図書館通勤と復職の隔たり

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うつの休養・休職からの復帰で、段階的な回復の確認と慣らしを兼ねて、「図書館通勤」が奨められることがよくある。
図書館に限らないが、自宅などでのほぼ完全な休養から、会社への復職の前段階として、どこか環境的・地理的な中間地点を見繕い、数日から2、3週間そこへ「通勤」し過ごしてみる。

現場ではとても良い感触が得られていたり、好事例が積み上がっていたりするからなのか、図書館通勤は言葉と仕組みとしてメジャーになっているようだ。
しかし、こうしたリハビリ段階と実際の復職復帰との違いは本人と周囲は理解しておく方が良い。

違いとは、量的でもあるし質的なものでもある。
特にその質的なものに注意する。

職場への復帰は、もしも最低限度の業務からの再始動、さらに自席に座っているだけという条件でも図書館通勤とは比べものにならないほど当人は疲れるだろう。
それはなぜかと言えば、一番の疲労の原因は、仕事そのものから来る肉体的・頭脳的労働に依るのではなく、人間関係によるストレスだからだ。

様々なアンケートや調査でも、仕事の負荷が単独でうつやストレスにはつながっていない。
期待されるレベルに達しないとか、評価されないとか、周りからまったく助けが得られないなど、結局は人間関係を通した精神的負担がストレスの主原因であったり、体調を崩すきっかけとなっていることがほとんどであることは理解されていると思う。
このことはうつからの復帰においても変わるわけではない。

だから、いくら図書館出勤などがうまくいっていたとしても、実際の復職や出勤の段階で、また別次元のように感じられ、ドッと疲れることを知っておくこと。
もちろんこうした警鐘は却って不安を増やすだけであるかもしれないから、個別の対応はそれぞれだ。
適切に本人や、人事、上司などに情報提供するポイントの一つになっている。

2012-09-06 13:00

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オリンピック競技と惨事ストレスとレジリエンス

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惨事における心理面の対応に携わってきて、このブログでも書いてきている。

惨事対応をチームでする理由 | deathhacks

惨事へのサポートケア焦点 その1 | deathhacks

惨事へのサポートケア焦点 その2 | deathhacks

惨事介入現場では惨事以外も扱う | deathhacks

惨事介入の注目点 | deathhacks

うつと惨事は切り離して考えられない | deathhacks

ライフイベントや惨事が一段落した瞬間が一番疲労している | deathhacks

ショックな出来事に対処するために持つべきは「意識」と「知識」と「儀式」 | deathhacks

DEATH NOTIFICATION | deathhacks

その他エントリ

当ブログ内をキーワード「惨事」でGoogle 検索

惨事やそれへの対応というものを考えてもらっても、どうも敷居が高く、急いで自分に関係するものではないと感じる人が多い。
最近の世の中で起きた大事故や災害などによって、一般個人の関心や準備意識は高くなってはいるが、どうしても「大事であるのはわかっているが正直、日常生活を送るので精一杯だ」とか「専門家や資格のある人に教えてもらわないと実践は難しいだろう」とか言うように実際の行動に結びつかない。
まだまだ惨事を「自らとは遠くて縁がないもの」としか思えないのだろうがそうではない。

今年(2012年)のロンドンオリンピックでも惨事のヒントやイメージは数多く存在している。
惨事の定義にも依るのだが、我々は生命に関わるような事故やテロリズムのようなものでなくても、出来事を体験した者が惨事「反応」を起こすことを知っているし、それらの解釈・説明や対応を直接にしたりノウハウを教えたりすることをしてきている。

その文脈で言うと、以下のWeb上コラムなどで取り上げられている男子体操、内村航平選手の競技で起きた落下やその結果成績については、正に「惨事」として我々が扱ってきたことと違わない。

オリンピックメダリストにみる「しなやかな軌道修正力」 – 2012年8月24日 – 職場のメンタルヘルス・EAP・研修 ピースマインド・イープ株式会社

メダル級の演技をして結果を出すという期待とプレッシャーが、周囲からも自分自身からも極限まで高まっている状況での、落下やミスで内村選手に起きていたことはどういったことだったろうか。

ドキドキしたり、冷や汗をかいたり、頭が真っ白になってしまったり、競技が終わって次の行動や準備をしなくてはいけなくなってもミスやその嫌なイメージが浮かんでしまったり。
実際にどうだったのかは本人にしかわからないが、一部の感覚は内村選手本人も振り返ったりインタビューで答えていたりする通り、色々な身体的・心理的な反応が起きていたのだろう。
上に想像したような反応で、「ドキドキ」や「冷や汗」は過覚醒であり、「頭が真っ白」は麻痺・回避、「ミスしたイメージを思い浮かべてしまう」のは侵入だと言える。
すべて惨事に対する反応、ASR(急性ストレス反応)やASD(急性ストレス障害)としても矛盾しない。

オリンピック競技やスポーツでの競技者に起こることは誰にとっても特別なものではないことは理解できるだろう。
それらに参加しない人だって、日常生活の大事な場面で失敗をしたり(寝坊して大切な約束の時間に遅刻するとか)、仕事で期待された結果を出せなかったりすることはある。
そのときやその後に「ドキドキ」や「真っ白」、「忘れらない」という感覚や経験をするのは当然と言えるくらいのことだ。

惨事やそれへの自分の反応について知っておき、準備をしておいたり、いざというときに自分を少しでも客観的に観察したり、ショックな出来事の後にできることを考えたりするのはぜひに勧められることだ。
このように考えると最近の心理研究やビジネススキルアップなどの分野で取り上げられる「レジリエンス」というキーワードに加え、「惨事反応」やそのサポートというもののより有効なとらえ方が見えてくる。

2012-09-01 10:00

※筆者小片武はピースマインド・イープ株式会社 http://www.peacemind-jeap.co.jp/ にて非常勤勤務している

ショックな出来事に対処するために持つべきは「意識」と「知識」と「儀式」

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惨事の衝撃は時に甚大だ。

私たちが現場で介入サポートをするのは、問題や悩み、悲しみを解消してゼロにするためではない。
そもそもそれは不可能だ。

出来事によるショックは人によって違うし、そこから回復するペースもまたそれぞれだ。
サポートにはそうした回復を、可能な限り妨げないようにしたり、自然な回復を待つのが得策ではなくなっているような特別な状況・事情を察知してフォローアップしたりするためのコツを個人や集団に残すことも含まれる。

コツを簡単にまとめて言うと「意識」と「知識」それに「儀式」の3つだ。

自分を観察して、状態を「意識」する

自分の気持ちや体調を、できるだけ客観的に評価してみるのは大事なことだ。
特に日常ではない、ショックなことが起きたあとしばらくは。

ビックリしているのも、頭が真っ白になってうまく考えが進まないということはある程度仕方がない。
現状をそのままに受け入れることは、打ち負かされることとは違う。

怒りやイライラだって、闇雲に抑えるのがベストとは限らない。
実害を自分や他人に与えることさえ避ければ、感情を多少外に出して表現することは許される。

自分や周りを観察して、変化を意識し、1週間や1ヶ月くらいの間で比べてみることは直接・間接に、衝撃による反応から日常への回復を助ける。

ショックな出来事によって起きる反応を「知識」として持つ

反応を意識するとは言っても、それだけではなかなか自分の立ち位置や状態についての不安はなくならない。

一般論であるにしても、反応や回復の標準的な様子や経過を知っておくのは、精神的な安定を得るためにはとても有効だ。

人間はごく短期間の未来であっても、予想ができない事柄については大きな不安を感じる。
逆に、数ヶ月先までの、そして多少ネガティブな状況であっても、ある程度根拠を持った予測があれば、なんとか安心して持ちこたえられる。

また、平常うまくいっているときに、こういったピンチのときの反応や対処を積極的に知ろうとは思いにくい。
必要に迫られたときこそ、現実に役立つ知識を仕入れる絶好・最適の機会になる。

現実的なツールとしての「儀式」を持つ

意識や知識は、それ自体目に見えたり、直接に自分を助けてくれるものではない。

意識・知識は大事だが、それをベースとした上での具体的なツールがあることで実際にサバイブする確率が大きく変わってくる。

とは言っても身構えすぎて考える必要はない。
ちょっとした「儀式」を困ったときこそ探してみる、または平和な日常のうちに手に入れておいて小さなピンチのときに試しておけば良い。

儀式は、呼吸法(腹式呼吸でも、数えるだけでも)やストレッチ、お祈り、メモや手紙を書くこと、静かに周りの音や空気・温度を感じてみる、散歩する、などなどなんでも良い。
「これをやってみたら?」と勧められても、結局自分にそれが合うかは人によってバラバラだ。
自分の感覚を信じることと色々試してみるしかない。
そうして試行錯誤してみること自体、突き詰めすぎなければ癒しにもなる。

ここでの儀式・ストレス解消法は、それだけですべての不安やトラブルが解消するというような完璧・万能なものでない方がかえって良いかもしれない。
その代わり、本当に身近で、コストをかけずにいつでも繰り返せるようなものがいい。
1つでも2つでもこうしたツールをお守り代わりに持っているかいないかは、個人毎ストレスへの対応力の大きな違いになる。

2011-05-18 08:00

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ライフイベントや惨事が一段落した瞬間が一番疲労している

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結婚や引越し、昇任や異動、転職などのライフイベントは、それに対する感情や受け止め方が、良いものであれ、悪いものであれ、ストレスや疲労の原因になる。
もちろん適度な刺激やストレスは必要だし、そもそも生きて生活していくこと自体がストレスなのだ。
しかし、その程度がとても大きかったり、いくつかのイベント、公私のイベントなどが一時期に集中すると、体調や精神面に不調をきたす確率が高くなる。

疲労が蓄積したことがうつの原因になる場合、この原因と結果の関係が時間上数ヶ月単位でずれることには注意しなくてはいけない。
イベントなどによる疲労はそれが終わった瞬間がピークである。
もしもその疲労レベルが数日や数週間の休息によって回復するくらいのものでなかった場合、その状態から元の日常生活を再開することになる。
そして、その日常生活ですら疲労の合計をさらに増やしていく場合がある。

周りの人から見て、「ああ、なんとか落ち着いて良かったですね」「肩の荷が下りたようだから、ここから本格的に活動して欲しいな」「一番大変な時期は乗り越えた」と思える。
本人もそう思っている。
しかし、そこから何かしらの変調が起き始めても、時期が1ヶ月や2ヶ月ずれてしまうと、多くの人間にはその因果関係が見えにくく、理解しづらくなってしまうのだ。

これは惨事についてもそうだ。
震災のような極大な出来事であれば、回復にまで時間がかかることも腑に落ちるかもしれない。
だが、人の死や失敗、失恋など、様々なレベルの惨事とそれに対する人それぞれの価値観というものがある。
その感覚のずれはしばしば、誤解や非難につながる。

このように、うつや惨事における心理や反応、遠目近目両方の見方や視野を得るには専門家の支援があると良い。

2012-03-06 08:00

現場での余計なひとことについて考える

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自分は臨床を離れた医者だが、クライアント対応するときのワーカー側の心理について一思案。

やってしまいがちなことは「余計なひとこと」を言ってしまうというもの。
この「余計なひとこと」というのは別に、失礼な言葉とか尋ねてはいけない質問、人格などに対する非難というまでの意味ではない。
(こうした内容についても絶対的な基準があるわけではなく、判断は難しいと思うのだが)

例えば「今日はいい天気ですね」とか「普段何か運動はされていますか」とかいうようなたわいもない、日常会話的なものだ。

私は経験的には何回か、直接的には医療や臨床に直接には関係ないテーマの言葉や質問を発したことがある。
大事なことは私がそうした理由だ。

特に何も意図がなく、本当に無意識に近くしゃべっていたこともあるが、ほとんどの場合には理由があった(のではないかと振り返って考える)

一つにはクライアントのため。
面接というか会話の中、場で緊張や不安が見て取れる、もしくはありそうな人に対して、ごくごく日常的な話をしてリラックスしやすくしてみる。

もう一つは私の方が緊張していたり不安があったりする場合の対処としての言葉だったりする。
実際、いつでも、どんなクライアントに対していても、当然ルーチンの状況や問題ばかりではない。
医療であればその内容の9割方は「好ましくないもの」であるのはしかたのないことだ。
だから余程慣れた状況であったとしても仕事としてプロとして緊張するし緊張感を持っていることになる。

ただし、こうした会話については、最初に書いたように「余計な」を付けているのは、結局のところ全体でみればメリットよりもデメリットの方が多いのではないか。

クライアントの緊張をほぐそうとすることは悪いことではないが、予想や一般的な情報から外れることにもなるから、かえって違和感や別の緊張を生み出すことがある。
場合によっては、その会話や質問の意図を深読みさせることにもなる。

ワーカー側の不安を減らすための会話を挟むという面でみても、たいして時間稼ぎにもならないし、クライアントのリアクションに左右される部分が半分ある。
静的に観察して得られる情報だけでなく、リアクションを出してもらい新たな情報を増やそうとする、アクティブなソナーとしての試みだとするならば価値はゼロではない。

あと考えられるとすれば「ワーカー側が気を使って配慮しているということをクライアントに感じてもらい好意的に受け取ってもらう」というようなややこしい効果を狙ってか。
しかし、ここまで複雑にするのは、やりすぎの場面が多そうだ。

クライアントが余計に緊張したり、戸惑ってしまったりする結果となってしまったのに、「自分は良かれと思ってしたのだ」という思いだけが先行してしまったり、さらにその状況を悪い方向に広げたり強めてしまったりということは避けられなくてはいけない。

自分、クライアントの発した言葉やメッセージのすべてについて、その意味や効果などをできるかぎり説明する、一方で全体の流れというものも重視するという二面的な観点が必要だ。
これは正に心理カウンセリング的な視点と重なるだろう。

2012-02-09 09:00

管理職がストレスに強いか弱いか、有利か不利か

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組織や社会での業務上、あるいは役割の違いによって、人が感じるストレスや負担は異なる。
引いてはからだやこころに表れる反応も違ってくる。

ただし、「管理職」などの役割とは言ってもその環境や実際は現場によって様々だ。

立場によるストレスの違いに関しての研究や考察を2つ紹介しておく。

■引用その1

重い症状が遷延化したと考えられる「6.遷延群」には火災現場で中間管理的な責任を負う「消防隊長」が多く、人員交代がない現場で長時間労働し、身体への危険を感じるような劣悪な作業環境であったことに、管理職としての責任を感じている可能性が示唆された。

 - 消防職員における遅発性の惨事ストレスの分析,松井、畑中、丸山,対人社会心理学研究 (11),2011-03,p47(大阪大学学術成果リポジトリ

■引用その2

その意味で、一般的には兵士より指揮官のほうがストレスに強い。常に「次に兵士になにを指示するか」を考えているせいだ。

 - 平常心を鍛える、下園壮太、講談社+α新書、2011、p47

2011-12-03 11:00

ASD、PTSDにおける回避と麻痺の背景は同じ

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ASDやPTSDの症状には、侵入(再体験、フラッシュバック)、回避(麻痺)、過覚醒がある。

この内、麻痺(感情鈍麻、離人感)は惨事に遭った直後に目立つ。
パニックになってしまうような事態、知己の死や自分の生命の危機などに出逢っているのに、その感覚が鈍かったり、意外と冷静に行動できたりしてしまうことを指す。
これは、あまりに大きなストレスを普段の人間の感覚のレベルで受け止めてしまうと、それだけで回復不能なダメージを受けることなってしまうことに対する防衛本能と言える。

回避は、体験した惨事に関連する場所や行動、人などを意識的あるいは無意識的に避ける行動を取ることを指す。
事故の起きた場所に近づけない(近づけないと実際上は困るとか、避ける必要がないのを頭ではわかっているのになど)、仲直りしたのにもうその人と会うことができないなどと状態になる。
これを麻痺とは別物として考えることもあるが、最初まとめて書いたように「回避」のバリエーションに含めることができる。

麻痺も回避も危険(の可能性)から自身を守るための本能が、過剰にあるいは不適切に動いてしまっている状態だ。
麻痺は受け手側のセンサーの感度や処理を鈍らせている。
一方、回避は行動面に影響を与えてストレスを受けるリスクを減らすように仕向ける。
どちらも効果としては似たようなものだ。

PTSDの症状では「侵入、回避、過覚醒」という並びで文脈に出てくることが多い。
しかし、侵入、過覚醒が、当事者の内面や感覚に現れる症状だととらえると、むしろ「侵入、麻痺、過覚醒」というように並べて、麻痺の行動についてのバリエーションとして回避を位置付けた方が適当だろう。

2011-07-02 06:00

惨事ストレスと心理的対処の基本的な考え方(メモ)

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災害でストレスを感じるのは当たり前の反応

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防衛反応は当たり前の反応だが、強すぎると心身を痛める、または長く続きすぎる

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※今朝はメモの画像で省力エントリ。そのうちテキストに書き起こすけど。

※文字がブレてるのは乗り物(新幹線)移動中に書いてたから。これでもだいぶ頑張って丁寧に書いた。

2011-05-12 06:00

《予備画像 width:640px》

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話すこと、書くことによるストレス対処について考える

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悩んでいるときや惨事ストレスを受けているときに、クライアントに勧める対処として「話すこと」「書くこと」が挙げられる。

「書くこと」によってストレスなどが軽減する(可能性がある)理由について、「記録をしたから、そのことを忘れてもいいのだと認識するのだ」という説明をする人もいるが、ちょっと今一歩、論理性を感じられないので私個人の好みには合わない。
「話すこと」も、他人に自分や事象の情報を伝えたことによって、実質とは異なったとしても責任の分散が図れる、と言うかもしれないが同様に感じる。
違和感がある。

私としては「話すこと」「書くこと」による心理面への効果は「抽象化」による部分が大きいと思っている。
ある悩みやトラブル、惨事などを、生(なま)のままで心配したり、反芻して考え続けることは、時としてかなり苦しく、人間を疲労させる。
「抽象化」というのは、その事象から部分を抜き出して扱う手法である。
ダウンサイジングと言っても良い。
全体を(無謀に)扱うのではなく、まず手を出せそうな部分を抽出してみたり、過去の自他の経験などを利用してうまくマネジ manage する可能性を探していくことになる。

このとき、話したり、書いたりすることは「抽象化」そのもの、ということになる。
言語というものは正に抽象化のための道具だからだ。
抽象化は、ときに、全体から真に大事な部分を取り落としてしまうこともあり得るが、それは運用で補えばいいだろう。
(ゲシュタルト、とかそういう言葉も浮かぶがまだ個人的には不勉強)
一度、言語化・抽象化というフィルターを通すことによって、事象に対して客観的になれたり、単純に心理的な距離感をとることができるということが良い効果をもたらすのではないだろうか。

心理ケア・サポートの理論については絶対的な正義や科学性というものが確保しにくい。
もちろん、そのための努力は、特に現場が切迫していないのであれば惜しんではいけない。
科学的、論理的に正しいことが、少なくとも現時点では分かっていない部分については、複数の説明手法を使う使わないは別にして、平常から集めたり考えたりして準備しておくべきだろう。

2011-03-21 10:00

タスク管理周辺雑感 20110311

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  • タスク管理でストレスが減る理由の一つは外部化・見える化による観測可能性が生まれるため
  • 観測できないものは管理できない。時計があることで時間が管理できる。カレンダーがあるから日程・予定が管理できる
  • ストレスや疲労は管理できない。目に見えないから。本人にしか分からないから。「痛み」と似ている
  • ストレスや疲労を数値化する方法としては、心理テスト、医学的診断、ウイルス抗体化の測定などがある

2011-03-11 06:00