感情は原始的で、理性が上位にくるのか

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言動が感情にふりまわされるさまは「動物みたいだ」とか、最悪の場合「鬼畜である」というように評される。
このように考えられるのは次のような常識があるからではないか。

  • 人間は動物よりも高度に進化した上等・上位の種である
  • 原則として、理性や知能というものは、本能や感情よりも間違わず、これもまた優秀かつ上位の機能である

しかし、私の考察と想像では、感情が原始的なもので、理性や論理的思考が上級で、進化によってヒトに備わった資質というわけではない。
感情と理性は、はっきりと上下関係や支配あるいは主従関係にはない。
もしくはむしろ感情のほうが生き物としては非原始的な要素だと思う。

人間は複雑な概念や言語、時間や科学といったものを集団で発展させる過程で、それを単純にひとまとめにしたり、ある種の安全装置として感情を身につけた(または感情を持たない種は淘汰された)のだろう。

論理的に考えれば、個としての自分に直接に得にならない行動を継続して家族を養ったり社会に貢献したりすることはそれほど合理性がなかったりしないか。
不安や後悔という感情は時間というものを頭の中に生み出し、社会が動くのに不可欠の要素としなければ、実はこれほど強烈に人間の思考や行動に影響を与えることはなかったのではないか。

もちろんこれらにはそれぞれすべてにメリットとデメリット、または個人としては合理的ではなくても集団や社会としての利益が大きいもの、あるいはその逆があったりもする。

呼吸をしたり心臓を規則的に動かしたり睡眠と覚醒のサイクルを調整したり食物を摂(獲)らせたりするための本能は確かに生き物としてはより基本的な機能だろう。
つまり原始的ということだ。
一定以上に複雑なしくみを持つ生物はこれらの能力なしには生命を維持することが難しい。
その点ではヒトも動物などと同じように支配されていると言える。

しかし、現代の人間やその社会には愛情や功名心、羞恥心や物欲、不安や後悔、焦りといったそれらそのものが生きる上で本当に必要なのか不可欠なのかわからなかったり、どう考えても害悪にしかならないのではないかとう感情や思考がある。
その部分を理解するためには、感情が何であるか、なぜ感情があるか、動物には感情があるか、果たして人間は動物よりもはるかに優れた種なのかなどを考えてみると良いと思う。

2012-02-13 08:00

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他人を助けたくて勉強したりカウンセリングしたりしているのではない

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私がなぜ心理業界やカウンセリングに興味を持ち、仕事や勉強として携わっているのか。
自分でも折に触れ考えるし、人から尋ねられることもある。
別にこの質問に答えられないと業界に関わってはいけないとか、不適切な回答や動機が存在するというわけでもないけれど。

同じ質問への他人の答えとしてよくありそうなものが「自分がクライアントとして心理臨床や医療に助けられたから、同じようなことを今度は別の人にしたい」というものや「人事や経営など、元々の業務上で心理やカウンセリングについて知る機会や学ぶ必要性が出てきて」
というものだろう。

もちろん私だって、「ただなんとなく何かを勉強したいと思って、たまたまそれが心理だった」というわけでも「自分を一番活かして稼げそうな業界だから」というような流れでもなく、やはり偶然にではあるが身近に心理やカウンセリングというものやわずかな必要性があったようには思う。
ただし今、少なくとも、せっぱ詰まった気持ちで「他人を助けたい」と単純に思って、それが動機やモチベーションになっているのとはちょっと違っている。

どちらかというと「あるべき状態がない」ことが許せなかったり不思議だったりする感覚を持っている。
目の前に食べられるものがあるのに飢えている人がいる感じ。
知識さえあれば食材や素材は身近にあり、道具や調理を適切にすれば苦しまなくていいはずなのに。

心理やカウンセリングには、日常や常識に取り込めて、自然に誰もが手に取り、使えるような切り口やノウハウが、他の業界や分野に比べても特に多くあるのではないか。
自分の足だけで移動して生活すること自体は別に悪いことではないが、例えば自転車がありそれに乗れれば驚くほど行動範囲は広がるし労力は減らすことができる。
自転車について言えば、ちょっとした練習で多くの人は扱うことができるし、ルールを守りさえすれば免許や誰かの許可も要らない便利なツールだ。
同じようなことを心理の分野でもすでに起こっていたり、これからもたらすことができたりするのではないかというのが私がなんとなく考えていることだ。

結果として、誰か苦しんでいる人が助かり、誰かや何かに感謝をしたりするかもしれないが、その元になるものは皆が元々持っていて社会全体が共有するのが当然なのではないか。

2012-02-12 12:00

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大事なものを外注してはいけない

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メンタルヘルスやカウンセリングなどの根拠となる研究やツールはまだまだ歴史が新しいものが多い。
もちろん、今現在も日々新しいもの、「より良い」ものが探されたり、開発されたり、現場で実証的に試みられたりしている。

しかし、どんなに良いとされているものでも、単一のものや、その有効性を保証するのが結局は自分でない他人である(その比率が高い)ものなどに傾倒するのにはリスクがある。

例えば、ある心理テストを物差し通りに使い続け、10年後や100年後に、その有効性が実はないだとか、さらには害悪があっただとかいうことが明らかになる可能性はありうる。

一つのプロトコルとして、構造化されたカウンセリングだとか、うつ復職プログラム、グループミーティング手法、判断基準などを利用していて、後でそれが「間違っ」ているとわかったのならば、その責任はどこにもっていくべきだろう。

人知には限界があるし、すべてを現場で仕事をする個人らに負わせることは適当ではないだろうし、何もできなくなってしまう。
しかし、可能な限り個人それぞれが身の丈にあったツールを使い、「場合によってはすべての責任を自分が負うのだ」というくらいの気概を持つことを期待してもおかしくはないと思う。

医療や医学で言えば、「最新の治療や診断が一番正しい治療や診断である」という事実がある。
人間そのものという複雑なしくみを持つ対象を、限られた技術や情報で扱っているため、10年や20年、短ければ数年単位でガラっとある病気の治療法が変わってしまったり、かつては正しいとされた診断が誤りであったり再編されたりするという過去は少なくない。

人の悩みやメンタルヘルスを扱う場合には、同じようなリスクはさらに増えることになる。
人間の悩みや幸せの基準、社会の構造やしくみ、様々な環境要素などが現代では加速度的に変化しているし、多様にもなっているからだ。

こうしたことを考えると、メンタルヘルス周辺の仕事をする場合には、

  • 目の前のクライアントに従う。クライアント・現場からスタートする
  • 自身の仕事の拠り所になるもの、ツールなどの自分がコントロールしている部分、他者がコントロールしている部分を知り、意識する
  • リスクをとり、それをクライアントとプロフェッショナルとしての自分で分割・共有する

などが必要になる。

2012-02-11 09:00

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採血でエイジング?

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昨日、「血をあんまり何回も抜くと早く年をとったりしませんかね?」と質問されて「それはありません」と即答した。
これは意外に難しい対応なんだと思う。

難しいことや科学的・医療的、それこそ evidencial な回答を責任をもってしようとしたらば、「100%、こうである」「絶対に、大丈夫」などということはどんな分野や場面であっても言い切ったりスパっと答えることはできなくなる。
しかし、プロとしては割りきって、必要な時には最短距離で進むことができなくてはいけない。

「献血で身体が早く歳を取るということはないです」とあっさり答えた時の相手の顔は、一瞬で理解し、安心し、納得した表情だった。
これで良いのだと思う。

もしも、厳密に、あるいは良心的に、どうしても説明したいというのならば後からいくらでも付け加えればいいのだ。

うつの人への対応でも同じような場面はよくある。
「私は治るんでしょうか?」という問いに「うーん。絶対にいつまでにどうこうというのはお約束できないんですが……」という返事はメリットとデメリットのバランスがとても悪い。
不安を強めるだけだ。
そう答えた理由は、カウンセラーの「嘘をつきたくない」というエゴと言える。
プロフェッショナルならば、こういう自分の現場での不安は飲み込んでしまう方がいい。

2012-02-10 11:00

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現場での余計なひとことについて考える

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自分は臨床を離れた医者だが、クライアント対応するときのワーカー側の心理について一思案。

やってしまいがちなことは「余計なひとこと」を言ってしまうというもの。
この「余計なひとこと」というのは別に、失礼な言葉とか尋ねてはいけない質問、人格などに対する非難というまでの意味ではない。
(こうした内容についても絶対的な基準があるわけではなく、判断は難しいと思うのだが)

例えば「今日はいい天気ですね」とか「普段何か運動はされていますか」とかいうようなたわいもない、日常会話的なものだ。

私は経験的には何回か、直接的には医療や臨床に直接には関係ないテーマの言葉や質問を発したことがある。
大事なことは私がそうした理由だ。

特に何も意図がなく、本当に無意識に近くしゃべっていたこともあるが、ほとんどの場合には理由があった(のではないかと振り返って考える)

一つにはクライアントのため。
面接というか会話の中、場で緊張や不安が見て取れる、もしくはありそうな人に対して、ごくごく日常的な話をしてリラックスしやすくしてみる。

もう一つは私の方が緊張していたり不安があったりする場合の対処としての言葉だったりする。
実際、いつでも、どんなクライアントに対していても、当然ルーチンの状況や問題ばかりではない。
医療であればその内容の9割方は「好ましくないもの」であるのはしかたのないことだ。
だから余程慣れた状況であったとしても仕事としてプロとして緊張するし緊張感を持っていることになる。

ただし、こうした会話については、最初に書いたように「余計な」を付けているのは、結局のところ全体でみればメリットよりもデメリットの方が多いのではないか。

クライアントの緊張をほぐそうとすることは悪いことではないが、予想や一般的な情報から外れることにもなるから、かえって違和感や別の緊張を生み出すことがある。
場合によっては、その会話や質問の意図を深読みさせることにもなる。

ワーカー側の不安を減らすための会話を挟むという面でみても、たいして時間稼ぎにもならないし、クライアントのリアクションに左右される部分が半分ある。
静的に観察して得られる情報だけでなく、リアクションを出してもらい新たな情報を増やそうとする、アクティブなソナーとしての試みだとするならば価値はゼロではない。

あと考えられるとすれば「ワーカー側が気を使って配慮しているということをクライアントに感じてもらい好意的に受け取ってもらう」というようなややこしい効果を狙ってか。
しかし、ここまで複雑にするのは、やりすぎの場面が多そうだ。

クライアントが余計に緊張したり、戸惑ってしまったりする結果となってしまったのに、「自分は良かれと思ってしたのだ」という思いだけが先行してしまったり、さらにその状況を悪い方向に広げたり強めてしまったりということは避けられなくてはいけない。

自分、クライアントの発した言葉やメッセージのすべてについて、その意味や効果などをできるかぎり説明する、一方で全体の流れというものも重視するという二面的な観点が必要だ。
これは正に心理カウンセリング的な視点と重なるだろう。

2012-02-09 09:00

給料をもらい、昇給することで得られる自信

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公務員として去年まで勤めていたときには考えたことがなかったのだが、日本で被雇用によって受け取る給与額の根拠はあいまいなものであることが多いのではないか。

ある業務を勤勉に継続的にこなしていたとして、その成果の分配を受けるのはまあ、その額が妥当かどうかは置いておいていいとしよう。
しかし、その額が定期的に上がる、つまり定期昇給という制度があったとしたら特にその部分については不可解さが感じられる。

要するに同じ仕事を同じ環境で同じ人がしていたとして、給料が上がる理由がない。
もちろん何か資格を新たに得たとか、何かしらの試験やチェックで能力の向上が定量できたとかの条件があれば、その人物を雇用し続けるために人材価値の分を上乗せしていく市場作用はあるだろう。

こんなことを考えたのは、自分の過去の繰越した預金通帳を通して数年分見返してみて、案外じわじわとだが着実に手取り収入が増えてきていたということを再確認したからだ。
もちろんその間には組織内での位付けが上がったり、ポストが変わったり、転勤をしたりはしている。
しかし、自分が何か成長したとか、人材として能力が高まったとかいう具体的な証拠を挙げることは難しい。
もちろん経験知的な向上はあったはずだが、それは流動的な市場で確実に評価してもらえるものでもない。

今回の話を強引に心理的な観点から考えるならば、資本主義社会での被雇用による給与額は自信の根拠となる大きな一つの要素だということだ。
ある仕事をして、目に見え記録や記憶に残るような成果を残したり、感謝や賞賛を受けるということでも人は自信を得るだろうが、それを金銭というもので評価され受け取るということはもっともわかりやすい指標になる。
これは逆に、他者や集団などに感謝等の気持ちを表現するのに、金銭を通して伝えるということも同じことだし、社会や国家に対して税金を納めることによって貢献していたり共存関係を維持したりすることにも通じる。

お金、貨幣経済システムというものは、経済を流動的にするための柔軟な循環であると同時に、人々の日々の自信や安心といった感情やそれぞれ同士の関係を仲介するツールになっている。

2012-02-08 08:00

マネジメントを分割してメンタルヘルス商品化することは可能か

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下記2つのエントリに引き続いて、メンタルヘルスやカウンセリングなどを、ある組織がより良くなるために活用することについて考えている。

トラブル解決ではなく、プラス成長を求める社会 | deathhacks
メンタルヘルスは社会を導けるか | deathhacks

やはり、企業など組織の強みを向上させることに、外部から専門的に特化してメンタルヘルスなどを背景としたノウハウを持ち込んだり、コンサルティングするということは、マネジメントそのものにかなり大きく踏み込んだ仕事になるのではないか。
その企業やコミュニティの精神的な部分に影響を与えるということは重大なことだ。

そもそもこうした、その組織の魂や気持ち、一人の人間に喩えれば脳や心理に他者がアドバイスすることは可能か、あるいは非倫理的であったりはしないか。

ある人間をその人たらしめているものは、どこなのか、何なのかという問いの答えはまだない。
しかし、一般的に言って、手足や腹胸(はらむね)の中にある各種臓器を他人のものや人工物に取り替えたとしてもその個人の人格は保たれ、一方で脳(脳みそ)を入れ替えたらば同一人物とは見なされないだろうという不安定な認識はだいたいの人には了解してもらえるのではないか。

組織のマネジメントに踏み込む、ということは、人における大脳の移植や交換・改造とまでは言わないが、心理的な誘導や洗脳、思想注入との区別が常に確実にできるだろうかという疑問につながる。

組織マネジメントのどの部分をどのようにかして分割したり、アウトソーシングしたりすることが可能かに一定の答えはない気がする。
しかもこのとき、選んだ箇所が、その組織にとって競争力の核となるコア・コンピタンスであったり、他との差別化をもたらすいわゆるUSP(Unique Sales Point)のようなものであれば、結果としてデメリットの方が大きくなるかもしれない。
このリスクも含めた検討と意思決定が要る。

こうしたマネジメント・バイ・メンタルヘルスとでも言うようなものを外部から提供する側の立場だとすると、効率化のためにはアドバイスやツールなどを普遍的なものとして開発・定義をしたり、ユニット化した商品を作ったりすることを目指すべきだろう。

こうして考えてみても、旧来のメンタルヘルスのイメージから脱却していないとどうしても余計な仕事を拡張しているのではないかと思えてくる。
社会で考えてみるとこうだ。
いくら医療が大事でも、国家予算の大半をそれに注ぎ込んだり、皆が皆医者を始めとした医療職などになってしまうわけにはいくまい。
国防が大事だと言っても、国民の大部分が軍人であったり、自衛官であったりする国家は常に最適であり続けられるだろうか。

2012-02-07 09:00

パクリのちょっとした作法

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カウンセリングや講演、情報提供のテクニックやスタイルなどについては、上手なものや良いなと思えるアイデア・モデルがあればどんどんパクろうと思っている。
パクるのが嫌だとかダメだとかいう意識は自分にはない。
真似をしようと感じられるような情報が近くにあるということは幸せなことだ。

机上の空論ではなく、実践が大事とされ、結果がすべてではないにしても評価判定の多くを占める現場のプロフェッショナルとしてはとにかく成果だ。
成果はできるかぎり定量化できる、もしくは広く理解されるものとして出せると良い。

まずは成果を得るのが大事で、そのためにまずは真似やパクリで仕事をするのがいい。
その中、その後、現場で自分なり、その人なりのオリジナルの型がいつか出てくれば良い。

ただ、注意しなくてはいけないのは、真似る時に始めから「完璧に真似てみるのか」「アレンジを加えるのか」という判断をはっきりとしたほうがいいだろうということだ。
これが中途半端だと真似かどうかはともかくとして仕事の完成度は落ちることになりやすい。

もう一つはやり方などを真似たりパクったりしたとしても、その仕事の責任はすべて仕事をする人自身にあるのだということを忘れないように。
真似たり教わったりしたことをそのまま為して失敗したからといって本家のせいにしない、恨まない。

こんなことを考えてはいても、他人がまた別の人のパクリをしていてそれがうまくいっていないのを見ると一家言物申したくなってしまうのは私の性質。

2012-02-06 08:00

AKB48のメンバー同士は仲間なのかライバルなのか

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以前にAKB48のように現場を踏む | deathhacksというエントリを書いた。

このプロジェクトに学んだり、真似をすることを考えてしまう点は多い。

まず、全体が一丸となって一つの目標に向かう(テレビにたくさん出るとか、ヒットチャートをにぎわすとかがそれだろうか)ことや、他の歌手やアイドル、アーティスト、グループと人気を争うということは当然のことだろう。

しかし、そうした生存競争が、プロジェクト内でも常に発生しているというのがはっきりとさらけ出されているという部分は注目する。
これまでにもグループ内でライバル関係があるとか、人気順争いがあるとかいうものは無数にある。
それらと違うのは一つには人数規模の桁が大きく、新世代補充のサイクルが早く緩まないこと、もう一つはライバル関係を無理に隠そうとせずにコントロールしていることだ。

実際に複数のチームを組織内に作り、その商品やミッションごとの完成度や成果を繰り返し定量化するなどして厳しく評価している(されている)ように見える。

ただ、こうしたチーム内ライバル関係やポジション争いなんかは、例えばプロ野球ではすでにあるフォーマットだと言える。
そう。このフォーマットを用意すれば勝手に上手くいくとか、チームが強くなるというものでもないのが難しいところ、不確定要素だ。

このフォーマット、そしてシステムがうまく回ると、チームの団結は強くなるが慣れ合いは排除される。
自分の隣や目の前にいるチームメイトはライバルであるから目標にしたり、打ち負かしたりしなくてはいけない。
それと同時に大事な仲間や戦力だから、成長を促したり、教えたり、補いあってプロジェクトに貢献しなくてはいけない。

こうしたシステムはカウンセリングを集団で実践したり互いに学び合ったりする場でも使えるはずだと思っている。

2012-02-05 17:00

メンタルヘルスは社会を導けるか

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トラブル解決ではなく、プラス成長を求める社会 | deathhacks

上記エントリのテーマをさらに再考中。

カウンセリング技術やメンタルヘルス支援、心理学的知見や資源を、弱り切っている人や死にたいくらい苦しんでいる人、トラブルに困っている人などを危機的状況から浮き上がらせるために使うということは現在すでに試みられている。
しかしそれを発展させたような、より人生社会の幸せとか喜びとか生産性などを増やし充実させるようなことを、同じ分野の考え方やツールで目指すことは可能だろうか。

私は今の時点でそれが可能だとは思えない。
答えはノーだ。
ただしそれは、今答えが自分なりに納得して出せないから、というだけだ。
このテーマは常に持っておいて、いつか、何かのアイデアやきっかけで可能性が変わるのではないかと思う。

ちょうど様々なテクノロジーの発展や進化、あるいは適応される人や社会が変化することによって、想像やアイデアでしかなかったものが時代を越えて実現するように。

ただ、今すぐに、ではない。

このテーマは「大きい政府と小さい政府のどちらがいいか」というのと似ている。

社会の多数が弱くて、システムが脆いのであれば、仕組みとしてお節介なくらい個人個人をサポートして、導く部分が必要になる。
これは極端に落ち込むことがないという安心と引き換えに、責任を奪ったり制限を受けることを許すことを必然として要求する。

ある程度以上にモノや生活、文化が豊かにそして多種類に豊かになっている世の中であれば、制限や介入は最低限にし、リスクを選ばせるのが人間やそれが好む自由というものの基本ではないか。

この筋の考えでいくと、プラスをより増やすために、メンタルヘルスや心理の面から何かを与えるというイメージが具体的に持つことができないでいる。

2012-02-04 11:00