カワイイ、が好き!

「カワイイ」という感情の価値は至高の地位を築いています。特に女性においては、「キレイ」とか「カッコいい」よりも圧倒的に、「カワイイ」が好まれるでしょう。

カワイイという感情はとても素晴らしいものです。カワイイという感覚には心地良い、幸せであるというような感覚である「快」が含まれているからです。しかも競争などの勝利や物質・金銭・エネルギーの消費によって得られる快とは違って、敗者の存在や何らかの消失は明らかにはありません。これは、そう感じた主体と感じる元になった客体の双方にメリットがあるというカワイイの特徴でしょう。

何かをカワイイと感じた人間は快を感じた上で、その対象のことを心配したり、守ってあげたくなったりします。一方、カワイイと感じさせた側はそれによって守ってもらえる安心や自分の価値が認められたという自信が得られます。

万人がカワイイと思うもの代表は赤ちゃんです。なぜ赤ちゃんを見るとカワイイと思うのかについて考えてみてもはっきりとは説明できません。赤ちゃんのか弱さがその源のようにも思えます。カワイイものには弱さが含まれていることが確かに多いのですが、かといって弱いものが皆カワイイかというとそうではないようです。

カワイイには弱さや未熟さという要素が含まれることが多いので、欧米からは、カワイイことに大きな価値を認める日本の文化のことが、未成熟であると批評されることも過去にはありました。しかし、いつのまにかカワイイから派生した内容が含まれているジャパニメーション、マンガ、コスプレや萌えという日本発祥の文化や概念がglobalにも認められ輸出される現代になっているというのも面白いと感じています。

2010-03-28 11a.m.

異性間の友情、同性間の愛情

男女間に友情が成り立つか否か、というテーマに触れる度に「恋人たちの予感(原題が When Harry met Sally…)」という映画を思い出します。

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先日も友人との間でこの「恋愛感情抜きに男女が付き合えるか」ということが会話にチョロと出てきました。友人は、男性と女性の間でも同性間と同じように友情関係は成立すると言っていました。それは否定しません。

私が最近思うのは、逆に同性間でも異性間の愛情でイメージされるような強い友好感情があって良いのではないかというものです。もちろん同性愛というか同性間の性愛感情について考えたり意見を言ったりすると「政治的に」難しくなってしまうかもしれませんが。

私個人の感覚としては同性であっても異性であっても強烈に、魅力的だったり、ある分野で秀でていたり、凄みや畏怖を感じさせるような人がいると思えるのです。そういう好感情を感じるとその人の話を聞きたくなったり、何か役に立ってあげられないかと思ったりします。あるいは自分がその人に好かれたいという利己的な気持ちも出てきます。
このような感情がとても強ければ、極端に言って、性別というのはあまり重要な要素とは思えなくなってきます。もちろんこれは今の私の、一時点での思考に過ぎないのですけど。

さて、人間関係は感情という複雑で定量化しにくいものが背景にあります。好き嫌い、友情、愛情などは色んな比率で混ぜこぜになっているし、常に変化もしていると考えることもできます。むしろそれが無難で普通の意見かもしれません。友人だったものが結婚したり、別れた恋人同士が以後良い友人になるというのはまったく否定するものではありません。

2010-03-27 10a.m.

アスパラ生け花問題

記憶と想起に関連して、私が「アスパラ生け花問題」と呼んでいるものがあります。

ある物事について当人が「忘れたことすら思い出せない」という現象のことをそう名付けました。そうは言っても、その物事を完全に忘れてしまったのなら仕方ないし、問題にしようがないではないかと思われるかもしれません。

思い出したいことが思い出せないというこの現象が問題になるのは、それが繰り返し起こる場合です。想起した時には「あっ、これをやらなくちゃ!」などと考えますが、いざそれを実行するべきときにはその存在をまったく思い出すことができないのです。

なぜこれを「アスパラ生け花問題」と名付けたかを話します。

私が働くビルの階段の踊り場に、ボランティアで定期的に生け花を飾ってくれる方がいらっしゃいます。私には華道の心得はないのですがたまに立ち止まって鑑賞しています。

ある時私はその生け花を見てちょっと驚きました。普通の花や草木と併せて剣山にアスパラガスが生けてあったのです。見間違いではないかとしばらくマジマジと見入ってしまいました。しかしどう見てもそれはスーパーに売っているのと同じ、茹でたりして食べるグリーンアスパラガスのようでした。生け花や盆栽などには様々な植物が使われるのでしょうが、アスパラガスに対して食材としてのイメージしか持っていなかった私にとっては、それが生け花の素材にもなり得るということが頭でうまく理解できなかったので違和感が強く印象に残りました(笑)。

生け花の素材としてアスパラガスがよく使われるものなのか、それとも生けてくださっている方の流派が若干前衛的だったりするのかどうかは今のところ尋ねたり確認したりはできていません。

なぜならばその場所を通る度に「アスパラと生け花」についての疑問が浮かぶのですが、すぐに、それを調べるだとか友人に話してみるということをすっかり忘れてしまうからです。

似たようなことで、浴室で石けんが切れてしまっていることに気付くけれども風呂から上がると石けんの補充をメモすることを忘れてしまう、ということを何度も繰り返したという経験もあります。

人の記憶や想起には「ある場所」や「ある場面」などに強く結びついてしまうものがあるのかもしれません。するとその件に関してはあらためて同じような状況になるまで存在すら思い出せなくなってしまうのです。

これが石けんのことくらいであればいいのですが、何か人生の大事や素晴らしいアイデアなどについて、忘れたことすら忘れてしまうというのは、気になってしまうと怖い感じもします。

という訳で、私はまた「アスパラ生け花問題」に出会いながら、メモなどを取ることもなくしばらく抱えていくのかもしれません。

2010-03-26 3p.m.