初フルマラソンの板橋Cityマラソン2013を4時間25分で無事完走

2013年3月24日の日曜日、板橋Cityマラソンでフルマラソンを4時間25分(セルフタイム)で完走したので色々メモしておく。

トレーニング量は、まあ十分
コースはフラットでエイドステーションなどのサポートも手厚い大会
ちょっと大風呂敷を広げてサブフォー狙ってみた
キロ5分40秒のイーブンペースを設定
GARMIN910Xtではキロ5分30秒のパートナーを設定

天気曇り、風なし。マイナス要素なしw
ますますサブフォー、いきなり達成できるんじゃね?という気分のスタート前
ハーフまでは予定通りのタイムを刻み
30キロ前から足のダメージによりペースダウン
我慢してキープしようかとも思ったが攣りそうだったし無理w
無理せず早々とサブフォーは諦めてちゃんと完走することを目指す。お待たせしちゃうけど

エイドステーションはすべて利用
トイレは前半と後半、1回ずつ
最後、他のランナーにガンガン抜かれてヘコむ
歩いているランナーもいたけど歩かなかったが

終わって上半身ウェアだけ着替えて退散
完走セットは出走前に受け取れず、利用できず
でもエイドステーションで十分の大会
帰り、早くも階段が辛すぎ

家で風呂に入りゆっくりケアと故障のチェック、まあok

右足の付け根、右足首内側、肘内側(特に右)が感じる大きなダメージ
翌日、微妙なのは背筋、腹筋、これは良し
じっと寝ていれば痛みなし、これも幸い

2013-03-25?

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40歳になると直球が変化球になる

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40歳になると(私は実際にはまだ39歳だけど)、それまでと同じ言動をしていたとしても、あるいは自分自身を変革したパターンでも、周囲・社会の受け取り方は20歳代、30歳代のときのそれとは異なってくるのかもしれない。

かなり強引な一般論だが、40歳も過ぎれば、世の中や人生の様々なことを見聞きし、経験してきているだろうから、うまい具合にアクが抜けたり、適度に妥協することを憶えたり、今更自身や環境を変化させることを嫌うようになったりするような気がする。
私自身も漠然と、そういった中年以降の大人を見てきていたり、自分がそうなっていくこととを想像していた節がある。

しかし、自分がその地点に来てみると、そうした想定は一部は当てはまるが、結構な割合で外れていたり、まったく似ても似つかない方向性を持っていたりするような気がする。
そして、基本的にはそれが心地良い。
あるいは逆に、心地良くなろうとしていると、アクを出し、妥協せず、まだまだ変化していこうと思える。

そして、そうした性質が中年の自分にあると周りの少なくない人からは新鮮で異端で変わり者で掴みどころがない人間であるような評価を受ける。
まったく望むところでありがたいくらい。

プロ野球の投手が新人から20歳代のうちは速球派で鳴らしていても、30歳代も進むうちに技巧派・変化球投手にトランジションしていくケースはとても多いだろう。
それは悪いことでも奇異なことでもない。

しかし、そこで速球派のままにプレーを続けることができたならば、対する打者やチームは頭や目では理解していても「この年齢の投手がこんなにまっすぐ主体で投球を組み立ててくるはずがない」とか「勝負どころではやはり変化球で来るだろう」とかいう微妙な錯誤をする確率が高くなるのではないか。
20歳代の投手が時速140kmの球を投げ込んでもある意味、意外ではないが、それが40歳の投手であれば、魔球とまではいかなくても「逆に」変化球のような効果‐それはほとんど心理的なものであるわけだが‐をもたらすかもしれない。

ちょうど水島新司の「あぶさん」(違った?)に出てくる超ベテラン投手兼監督の岩田鉄五郎が、全力投球していて、打者としてはもうその疲労困憊の様子が高度な心理的駆け引きとしての演技なのか、本当にへばっているのがよくわからなくなって、結局打ち取られてしまうという場面が私には思い浮かぶ。

私自身の場合は、自己分析的にはさらにひねくれていて、20歳代のときにはさまざま人生や思考をこねくり回していて、言わば変化球を投げまくっていたような感じかもしれないと勝手に思っている。
そして、今ごろになって何を思ったのか、目一杯力んで速球をビュンビュンと投げたくなってしまっているようだ。
これが適切かどうか、体を壊さないか、続くのか、はたまた続けるのかはわからないが、当人としてはとにかくワクワクしているし続けたいという気持ちのようだ。

2013-03-22 08:00

あぶさん – Wikipedia

下の世代を批判することはできない

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テレビの情報バラエティ番組で、おそらく40〜50歳台以上の中年・壮年の人らへのアンケートとして「今の30歳台以下の年代(の人たち)に言いたいこと」という意見を取り上げていた。
いやまあ、こうしたテーマだと様々な意見というか、批評というか、諦めというか、感情がよく見えてくる。
「敬語を使えない」「根拠もないのに自身だけはたっぷり」「なんにでも『ヤバい』としか言わない」「すぐ言葉を略す」などなど。

こうした感じ方は間違っているとは思わない。
僕は今39歳だが、自分よりも年齢が下の人たちと接していても、自分自身についてでも、いつもではないが、時々日本語の操り方や人付き合いの中で「正しくなさ」を感じることはある。
しかし、それを上の世代が「批判的に憂う」とか「嘆かわしいと思う」というのはちょっと反応として単純すぎると思う。

たいてい、こういった他者への感じ方や批判(?)は、自分に対して感じていることの投影であったり、そうした要素を含んでいたりする。
今回の若年世代に対する感じ方の本質は「自分たちの世代が下の世代に敬語や他人への接し方を教えてこなかった」「自分たちが使ってきた日本語を下の世代が真似して憶えた」「上の世代を敬ってこなかった」などの反映だと思う。
なんのことはない。鏡のように、自分たちの若い時のことを見て、「もっとキチンとすればいいのに!」と嘆いているようなものだ。

人間は生まれつきに、知識があるわけでも、社会性があるわけでもない。

子供に社会性はない | deathhacks

学習は唯一、環境とそこにあるものへの模倣、つまり真似で進んでいく。
教えたり、お手本を示してこなかったのに、「なんでできないの?!」とか「学ぶ姿勢がない!」などと言うのはナンセンスだ。

翻って、なんでもカウンセリングの話につなげてしまうのだが、グループや組織、会社などで、カウンセラーなどを育成しているとして、「うまく後進が育たない」「人材教育が進まず層が薄いままだ」という問題を抱える状況は多い。
このときに起きる、初歩的な考え方のミスは、後輩などに対して「向上心が足りない」とか「結局自分で学んでもらうしかない」とか「私たちは自己責任で技術を身に着けてきた」とかいうように考えてしまうことだ。

こうした考え方は100%間違いだということではないだろうが、正しいとはとても思えない。
自分たちが教えてもらったことや、受け取ったチャンスや資源などをいつの間にか忘れてしまってはいないだろうか。
仮に自分たちが先人の教育や知識体系の恩恵を受けてこられなかったとしても、そうした労力をかけることを次の世代に継承する意味が果たしてあるのか。
あきらかにそれは負の遺産になってしまっているのではないかと僕は思う。

「苦労は買ってでもせよ」というのは概ね間違っていないが、その苦労の掛けどころや質を見誤ってはいけない。

他人に対してネガティブな感情が巻き起こったときに、それが本当に妥当か、実は今や過去の自分に対する批評家精神が活動しているのではないかなどのメタ視点を持つと良いと思う。

2013-03-19 07:00

自分が何者に見えるか

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鏡を見てそこになにが映るだろうか。

カウンセラーかもしれないし、医者かもしれない。
ただのサラリーパーソンかもしれない。

自分としては、何の変哲もない人に見えて欲しい。
その方が、なにか少しでも役に立つことができたり言ったりできた時に、意外性があって面白いから。

2013-03-17 13:00

Posted from Drift Writer on my iPad mini

世の中の偶然性がこわくなる

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いくつもの偶然がなければ、自分がここにいないし、経験したことも起こらない。

かと言って、すべてを必然で片付けようとすると、なにか、こう、畏れ多いというか、何物も自分ではコントロールできないような感覚を生むかもしれない。

2013-03-14 07:00

味覚を、変わりたい

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食べることは生きることに直結する。
量や概ねのエネルギーさえ確保できればすぐには死なないし満足できる。
古代には人類のほとんどが飢餓やその不安と闘ってきたとか、近代でも国家や政治の不安定で飢えていたという時代もあるが、それでも着実に食の安全は高まり、人類としての文化、文明、ノウハウは蓄積してきている。

逆に、現代だからこそ、摂取エネルギー過剰や、塩分過剰、脂質過多などによる生活習慣病のリスクが高まっている。
このリスクのやっかいなところは「人間の本能としてはリスクに感じられない」というところだ。
人類は、エネルギー欠乏や脂質の予備量確保、塩分を貯めこんでの体内環境整備を長らく追い求めてきていたから、それが簡単に確保できる状況になったからといって簡単にブレーキをかけることはできない。

まず、センサーを、味覚を、身体の感覚を敏感に取り戻さなくてはいけない。
そうでないと、せっかく医療の進歩や、政治・生活の安定で得た長生きできる利点や、文化・文明が進歩したことによる人生の楽しみを十分に受け取ることができない。
過剰なダイエットで死にかけるのも、グルメ気取りで食の快感に不適切に取り込まれ短命となるのも馬鹿げている。
ナンセンスだ。

勝間和代氏の最近の関心テーマとしても、食やダイエット、健康というものが多く取り上げられている。
これは、健康そのものが目的ではもちろんなく、健康であることによってやりたいことがうまく永くでき、より楽しんで生きることができるからだと理解している。
そして、そのための工夫や試みは、修行的な「苦あれば楽ありというような」報酬型ではなく、現代の叡智やツールをうまく使えば、過程そのものが楽しくなるのだとわかる。

自分も高校から大学の頃には、丸山淑生氏の食に関する本やエッセイを読んで、いたく感銘を受けたがその後実践をしてくることはできなかった。
しかし、今齢40を目の前にして、今後どう生きていくかを考えた時、食の工夫や立て直しはぜひともしたいところだ。
様々な出会いやきっかけもあり、運動への関心とともに、食へ挑戦も計画し始めている。

2013-03-12 07:00

話すことで自分が見えてくる

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2日ほど続けて、似た属性の人らと話をした。
多少話のテーマや内容は変わってくるが、自分が今現在関心を持っていることがどうしても出てくる。
これはトークが雑談だから当然なのかもしれない。

そして同じようなことを繰り返し話すことによって、少しずつ考えが深まったり、変化して思っていなかったような表現やアクションに繋がっていったりもしている。
話すことはその内容も大事だし、交流としても大切だ。
単なるリラクゼーションという面で見てもいい。
そして、既に述べたように深まりや変化といったクリエイティブさもある。

2013-03-09 07:00

世の中、巻き戻せないことも多いけど、取り返しのつくことだってある

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防衛医大に合格したが、いったん入学を辞退した。
翌日まで色々考えてやはり受験浪人になるわけにもいかないと思い直し、ダメ元で電話してみたらあっさりと「じゃあ、辞退を取り消しておきますので当日来てください」と言われた。

昔、そこそこ長く付き合ってきていた彼女に振られた後、数ヶ月後に向こうから復縁を打診され、自分としては迷うことなくOKした。

私の国のことわざに「覆水盆に返らず」というものがあります。どんな意味かわかりますか?

2013-03-07 08:00