事そのものの事態収拾に当たっていて、ある部署は書類や届出、報告などの事務作業に追われ、マネジメントは組織事業の継続に頭を悩ませ、現場のそれぞれは情報の不足や自身と家族の今後に不安をつのらせているというような状態のことだ。
これらが、平常業務の中でのことであれば、あらかじめある程度の物理的・組織的・心理的な準備と了解があるから、それが実際の問題として表面化することは少ない。

だが、惨事という予想外のこと、あるいは想定の範囲外の出来事に対しては、活動の均等性というものがオーバーフローしている。
と言うか、安定の限界を突破してしまった状態というのが、そもそもの「災害」だとか「惨事」というものの定義なのだから、これは誰とか何とかが悪いというのでなく、当たり前のことなのだ。

そうした場へのサポートするには、どうしても同時に複数箇所での仕事が必要になってくる。
そのために「チーム対応」という戦法を用いる。

数は力だ。
質を凌駕する。

明日は、チーム構成やメンバー内の連携、平常の準備について書いてみる。

2012-08-30 09:00

惨事対処に関わるための知見準備

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結局答えは現場にあるし、現場からしか学べないのだけども、今の自分には、自分の知識や技術のうち、どの部分が直に教わったもので、どれを現場で悟り、何を本などで学習したのか定かではない。

これから、惨事ポストベンションや、トラウマケアなどを現場でやっていこうという人に、自分が一から責任を持って教えることはできるが、どこから始めていいかやはり確とは言えない不十分さと、前提やベース、共通認識として持っておける何かを少しは欲しいと思ってしまう。

そこで以下に紹介する一般書は一読を奨めておこう。

緊急事態ストレス・PTSD対応マニュアル―危機介入技法としてのディブリーフィング
ジェフリー・T. ミッチェル ジョージ・S. エヴァリー
金剛出版
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→ 惨事ケアの草分け的なミッチェル氏自身がディブリーフィングというツールの有効性を今現在は主張しないようだという言葉を聞くことはある。しかし、現場に近い感覚や意見から考えれば、あらためて検証・検討する意義がある。そうした対応についてはさておき、緊急事態ストレスというものの概観を知るために、共通のスタート地点として多くの事例や知見が含まれている

惨事ストレスへのケア
惨事ストレスへのケア

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松井 豊
ブレーン出版
売り上げランキング: 783880

→ 著者が現場と研究の両者を知っている。そうした学者は、どんな分野でもいてほしいものだが実際にはまれ

消防士を救え!―災害救援者のための惨事ストレス対策講座
加藤 寛
東京法令出版
売り上げランキング: 360283

→ こちらも複数の惨事現場にケアと研究の両面で入った経験をもとに記されたもの

まとめ

紹介した本の内容は、主張として必ずしも一致していないものもある。特にディブリーフィングについては。
しかし、それこそ「現場」や、臨床心理というものの難しさ、というか正体の一面だろう。
個別一般のカウンセリングでの対応に、正解というものを見出しにくいのと同じで。

あとは、読んだものを比較しながら、さらに細かな情報や文献・論文などを探していくと良い。
その際、今の時期(さらに今後)であれば、東日本大震災や福島原発事故に関連した報告類が目立つかもしれない。
それらは興味深いし参考になるが、十分な集積や検証を経ているかに注意する。
その点からは過去の情報に立ち返る方が有効と思う。

2012-08-29 07:00

(関連エントリ)

デブリーフィングとフグ | deathhacks

自殺・事故後ポストベンション活動の紹介 その1 | deathhacks

「生きる」ことだけが自由。ただし保証なし

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「生まれる」ことと「死ぬ」ことに自由や選択はない。
他人や社会や物理・化学・生物についての法則が決める。

「生きる」ことにしか自由がない。

ただし、「生きる」こと、そしてその自由は保証されているものでもない。
それが権利と認識されたのも最近だ。

もしも生きることがダメになったときに文句を言ってもそれでは済まない。
保険や保障をもらえば回復できるかと言えばそうではない。

2012-08-28 08:00

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グループミーティングでのファシリテートのコツ その1

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一応、でも参加者皆に振って意見を求める。
人数が多過ぎれば難しいが。

いちいち振る。
表情や態度を見て、意見が出そうか、ありそうかを見抜くのは難しい。
ので、諦める。

基本の流れは、

個人 → 全体または全員 → 個人(意見を聞いた中から抜粋して要約と確認) → 再び全体または全員 → (以降繰り返す)

となる。

ファシリテーターは意見や感想を述べたり、まとめたりする必要はない。
ただし、個人に振る順番や振り方そのもの、どの部分を抜粋するかなどにメッセージがこもるから、そこは勝負になる。

2012-08-27 09:00

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自分の師匠の技術を直見しなくて信じられるか

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あなたは自分の師匠のカウンセリングを見たことがあるだろうか。

数回の陪席や、研修での指導、グループや個人でのスーパービジョンなどを見たことくらいはあるかもしれない。
しかし、それだけで実力を信じて、自分の今後の足しにする決心をしてもいいものだろうか。

もちろん、「少なくとも今は自分の成長の役に立っていると思うし……」「将来ずっと教わるかはわからないし」という一時的な契約のような感覚だというのかもしれない。
だが、その感覚だけで現状に留まり安心してしまっていいのか。

常にモデリングの対象は探し続けなくてはいけないし、見続けなくてはいけないし、自分に合わせて変えたり混ぜあわせたりしていかなくてはいけない。

ロールプレイトレーニングなどで、自分の技術や思考のチェックを受けるだけでは物足りなくないか。
やはり、他人の、至高の、勉強になるケースやテクニックを再現性をなんとか持たせて身につけたい。

師匠が、自分でモデリングをしなくなったり、見せなくなったりしたら終わりだと思う。
予定調和的な継続ケースの陪席を多少しても得るものは少ない。
うまくいったケースや後からいくらでもつじつま合わせのできる事後検討会やレビューにどれだけ価値があるかはわからない。

結局自分自身でいかに今、あるいは次回に再現性や技術の向上を、ひいてはクライアントのメリットが増やせるかが勝負だ。

批判や、助言をもらったり、評論してもらうことはためになる。
しかし、それ一辺倒では無理がある。

プロ野球のものであっても、選手のプレーを素人がビール片手に、あーでもないこーでもないと偉そうに解説することはは決しておかしなことではないが、それにどれだけ真実性や科学性、有用性があるかは疑問だ。
自分と指導者の関係がそんな風になってはいないか、本当に意味のある助言をもらえているのかは考えなくてはいけない。

2012-08-26 09:00

学習していて毎回目からウロコを落としていたらヤバい

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エライ人の言うことはたいてい同じことの繰り返しだ。
でも、面白くてためになる。

なぜ、聞いて、学習しようとしているこちらが、そう感じるのか。

それは、聞いている自分たちが繰り返し何回も聞いているにも関わらず変わっていないから。
だから、同じことを聞いても毎度毎度「なるほど~」「へ~」などと感心してしまう。

これが娯楽なら別に構わない。
落語やお笑いネタの同じものを何回も繰り返し鑑賞するとかいうのならば「アリ」だ。

しかし、カウンセリングや精神分析などを業としてやっていくのに学んでいて、毎回教わったことに感心しているようでは「ヤバい」。
成長していない、学習していないということかもしれない。

新鮮に、発見して、深く腑に落ちるのは、願わくば現場のクライアントとのセッションでのみにしたいものだ。

2012-08-25 08:00

臨床心理を勉強する入りの難しさ

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心理学や臨床心理を勉強したいとか仕事にしたいというからには、何らかのきっかけや動機があるはずだ。

その動機などの性質は大きく分けて2種類になる。
その人自身が健全な状態から入っていくのと、不健全な状態を体験するなどして入るのと、だ。

健全から入っていくと、

  • 他人を無遠慮に分析し過ぎ、介入がオーバーになる
  • クライアントに対して、共感できない、しにくい
  • 自己分析の有効性、有益性、必要性、モチベーションに気づきにくい、または実感しにくい

などの問題がある。

また、不健全から入ったならば、

  • まだ、自身が十分に健全ではないのに、クライアントを持ち、介入・処置・操作・教育などをして失敗する
  • 逆転移や共依存などに近づきやすい。知識として知っていても、自分の傾向やその状態に気づかなかったりする

ということが生じる確率が高い。

現実やその良否の判断はさてあれ、自己分析と他者分析をバランス良く保ち続けるのは、趣味としてであれ、業としてであれ、トレーニングとしてであれ。難しい。

2012-08-24 08:00

テロリストは狂人ではない

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テロリストを狂人であると考えて、こちらが思考停止してしまうと負ける。
テロリストを狂人であると考えると、知能や教育の高さの認識を誤る可能性が高くなる。

それでも近年はオウム真理教やら、テレビドラマの『24』やら、9・11米国同時多発テロやらの結果として、テロリストが決してむやみやたらに考えなしにやってくるのではなく、知能的・組織的に攻撃をしてくるのだというイメージが増えた。

相手が正常な行動を取りうる、と考えるのは大事なことだ。
むしろ、その方が当然である。
時に対応のシミュレーションの特に細かなところで相手の行動を予測し損なうのは、稀な可能性や行動を考えすぎてしまうからだ。
それによって自滅的な失敗をしてしまうことは少なくない。

また逆に、無意識に自分たちの対応コストを下げたいがためにテロリストが「正常な」行動を取らないことを期待してしまう場合もある。

テロリストだって、結局ただの人間だ。
テロリストにだって家族がいるし、ケータイや WinPC や iPhone、iPad を使う。
夜は眠るし、何らかの収入源を持っている。
食べなければ腹が空く。
悩みや不安を持っている。

そんな当たり前のことを否定してはいけない。

2012-08-23 08:00

臨死体験はある

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臨死体験というやつがある。

肉体的に死にかけて、その後運良く生還したときに、自分の身体や周りのことを客観的に見ていたと語ったり、親しい人にお別れをしに行っていたというような体験があったりするものだ。

これは実際に起こりうる。

お別れしに行った感覚が死にかけた人にあり、相手の知人がたまたま臨死の人のことを想起する。
この2つがほぼ同じ時期に起きれば、臨死体験という「奇跡」が成立する。

あとは、確率の問題だ。
人間は無数にいるし、日々何らかの事故や死に近づく出来事というものは起きている。
臨死体験のチャンスは無数にあり、その中でたった1回でも生じれば奇跡になる。

さらにそれら一連の出来事に、良いでも悪いでも構わないが、感情や文脈が少しでも存在して補強されると、全体のリアリティを強化する。

心理学上の共時性にも近い論理があるのかもしれない。

これは、体験や奇跡が間違いだとか嘘だという事ではない。
最終的に科学的に語ることができないのならば、あとは選択の問題だし、どんな物語にするかはその人間が決めることができるのだから。

2012-08-22 08:00