うつが治ると性格が変わったように感じるのは多分違う

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周りから見たらそう見えるかもしれないが、環境が変わったor変えたことによって(あるいは当人の認知する世界が変わることにより)元々ある性質が表出するようになるのだと思うのです。
おそらくうつになっているときの方が本来の自分でない別人だととらえた方が良いでしょう。

2010-09-30 17:00

裁くとか、監査とか、善悪とかって別に上下関係ではないだろう

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裁く側が偉いというわけではないはずです。
監査や第三者委員会、部外取締役やらはとりたてて尊い仕事ではありません。
物事の善悪や正義と邪悪なども、勘違いしてしまいますが、どちらが優位であるとか断定できるものではありません。

では何かと言われれば、それらは「役割」くらいにしか呼べないのでしょう。
その良い悪いは絶対的なものではありません。
そこには必ず人間や社会の道徳観や倫理、感情などが加味された評価がなされているからです。
つまり不変かつ普遍なものではないでしょう。
人間の感情も社会も不安定で揺らいでいるものだからです。

裁き、善悪などにはその時々でせいぜい強いか弱いかという結果があり、残るだけです。

そこに権力や圧力、引け目や恐怖などを感じたり感じさせられたりするのはなぜでしょう。
なぜか、は簡単に語れません。
それは正に「感じている」だけだからです。
例えば権力ならば、それを持つ側、行使される側の感情による部分がほとんどなのです。

2010-09-29 06:00

部外力を重用する空気

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何か少しでも特殊な業務を新たに始めようとするとき、多くの組織で部外から専門家や権威を持ってきます。
しかしその実力を前もって確認したり、成果や効果をキチンと評価することは少ないのです。

特殊性がある業務には医療やメンタルヘルスなどが挙げられます。
組織でなくても、例えば医療においては欧米で研究・開発・普及した技術や商品をそのまま日本国内に持ってきて前後の検証をしないままに標準化する場合があります。
薬剤や救急技法、AEDなどにはそういった要素が見られます。

ある問題に対してアクションが業務上、組織上必要であるが、その内実よりもまずは「何か手を打った」「努力している」ことが重視されるとき、部外力の利用は適切なのでしょう。

・専門的かつ部外力であればネームバリューさえあれば適任・適性であるかは厳しく問われない
・部内力を使ったり、部内で能力者や機能を育成するよりもコストやリスクが低い。その仕事を継続的な事業にする見積もりが(まだ)なかったり、やる気が実はなかったりする
・部外力であれば結果責任を問われることがないか、厳しくない。その委託相手を切る、担当者の一部に責任を負わせれば、組織全体としては安全である

結局、その仕事や事業が何であれ、既に組織内にある資源を利用できないかを考えたり、適時に事業の重要性や継続性を検討・判断したり、適正な結果評価をしたりするという当たり前のことをできるかという問題です。

2010-09-28 07:00

ブログとTwitterを名刺代わりに

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WordPressというシステムを使ってこのブログを書いています。
しかし今やブログか日記かホームページかなどの分類はあまり重要ではなくなっているでしょう。
書いている人がどんな目的で書いているのか、何のための手段だと考えているかがそのブログ(など)の本質でしょう。
さらには実は書き手がどう思い考えていようが見にきた人、読み手の受け取り方が世界としてはすべてです。
それは理解と誤解そして無関心が入り混じった思念や評価です。

幸いに半年ほどほぼ毎日エントリを書いてくることができています。
おもにカウンセリングやメンタルヘルス、そして知的生産や教育そして人生観などにテーマを絞って書いています。
絞って、と言いつつも他人が見れば散漫に見えるかもしれず。
途中からは写真家として自分で撮った写真をエントリのテーマとは関係なく挿れています。
今のところ訪れる人は1日に10〜20人くらい。
ホンの少しの固定読者を想定して書いているので今はPVにこだわれないのです。

せいぜい1000字くらいまでのエントリでも半年も書けば自分の分身になっていると思います。
思想・思考・内面としてはブログ、行動や生活の開示としてはTwitter。
出せるものはだいぶん出しています。
書き手と読み手双方のコストを最小限にして名刺代わりのアピールになっているのではないでしょうか。
本を1冊2冊と書いて出版するということが知識人、思想家などにとっての名刺代わりになるということはあるのですが私としては現在のところWebを利用・模索しています。

2010-09-27 06:00

人間関係は変わるもの、変わるべし

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人間関係は時とともに変わっていくもののはずです。
しかし、人間は想像できる以上に過去の関係、蓄積した認識を引きずります。
それは、子が親の年齢を抜かすことはないというように、年齢というようなある一つのことを絶対的基準にしていることと同じです。
ベジータがいったん最強になったように見えてもその間に孫悟空はさらに強くなっていてその差が変わらない、というような等距離関係は漫画的で現実的ではありません。
決してその基準を使うことが間違いということではないのですが、一つの基準や価値観に縛られるとトラブルの基になったり、苦しみの原因になることは多いものです。

実際に、子が成長していき、ある時点からは親の肉体や精神の衰えが始まり、社会の変化ともあいまって、様々な場面で子が親よりも優位になることは生物的にみても自然であり、時間的な運命・必然です。
それをいつまでも親が子を心配したり、過小評価したりしていれば、子が劣等感に苦しんだり、親が不安を抱えたままという関係が続きます。
いつか親は死にますし、子は親を離れることが多いことを考えれば、関係を続けること以外の選択肢を知らないことは危険でしょう。

いじめられっ子がいじめっ子を見返すことがあるかもしれませんが、過去の関係がトラウマとして一人の時でも、あるいはいじめっ子と再会してよみがえり苦しむかもしれません。
うつの経験者の落ち込みや回復、リハビリなどに接したカウンセラーや周囲の人は、その人が過去のイメージと離れたいと感じているのに、外部環境・客観としてイメージをよみがえらせるような言動、関係を保ってしまうこともよくあります。
カウンセリングやメンタルヘルスの教育でも、当初は教え、教えられる立場だった関係が、教えられる側が現場を経験することなどによって飛躍的に悟り、技術・知識としていつまでも昔のような師弟関係ではなくなる場合もあります。

社会の変化速度が速くなっていることも関係するのでしょう。
ノウハウさえあれば、新人でも素晴らしいスピードで学ぶことができる分野や内容が増えました。
そこは世代の違いが以前ほど実力の違いに結びつかない世界です。
それを認めないと互いに苦しい人間関係が生じます。

2010-09-26 07:00

人間はとことん自分に都合がいいように補間するなぁ

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人間は自分に都合が悪いエピソード、責められたエピソードに出会っても、ほとんどの場合は「良い解釈」「都合のいい情報」を探し出します。
それはすぐに見つかることもあれば、時間がかかることもあります。
そういうときの視点は自分に都合がいいことしか目に入らない、かなりバイアスのかかった状態です。
それを自分一人で補正して客観的に評価すること、定量的になんらかの判定をすることは至難の業です。
いいえ、不可能だと思っていた方がいいくらいです。

人間が困難やトラブルにあって、相手や状況自体を変えられないときの対処には「記憶の操作」があります。
時間が経つと、自分に都合のいいように記憶や印象を変えてしまう性質が人間にはあります。
「忘れる」ということもその中に含められます。
なかったことにする、というのは最強のストレス回避方法であることが多いでしょう。

あとはその狭間や記憶のトラブル、事態そのものの衝撃の大きさによっては《頻度としては少ないながら》、ASDやPTSD、解離性障害、引きこもりなどが生じてきます。

2010-09-25 08:00

第1印象、第2印象なんていいかげんなもの

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会った人に好感を持つか否かは2秒で決まると言います。

採用は2秒で決まる – Google 検索

会った人すべてと、時間をかけて語り合ったり、知り合ったりすることはできませんから、もしも相手が自分に悪い印象を持ったり、関心を持ってもらえなかったりしても、後から好かれる機会を挽回することは難しくなります。

教育やカウンセリングの場で、フィードバックのコメントやちょっとしたアドバイスをするのに「いかにももっともらしそうなこと」を言っても、その背景に考察や経験などが無ければ、聞き手やクライアントは案外敏感に感じ取り、実力を嗅ぎとってしまうものです。
そういったたった一言かつ短時間でも、まぐれや偶然が実はない真剣勝負もしくは決闘「的」な場面は、気づきにくいながら実は日常にも多くあります。

2010-09-24 07:00

(関連エントリ)

ちょっとしたコメントが教育者の評価を決める | deathhacks

いろいろ協力したいがバランスがとれない

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自己実現や利己の感覚が捨てきれない。
楽しくない、自分に負担がかかって、しかも別に評価されないこととかまっぴら。

ギブアンドテイクの精神とか、情報は発信する人のところに集まってくる法則とかのイメージはあるのに。

2010-09-23 08:00

カウンセリングでもグループトレーニングでも言語化は大事です

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グループでカウンセリングやグループミーティングの練習をしていて、お互いの振り返り、自分が発するフィードバックなどにおいて、思考や気持ちを言葉に落とし込んで伝えることが、皆自分が思っているほどはできていないことに気づきます。
日常会話の中や、普段、われわれが支障なくコミュニケーションが取れているように思っていること(の多く)は錯覚なのでしょう。
あいまいな部分はきっと勝手に推測・補間しているのです。

「好き」と言うだけが「好き」を伝える手段ではない | deathhacks で書いたことも正しいのですが、レストランに行って黙って座っていても永久に食べたい料理は出てきません。
はっきりと声に出して注文しなければいけませんし、ハンバーグが食べたいのに「カレーライス」と言ってしまったら、カレーが出てくるはずです。
これは喩えではありますが、世の中には声に出して注文してもいないのに自分が食べたい料理が出てこないことに文句を言ったり、悩んでしまっていたりする人が多くいます。

カウンセリングなどを教えたり、突き詰めたりするためには学問として言語化、体系化をしなくては不可能です。
言語化をうまくしたり、表現力を鍛えるには練習しかありません。
しかし、これはキチンと練習すれば上達する「技術」です。

上達するためのトレーニングはいくつもあります。
日記を書くこと、ノートを取ることなどによって自分の気持ちや考えを言葉に落とし込む、外部化・客観化してあらためて見直すのも良いでしょう。
教育の中で議論やフィードバックをするときに言葉の一つ一つに気を使う、あいまいな表現になっていないか、相手と認識が近くなっているか、同じ言葉なのに認識が違っていないか注意を払うなど、意識をすることによって感覚が研ぎ澄まされ、技術上達の機会になる場面は多くあります。

2010-09-21 07:00