身近な人の自殺から「見捨てられ」を感じる

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肉親や愛する人が自殺すると、悲しいという気持ちだけでなく、自分が「見捨てられた」のだと感じることがある。
これは物理的に、あるいは現実として離れ離れになるということ以上に、自殺についてとても苦しい意味を持たせてしまう。

単に「離れる」「別れる」ということであれば、人は人生経験から慣れやいたし方の無さを学んでいるかもしれない。
しかし、死を用いた別れは「何もそこまでして離れようとしなくってもいいのに……」とまで考えさせてしまう。

こうした感情体験は、子供であったり、他にポジティブな体験や拠り所のない人ほど強烈な負荷となる。
自責を生むし、うつにもする。

だから、身近な人を自殺で亡くした場合のケアとしては、乏しい情報や記憶の中から「本当に『見捨てる』というようなメッセージは存在したのか」を当事者と一緒に確認する。
あくまで比較の上でだが、このケアに比べれば、元気づけも、忘れる対処も、薬の内服も、時間の経過もあまり有効ではないし、的を射ていない。

2013-01-16 09:00

DEATH NOTIFICATION

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今日は以前のエントリ(自殺や事故に対して管理者がまず出すべき2つのメッセージ | deathhacks)を revise して書こうと思う。

組織の従業員などが自殺や事故でなくなったときには、管理者、経営者ももちろん衝撃を受けるだろうし大変苦しむはずだ。
そして、組織の運営者の責任や期待される言動は、こうした惨事直後には理論的にも倫理的にも高まる。

管理者が、亡くなった従業員以外の皆に、まず初めに、いつ、どのような発言をするか、コミュニケートするかということは極めて重要だ。
私は過去にも、今現在も、こうした状況の管理者らに向けて、発言の内容や注意点などについてコンサルティング・アドバイザリーをしてきている。

今回書くことはそのエッセンスだ。
言うべきこと3つ、してはいけないこと3つ、そして若干のコメントでまとめている。
平時からコミュニケーションや人心、そして人事の感覚を研ぎ澄ましている管理者であれば、これを読むだけで対応の骨子はつかめると思う。

言うべきこと(1) 「私(管理者)自身がショックを受けている」

管理者自身が衝撃を受けているということを隠す必要はない。
むしろデメリットが多い。

別にうろたえたり、取り乱したり、感情のコントロールを全放棄して涙することなどを奨めているわけではない。
ただ、鉄の意思で冷静を保ち装うことを過剰に自分に課すことはないということだ。

管理者があまりに平静を保つと、それを見た周囲は、安心する面もあるが、一方で「冷たいのではないか」「自分たちも取り乱してはいけないかな」というあまり好ましくない印象が伝わる可能性がある。

言うべきこと(2) 「このことをウヤムヤにはしない」

事実は事実として、管理者個人としても、組織としても、正当に扱い対応することを明確に宣言する。
わかっていることは表現に注意しながら情報提供する。

このとき慎重に、憶測や予断を挟むことを避ける。
そうした内容が入ってしまっていないかは主観的なチェックでは不十分だから、できるだけ周囲の幹部や専門家のサポートを受ける。

また、情報の提供は初期対応の時点から継続的にしていくことを約束すること、実践すること、方針を変えるときにも一々説明することなども従業員に伝えたほうが良い。

言うべきこと(3) 「皆(従業員・関係者)のことを気にかけて心配している」

従業員を集めて、管理者が話すべきことの最後は、直接従業員らへのメッセージだ。

「同じように驚いていると思う」
「亡くなった者との関係は色々だったと思うが、悲しい気持ち・寂しさはそれぞれあるのではないか」
「急過ぎて頭が真っ白だったり、うまく受け止められない感じがしている人もいるかもしれない」

その上で、組織として可能な限り業務上などの具体的な調整や配慮を準備して提示すること、内外の心理あるいは惨事対応の専門家などと連携をして、希望・必要とする従業員には使ってもらいたいということを繰り返して発信する。

してはいけないこと(1) 当事者・亡くなった者への非難

「死ぬくらいなら、その気もちをバネにしてもうひと頑張りすれば良かったのに…」
「なぜひとこと周り(や会社、家族など)に助けを求めてくれなかったのだろう」
などの発言は死者への攻撃と取られる。

こうした部分には管理者個人の価値観、自殺やメンタルヘルス、人事や従業員についてなど、普段考えていること、思っていることが素直すぎるほどに出てしまう。
そして、それが適切かどうか、従業員にとってどう感じるかということは十分考えた上で表現しなくてはいけない。

個人として思い発言する内容と、管理者としての立場でのあるべき内容も微妙に違ってくるから調整が必要になる。

してはいけないこと(2) 従業員・聞き手への要求

「皆は早まったことをしないで欲しい」
「悩みが何かあって困っているのだったら勇気を持って会社や家族に打ち明けて欲しい」
「命は大切にしよう」

これらは結局、話し手主観の願望・要求だ。
極端に言えば、自己防衛・保身の面が強く出たり、受け取られたりしてしまう。

知り合いの自殺などのように強い衝撃を受けている人らは、少なくとも一時的にはとても消耗・疲労していると考えていい。
そこに、何かしらの要望や約束を求められることは、どんなに親身な内容で良さそうなものであっても、これまた攻撃と感じたり、負担になる部分が多くなる可能性が高い。

してはいけないこと(3) 関係ない話はしてはいけない

身近な惨事にかこつけて、別の話をしてはいけない。
小ずるさが見えたり、人格・管理者適性を疑われかねない。

「亡くなった彼(彼女)の分も仕事に真摯に取り組んで行こう」
「世の中、もっと大変な人たちもいるじゃないか」
「実は、私は以前にも親友を自殺(事故)で亡くしている。そのときに私が思ったことは…」

余計な鼓舞や話題、思い出語りなどは、惨事や故人について思いを抱えていながら集められた人たちの内面にズカズカと入り込んで感情の処理などを邪魔するようなものだ。

まとめ

惨事に一つとして同じものはない。
惨事介入にこれが正解だというものはない。

しかし、心理や専門的な経験を背景にした、初動・対応の原則はある。
そして、現場や環境の違い、時々刻々と変化する状況に対応するには私らのような専門家のサポートも有効だろう。

2012-06-02 08:00

(追記)
(関連エントリ)

自殺があった後にマネジメントが出すべきメッセージとは | deathhacks

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惨事介入チームのリーダーは他のメンバーの3倍疲れる

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惨事介入には2-4名程度のチームを組むことが多い。
どんな少人数のチームでも、長や頭ははっきり決めておいた方が良い。

個々の能力はそんなに関係ない。
できる人間の中で、誰かが全体の管理やコントロール、被サポート組織との調整などを代表して責任を持つ。
これを曖昧にしているとチームが混乱しパフォーマンスが落ちる。

ただ、リーダーは大変だし、疲れる。
通常のメンバーの3倍は疲れるというのは誇張ではない。

介入のテーマ、対象となる出来事が自殺であれば皆それなりに腑に落ちるような物語を構成し伝える必要がある。
事故などであれば、今後の回復、日常への復帰に際しての具体的なロードマップやツールを提示することが求められる。
これらはもちろんメンバーのサポートやアイデアをもらいながら作業するのだが、最終決定や責任は一にリーダーにかかる。

なので、介入活動では、リーダーは個別面談の列には入らないで高所・遠所から全般を見渡せる態勢にしておくのが良いだろう。

考えてみると、惨事介入に限らず、カウンセリングサービスなどを提供するのにかかる労力の8割は地味な準備・手続き・調整などの作業だ。
「感謝されたい」とか「自分が成長するため」というくらいのモチベーションだけではとてもではないが割に合わない仕事だ。
逆に、こうした地味な部分をしっかりと詰めておけば、最終現場の一つである個別カウンセリングや先方マネージャーとの活動ディブリーフィングなどは、内容をそれほど意識しなくてもうまく進む。
そういうものだ。

介入リーダーは、まず能力・実力がなくてはいけないし、できない。
そしてその条件を満たしていても、激しく消耗するし、ナーバスでデリケートな仕事内容になっている。

2012-05-16 06:00

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思った以上に、外向きの人が多くてびっくりした

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外向きというのは、自分がどう見られているかということを気にしているということ。
見た目、というだけではなく、どう評価されているか、どんな資格を持っているか、どれくらい実力を持っていると思われているか、信頼されるか、など。

しかし、カウンセリングやメンタルヘルスに関してばかりではないが、実践の現場で大事なもの、頼れるものは結局「実力」だけだ。
資格や人柄、実績やコネなどは何の役にも立たない。
自分の実力をしっかりと計ることが内向きの視点ということになる。

そして、内向きの視点は、自己客観視、謙虚さや慎重さにもつながる。

もちろん外向きの視点がまったく要らないということではない。
クライアントや社会と関わっていく活動の中でそれは重要だ。
要はバランス、あるいはバランス感覚の問題になる。

外向きばかりでは見失うものが多い。

2012-04-29 09:00

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適材適所と適所適材と

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組織というものは、枠や部署、役職がまずあって、そこに人材を当てはめていくものだというイメージを持っていた。

しかし、まず人員がいて、それを活かせるような、ポストやチームを作ってもいいということに最近気づいた。

特に新しい、もしくはフレッシュであったり、劇的な成長を目指す組織であるならば。

2012-04-16 18:00

「うつは疲労である」と言うことの意味〜翔〜

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一昨日4/13に《「うつは疲労である」と言うことの意味 | deathhacks》というエントリを書いたが補足しておく。

「うつは疲労である」という説明は、クライアントであっても、学んだりそれを用いるカウンセラーにとっても、多くの場合にしっくりと腑に落ちる。
しかしそれは「必ずいつも、誰にでも」というわけではない。

学んで、感動し、目からウロコが落ちた成功体験がカウンセラーにあると、現場で思考停止してしまい、深い考えもないで、どんなクライアントにでも「あなたのうつは疲れによるものですよ」と言ってしまいがちだ。
ここには落とし穴がある。

「うつやその症状、トラブルが疲労によるものだ」という言い方は、時としてそれを聞いたクライアントに「私の苦しさはたかが疲労なのか…」「こんなに困っているのにカウンセラーさんはたいしたことないと思っているのだ」という裏メッセージを与えることになる。

現場ではクライアントや時期と場面に合わせて、
「疲労だから休めば良くなる」
「誰でも疲労はするものなのだからあなたは絶望しなくてもいいのだ」
「疲労と言ってもヘトヘトという感じ」
「疲労というよりは疲弊かなぁ…」
「疲労困憊している感覚ではないですか」
「ただの疲労ではないからここは注意して協力しながら乗り切ろう!」
などのように細かに丁寧にメッセージを調節しなくてはいけない。

先のエントリに書いたように、うつの原因は完全に解明されてはいないし、相当先まではっきりはしないだろう。
「うつは疲労」という説明も、永遠に、高い確率でクライアントをうまく支援できる説明の一つであるかはわからない。

すべてのことについて、なぜ「そう」説明するのかを深く考え続けなくてはいけない。

2012-04-15 08:00

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「うつは疲労である」と言うことの意味

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物事にはすべてに意味や目的がある。
メッセージが込められる。

うつは一般に確かに病気と扱われることが多い。
しかし、我々は100%うつが病気だとは思っていない。
クライアントにも、あなたは病気だと言うことはほとんどない。
その必要もメリットもないことがほとんどだからだ。

我々は、うつを疲労の表現形の一つだというくらいに考えている。
「あなたは疲れきってしまっていて、身体が不調になっていたり、世の中や他人の見え方が以前とはガラッと変わってしまっているのだと思うよ」と。
こう捉え、説明することの意味や意義は何だろうか。

人間誰でも、運動したり、勉強したり、仕事をしたりすれば疲労する。
疲労したことがないという人も、そういった状態を想像もできないという人はまずいないだろう。
また、疲れた時には、気分転換やおいしいものを食べるなどによって回復することも実感として知っているだろうが、結局は休まないと状態は良くならない、戻らないということも納得できるだろう。
うつを「病気」ではなく「疲労」だと言うことに込められるメッセージは「あなたは壊れてダメになってしまったのではなく、疲れてしまっただけだ(その可能性が高い)から、休めば回復できるよ」というものだ。

「あなたは病気だ」と言って、どうしたら、どのくらいの時間をかければ、元の状態に戻れるのか、今の苦しさが和らぐのかという不安をいたずらにクライアントに負担させることに果たしてメリットはどれくらいあるだろうか。

実のところ、医学的にもうつの原因はわかっていないわけで。
セロトニンがどうとか、アドレナリンがどうとか、遺伝子が関係している、電気や磁気を使って症状が改善したとか、そういった研究を否定はしないが、相当部分が解明されたということではまったくない。
結局、クライアント本人の主観的症状を中心にして、1週間だ2週間だ、それが続いていれば「とりあえず」うつという診断をつけましょう、治療をしてみましょうというくらいのユルさだと私は感じている。

繰り返すが、物事にはすべてに意味や意義、目的がある。
ある、というかあるべきだ。
お茶の作法や起居振る舞いのひとつ一つに意味や目的があるように。

カウンセリングでも教育でもお茶でも、クライアントや相手にどんなメッセージが伝わるかということを常に考えるべきだろう。

2012-04-13 08:00

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メンタルレスキューリーダーに求められるもの

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NPO法人メンタルレスキュー協会が、経験を加味した上で試験をし、認定する資格「メンタルレスキューリーダー(MRL)」について。

資格の認定のために要求される能力を個人的に考えてみている。

まず個別カウンセリングの高い技術を持っていなくてはいけない。
もちろん適切にスーパービジョンを受けられることも必要だ。
(これはスーパーバイザー、スーパーバイジーの両方として)

次にカウンセリングやメッセージコントロール、自殺や惨事の知識教育ができること。
個別教育のみでなく、一定以上のレベルで多数に受け入れられるような説明ができなくてはならない。
これができるということは、メンタルヘルス上の各テーマについて、自分の言葉で十分理解してものにしているということになる。
(「科学的に唯一正しい知識」を持っているとかいうことではない)

3つめには、惨事後ミーティングやグループミーティングを適切に、プロデュースしたり、ファシリテートしたりできること。
メンタルレスキュー協会が実際に惨事介入をするようになっており、リーダーとなる人間は以前よりもさらに実践力を明確に要求されるようになっている。

4つめは考えたてホヤホヤだ。
クリエイティブであること。
他人の理論やツールをそのままになぞらえて再現するだけではメンタルレスキュー(認定としてのMR)レベルだ。
教え方がちょっと変わったり、新しい内容や考え方が出てきたからといってバタバタとうろたえるのでは失格だ。
逆に自分発信で、「こうしたカウンセリング技術が使える」とか「教える内容はこう変えた方が良くないか」というように周囲や仲間を変え、成長していく気概があるべきだ。
それがクリエイティブということ。

皆の意見はどうだろうか。

2012-04-11 07:00

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話を聞く、聞かない、を真摯に考え抜く(前編)

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惨事に遭った人を支援する、面談を通じてケアするなどのとき、その惨事が極大なものであったときにに、支援者はクライアントとどう接し、どう会話したらいいのか。
東日本大震災後の支援では、正にそれぞれが同じ、あるいは似たような状況になったり、迷ったり、悩んだりしている。

単に惨事被害者(被災者)のダメージや数が多いというだけでなく、地域の機能やリソースが根こそぎに近いくらいに失われてしまったため、そこへの支援者は必然として別の遠隔から一時的に来た人たちであるのが特徴だ。
支援者の悩みや迷い、難しさにもこの特徴が関係している。

「被災者の話をとことん聞いてあげたほうが良いのでしょうか?(マイナスの事が起きたり、感情を高ぶらせてしまうのが怖いです)」という質問や、「感情が絡むような体験の話はあまり聞かない方がいいですよね?(でも、それでは何か冷たい気がする。何もできない自分が支援していると言えるのか)」という迷いがよく聞かれる。

これは難しい問題だが、かと言って専門家や現場の人に訊ねて「話はとにかく遮らず、相手が望むまま、望むだけ聞いてあげましょう!」とか「いやいや、我々はずっとその場に居続けることはできないのだから、悲しみや辛さの深い部分は地元の人同士や家族などの中でしてもらうのがベストだ。余計なことはなるべくしない方がいい」とかいうクリアな答え、正解を期待してはいけない。
いくら支援者自身が悩んでいても安易な結論は避けたい。

とは言うものの、「被災した方々それぞれで事情や状況が違うのですから、臨機応変に……」というのもせっかくのボランティア精神の多くを無駄にしてしまうかもしれない。
私自身は、考えることによって、すぐに到達はできなくても、より早く「正解」に近づいていけると思っている。

まず、惨事にあった人は「なぜ体験を話したくなる」のだろうか。
あるいはその反対に「誰にも(誰とも)話したくなくなる」のだろうか。
この二つの真逆の反応、状態はどちらが嘘とか間違っているとかいうことではなく、どちらも実際に、しかも同時に起きていることだ。

なぜ話したくなるか。
人が何かびっくりするような事柄にあった時には、誰かに話したくなる。
有名人を街で見かけたとか、ちょっと失敗をしたとか、宝クジが当たったとか、自分に置きかえて想像してみてほしい。

次元や種類が違うと思うかもしれないが、災害・事故・惨事に遭った人が、誰かに「ちょっと聞いてくれ」と情報や体験を知らせたくなるのは極めて本能的だ。
そして、聞き手に期待しているのは「! そりゃ、大変だったねぇ」とか「スゴい!」という、驚きや労いなどの反応だ。

ただし、災害や事故においては、疲労や不安から、「自分に原因や責任があったんじゃなかろうか」とか「何か防いだり予防したりできたのではないか」という自責の思考が強く回ることが、出来事の規模や衝撃が大きいほどよく起こる。
これが「話したくない」という反応の背景にある。
もしかしたら話したいのかもしれないけれども、それよりも強く「話して、自分の責任を指摘されたら嫌だ」「自分の考えや不安が他人によって確認されたら本当のこと(!)になってしまう」と考えている。

繰り返すが、被災者などの心理的な面への支援にはっきりとした正解はないと思っておいた方が良い。
だが、無策で手をこまねいているしかないわけでもない。
まずは、きちんと「なぜ」という部分から、自分の眼や耳や手で得た情報や知識を、自分の頭で考え続ける、考え抜く、そして実際に行動し発言するというのが真摯ということだろう。

続きは次回(話を聞く、聞かない、を真摯に考え抜く(後編) | deathhacks)に、もう少し。

2012-03-30 12:00

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ゾーンとスパークの好例に、その場で気付き損ねた

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メッセージコントロールを教える場合、それを第一の目標にはしないということを強調しながらも、クライアントが快適で適度な緊張感を持った「リラックス状態」になると様々な「ひらめき」が生まれることも説明する。
我々は、リラックス状態を「ゾーン」、ひらめきや発想や新しい視点などが出てくることを「スパーク」と呼んでいる。

ゾーンに入れることまではメッセージコントロールの目標にするのだが、その後のスパークまでも狙うとかえってゾーンに入りにくくなったり、途切れてしまったりしがちだ。
また、座学で事例を出したり、概念を説明するまでは安定してできるが、実際にモデリングやロールプレイをしてみて、常にそれを目の前に示すということは運の要素が大きくてできない。

そうは言っても、先日の講習では自分のグループ内で、クライアント役に「スパーク」が生まれていた。
惜しむらくは、そこに入っていたコーチの私も、その現場、時間内ではそれがスパークだと(はっきりとは)気付くことができなかった
通常レベルのフィードバックや質疑応答をして、そのセッションを終えてしまった。

とても、もったいないことをした。

後から自分で振り返っていて、「あー、あれはスパークと言っても良かったなぁ」と考え直している。
その場でうまく気付かなかったのは、その、クライアントの新しいひらめきが、カウンセラー役(リレーで回していた)とのやり取り内容や言葉とは直接にはまったく関係ないものだったからということが大きい。

クライアント役は、カウンセラーが言ってくれていない、気付いてくれていないことを、自分で発見したのだ。

これなどは、正にゾーンの力、スパークの特徴、そして面白さだ。
この概念を知らない、納得していない人が、この話を聞いたら、「ただの偶然でしょ」「カウンセラーとか、カウンセリングとは全然関係ないじゃん」と思うかもしれないがそうではない。

その場で、私がちゃんと気付いていれば、リアルタイムの実例を題材に、理解と実感を得てもらうことができたかもしれないのに。
クライアント役の許可をもらって、講習参加者全体のフィードバックとして披露することだってできたかもしれない。

反省中。
まあ、次こそは見逃さぬようにしよう。

2012-03-27 08:00

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