スキューバダイビングを始めてみた

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やってみると色々考える点があって興味深い。

これは趣味なのか、スポーツなのか。
スキルアップのシステムや、見せ方・インストラクションの流れなど。
人間模様にも様々ある。
使う器材には科学技術が詰まっている。
自然環境との闘い、あるいは共存・協調という面もあるから危険や厳しさもつきまとう。
営業的な部分での工夫や、自身の判断そして目利きなどについても参考になる。

2012-11-08 07:00

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臨死体験はある

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臨死体験というやつがある。

肉体的に死にかけて、その後運良く生還したときに、自分の身体や周りのことを客観的に見ていたと語ったり、親しい人にお別れをしに行っていたというような体験があったりするものだ。

これは実際に起こりうる。

お別れしに行った感覚が死にかけた人にあり、相手の知人がたまたま臨死の人のことを想起する。
この2つがほぼ同じ時期に起きれば、臨死体験という「奇跡」が成立する。

あとは、確率の問題だ。
人間は無数にいるし、日々何らかの事故や死に近づく出来事というものは起きている。
臨死体験のチャンスは無数にあり、その中でたった1回でも生じれば奇跡になる。

さらにそれら一連の出来事に、良いでも悪いでも構わないが、感情や文脈が少しでも存在して補強されると、全体のリアリティを強化する。

心理学上の共時性にも近い論理があるのかもしれない。

これは、体験や奇跡が間違いだとか嘘だという事ではない。
最終的に科学的に語ることができないのならば、あとは選択の問題だし、どんな物語にするかはその人間が決めることができるのだから。

2012-08-22 08:00

見たものしか信じない

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見たものしか信じない、と言い切ることが私は多い。

見えないもの、聞こえない言葉などに、主観や想像を加えて、その境界をぼかしたまま議論をしたりカウンセリングをしたりするのは怖いばかりでなく、ナンセンスだと思っているからだ。
もちろん、人間の思想や思考、気持ちや楽しさや苦しさなどが、見えない、文字や言葉になっていないから、存在しないとか言っているのではない。

そんなことをこれまで考えていたら、ヒッグス粒子発見の可能性がニュースとして飛び込んできた。

ヒッグス粒子 – Google 検索

そう言えば、重力(波)なんて、確実に存在するのに、目に見えない、科学的に測定するのが困難な事象の一つだった。
重力は見えないけど伝わるし、存在を否定できない。

最近読んだ「重力とは何か」(大栗博司、幻冬舎新書260、2012年)でもこのことは理解していた。

すると、自分の考え方や物言いの整合性について直面しなくてはいけなくなってきている。

2012-07-05 08:00

個人の問題や病気でなく、社会の問題・病気

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AD/HD(注意欠陥/多動性障害)や発達障害、学習障害や識字障害など、こうした状態が存在するということ自体があまり知られていなかったものが注目されている。

ただし、これらは従来のイメージの「病気」「疾患」とはまた違ったものだろう。
これらは個人の病気というよりは、社会に深く関係した現象であり、問題だと思うからだ。

こうした問題を抱えた本人が苦しいとか、困っているとか、「治る」か否かというのとは別に、その所属するコミュニティがどう考え判断し行動や方針を決めるかが一つの焦点になる。

「問題」を抱えた人らを社会やコミュニティがうまく受け入れ生活していくことができれば、実は問題の一部が解決してしまったり、問題としての次元がガラッと変わってしまう可能性がある。

文字がまだ存在していなかったり、発達も普及もしていない世界や時代であれば、現代の先進国ほどには識字や学習の問題は大きくなかったはずだ。
そもそもその問題に気付かれることなく、かつ特に不具合や悲劇、不幸な出来事も起こらなかったかもしれない。

世の中、社会として、足並みを揃える必要がある部分は確かにあるが、すべてを同じ基準で考え、そこに個人個人を当てはめるというのは民主的でないし不幸な社会だと思う。
科学はどこからどのようにつながっているか複雑なものだから軽々しくは言えないが、例えば、ガリレオ・ガリレイが天動説をとなえたときに、他の大多数人が理解できなかったり、受け入れられなかったりすることに罪はない。

極端に言えば、昔であっても現代であっても、別に太陽が地球の周りを回っているのでなく、地球が太陽を回っているのだということを知らなくても生きていける。
「ガリレオ問題」は科学的にはある理論が検証・追試できなかった(されなかった)問題だが、社会的にはそれが迫害や名誉の毀損をもたらしたことがいけなかった点だ。

時計が発明されて初めて時刻や遅刻というものが生まれた。
測定の精度が上がったり、より厳密な物差し・尺度が作られれば、それに合わせて誤差が大きくなる(あるいは気付かれていなかったものに気づいてしまう)
物理法則や現象は不変であっても、社会や世の中、見る目や尺度が変化すれば、違うものが見えたり、同じ物事が違うものに見えてしまう。

観察者と対象、個人と社会の関係というものは常に相対的なものだ。
動物園のサル山を見物している時に、猿のほうが人間を興味深く観察して色々と考えているかもしれない。

2012-03-07 17:00

(関連検索リンク)

ad hd – Google 検索

(関連エントリ)

天才は正しさを証明しなくても良い | deathhacks

現代社会が信用から成り立っているということ

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現金支払主義の人は、貨幣経済もある種の信用の上に成り立っていることをどう認識しているのだろうか。
クレジットカードや手形などでの取引や商売、株式の市場など、今の経済はその大もとが実体としてあるわけではない。

ただ、これは程度の問題だからそれこそ人それぞれの価値観が違っていても当然だ。
片方がもう一方を簡単に否定することはできないということ。

考えてみると、社会や人間関係の中で、科学的・論理的に証明できるものや定量して数値化できるものごとはとても乏しい。
人物の信用というものが何で決まるのか、どんな要素が影響するのかというのは難しい。

カウンセリングでも結論が「何を言うかではなく、誰が言うかが大事だ」というものになってしまったりすることも多い。
しかし、私はなんとかこのような、得てして「どうせ考えても意味はないんじゃないか」という結論に反抗して、少なくとも超短期的にでも普遍的な理論や技術を考え続けていきたい。

2012-01-19 10:00

いわゆる新型うつについての関心3つ

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■1 旧来うつの診断基準や治療プロトコルに無理に建て増しをしたようなものではないか

「人間」を定義(診断)するのに、当初男性だけを観察し続けてきたところに、新たに女性というものを発見して、それを「新型」の男性だと呼んでいる、みたいな。

■2 欧米に新型うつはあるのか

医療の科学的な面を無視しないのであれば、日本固有の文化や社会で生じているという定義や、まったく定量化できないような診断はナンセンス。

■3 医療またはメンタルヘルス・カウンセリング従事者がクライアントに陰性感情を持たないような工夫が必要

絶対ではないが、例えば糖尿病の患者すべてに対して、医療従事者などが疾患の原因を「クライアントの自己責任」ととらえたとしたらば、医療や治療はうまくいかないのではないか。

2011-11-21 16:00

人は歴史を好む

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人は事例が好きだ。
自分が学んでいることの知識や仕組み、法的な制約や科学的根拠などを知ることは、その内容にライブ感を感じることができなければ、一部の人にとっては難しい。
ところが、事例にはストーリー性があるから始まりと終わりの区分がある程度はっきりしていることが多い。
よって、一つの塊として把握しやすいのだ。

人が歴史を好むとか、歴史から学ぼうとするのも同じことだ。
歴史を好むとか歴史から学ぶというのは、別に古い過去の事実が好きだというだけではなく、そこから現在や未来に役立つような教訓や法則を見つけられると考えるからだろう。

カウンセリングについて、歴史やら、心理学的理論体系、医学的データや根拠などを学ぶのが好きな人も少ない。
皆が皆、その方向を向いていたら、現場の人が減り、多くが学者や教育者、研究者になってしまう。

現場を知っている人ほど、事例を好む。
筋道がわかり、把握できると、人はそこから何かを学んだつもりになれる。
しかし、実際に現在や未来の現場に、学んだことを活用できるかはわからない。
確率的にはとても低いだろう。

実際のところ、事例からわかること、学べたことを、自らの次の現場にはっきりと適用できることは少ない。
それは単なる知識や実験データをそのまま使えないことと違いがない。

事例について理解することと、そこから学ぶことはまった別の次元、段階であることを知っておくと良い。

2011-11-11 09:00

(関連エントリ)

単純理論、事例、比ゆを組み合わせる理由や背景 | deathhacks

物語が人の心に響くのはなぜか | deathhacks

人間は一度に一つのことしか認識できないからストーリー(流れ)が必要になる | deathhacks

カウンセリングは技術か、コミュニケーションか

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カウンセリングを教えたり、メンタルヘルス周辺に関わったりしていると、コミュニケーションそのものの問題や疑問に出くわす。
挨拶がどうとか、訊くべきことを適切な時に適切な言葉で訊くとか、服装がどうとか身だしなみや匂いがどうだとかいうようなことだ。

個人的には、例えばカウンセリングならば100%とまではいかなくても、可能な限りその中の要素を技術的なものとして扱いたい。
属人的な研究や考察はもちろん無意味ではないが、科学的ではない。
科学的ではないというのは、普遍的ではなく、応用が効かず、測定や記録ができないということだ。

しかし、深く、濃く、カウンセリングについて考えたり議論したりしていると、その内容がいつのまにか、挨拶やら、礼儀やら、ルックスやら、常識やら、最後には人間性さらには「人間力」のようなところまで行ってしまう。
確かにカウンセリングは、カウンセラー自身という要素を抜きにしては把握できない。

カウンセリングはカウンセラー自身との対決である | deathhacks

カウンセリングをトレーニングすることが、人間性の鍛錬や修行であってはいけない。
カウンセラーとしての実力を推し量ることが人間コンテストになってはいけない。

技術と思想の境界線はあいまいだ。
しかし、それを常に意識しながら、問いながらやっていくしかない。

2011-10-26 08:00

(参考エントリ)

あいさつをしなくてもいい | deathhacks

苦しさだけは否定できない

R1009454

カウンセリングでクライアントが「苦しい」と言っているのを周囲やカウンセラーが「そんなはずはない」と否定することはできない。
苦しさや辛さというのは、どこからどこまでも主観的で、基本的にその本人だけの感覚だからだ。
そういう点は「痛み」に似ている。

医学的にも、「痛み」について、いくつかの仕組みや原因はわかってきているが、結局のところまだまだ多くの不明があるし、コントロールできているのは一部にすぎない。
特に、いわゆる末期的病状をあつかう場合や精神科領域では「精神的な痛み」「宗教的痛み」という表現をしたりする。
要するに現在の科学的人知を超えているのかもしれない。

ただし、理解やコントロールができていない、苦しみや痛みの扱いとしては、そもそも否定する必要もメリットもないことはわかっておきたい。

2011-10-04 10:00

(関連エントリURLを追記 2011-10-28 21:00)

その人が悩んでいること自体を否定してはいけない | deathhacks

トラウマ体験と「におい」や「音」が強固に結びつく理由

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においや音に関連した連想記憶というものは視覚に関するものよりも、強い印象を残す場合がある。
いわゆるトラウマティックな体験と合わさってトラブルや問題になる。

その体験をしたときのにおいと同じか似たようなにおいを避けるようになったり、においによって記憶や別の感覚・映像が蘇ったりして苦しさを感じることは程度によっては対処が必要となる。
音についても同じようなことが起こる。
10年や20年前に聞いたことのある音楽を久しぶりに聞いたとして、同じ時期の体験がセットで記憶のどこかから掘り出されてきたりする。

人間は視覚がかなり優位な生き物だ。
感覚情報の7割から8割が視覚からだとも言われる。
人間は普段視覚を上手に利用して本や映像などを介し、互いに情報をやり取りしたり、記録を残したりしている。

慣れている視覚についてのコントロールよりも、原始的な感覚である音やにおいについては一般に難しい。
しかし、トラウマティックな体験からある人に対して刻み込まれる「情報」の量は、特に音やにおいについて大幅に増加する傾向がある。
非常事態においては、本能的に視覚以外の感覚をも最大限に動員しようとして一時的に、それらの情報が個人処理能力をに大きな負荷をかけるのかもしれない。
そして、それらの情報処理が終わるまで、数週間・数ヶ月から数年単位で「侵入」が続くと考えられないか。

まだまったく科学的な要素や論理ではないが、ASDやPTSDの理論上の機序に迫っている可能性がある。

2011-09-29 08:00