遺体に「慣れる」ということはない

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事故や犯罪、災害など、あるいは業務・任務の上で死体を見た、扱ったときの心理的トラウマティック反応には、強い時、弱い時、まったくないときなど様々だ。
死体目撃反応をあまり重視していない人や、「(必ず)慣れるから大丈夫」と言い切る人もいる。

どんなものでもバランスが大切で、危険におけるリスクをどう測り予測するかの問題だろう。
確かに単に連続的に死体や遺体に触れても精神的・肉体的に「平気」ということはある。

実際、衝撃を受けて危険な可能性が増えたり、心理ストレスが遷延してしまうのには、いくつかのパターンがある。

  • 小さな子どもの遺体
  • 遺体に苦しんだ様子が見られる
  • (生前の状況から推察して)想定外の死が訪れている

などだ。

これらは各種の研究でも似たようなことが既に繰り返し述べられている。
(他に、遺体の損傷が激しい、複数の遺体を同時に扱う、なども)

要素の背景にあって共通するのは「残酷」あるいは「悲惨」な「ストーリー」を(接触し、扱う人間が)思い浮かべるか否かだ。

逆に考えると、遺体を扱ってもASD、ASRがないか少ないのは、「(いわゆる)大往生」「お別れを十分にできあきらめられた状況」「人事を尽くしての結果としての死」などの場合ということになる。
現代の日本であれば、医療機関における死というものの多くは、上記の条件を満たすだろう。
さらに逆に、医療職や警察勤務、消防勤務などであっても、遺体に「慣れる」ということや、多数の経験をもとにある個人の遺体ストレス耐性を高いものを評価することは適当ではないとも言える。

2012-11-30 08:00

自分が癌になった夢をみた

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それなりにリアルな、自分が死ぬかもしれないというようなシチュエーションの夢をみると、そういうときに自分がどう行動するか、何を考えるのかを割りに正しくシミュレートできる。

怖さや冷静さ、行動や言動、思うことと考えることなど。

現実世界での行動が変化するきっかけにもなるかもしれない。

しかも、そうしたシチュエーションが仮に現実なったとして、シミュレーションとの違いを確認するのも興味深そうだ。

そうした準備はネガティブな状況であったもポジティブな原動力になる気がする。

2012-11-29 09:00

惨事サポートにおける諸刃の正常化

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惨事に遭って、不眠や悪夢、イライラや茫然自失、幻としか思えないような感覚などを体験している人に対して「それは無理もないよ」「そう思うのも当然だ」と正常化してサポートすることは本当に効果的だ。

しかし、このことが定石やコツだとしても、当然100%うまくいくわけではない。
相手やその時期によっては、正常化が「攻撃」になる。
その感覚は暗黙知的なもので簡単に伝えたり教えたりすることはできない。
人知を超えているのだろう。やってみるまでわからない、ということだ。

ただ、惨事やイベントから時間が経てば経つほど、正常化にネガティブなメッセージが加わる可能性が増えるということだけは憶えておくといい。
こうしたちょっとしたコツは経験が乏しくてもなんとか学んでいくことはできる。

2012-11-28 09:00

労う言葉さえ相手を襲う牙となる | deathhacks

資格やプロフィールをアピールするときの緩急

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資格や特技を持っていても、それらをどのように外にアピールしていくかは単純ではない。
保有しているものをすべて名刺やFacebook、Twitterなどのプロフィールに書けばいいというものでもない。

あまりにたくさんあって書きすぎても焦点がぼけてしまう。
絞りすぎると後から補足するのが面倒だ。

どこに向けて表明するかも考えなくてはいけない。
ある範囲の人に対しては効果的な情報が、別の人たちに対しては効果が無かったり、さらに逆にネガティブな印象にしかならない時もある。
ネガティブ方向を考えると、なるべく情報を限定する方がいいのだろうが、ここは割り切るところだろう。

所属や自分の生活・仕事の背景も、どこまでどのように表現していくかは工夫の余地が大きくある。

2012-11-27 08:00

「北のカナリアたち」にみる惨事反応 – マンガ、映画、小説で知るうつとPTSD その2

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映画「北のカナリアたち」観てきた。

#movie 48 ★★★★ 『北のカナリアたち』 前半のトラウマ心理の描写がうまくて合点。後半からどうラストに持っていくかだったがこれもまた予想させつつも納得感動。演技が良いのは安心として川井郁子のヴァイオリンが素晴らしい。 http://t.co/f4lCrBXa

@neti2

小片武

「北のカナリアたち」に関する感想 / coco 映画レビュー

物語は現在と20年前を行き来しながら進む。
20年前に起きたある事件についての体験記憶を登場人物がそれぞれにふりかえる。
過去当時には語り合わなかった、あるいは語れなかった「それぞれの事実」を吉永小百合演じる元教師を中心につないでいく。

特に映画の導入・前半では、人物の記憶と物語、そして感情のズレが大きなものであることがわかっていく。
ズレは最初は小さいもので、人生を強く傷つけるようなものではないはずなのだが、ズレが傷を、また傷がズレを増幅していく。
そんな様が心理的に興味深い。

2012-11-24 12:00

映画オフィシャルサイト

映画『北のカナリアたち』|東映創立60周年記念作品

映画の原案となった小説はこちら

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全部捨てる男

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持ち物をすべて捨てることは可能だろうか。
現代社会にはさまざまな制約や制限があって、捨てることさえ完璧な権利としては持つことはできない。

お金を捨ててしまえば、食べ物もサービスも買うことができない。
服を捨ててしまったら、外出できないし、しても逮捕される。寒さや暑さをしのぐのも難しい。
身分証明できるものを捨ててしまったら、今の日本では生活も保証はされない。

捨てる、ことは権利としてはあるし、最大限確保されるべきもののように思えるが、限度がある。

最近の断捨離や整理整頓ブームの極端な方向を考えてみた。

2012-11-23 14:00

自分の家で料理したり食事をしたりすることが珍しいことになっていく

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食事、料理は専門家や専門サービスが担い、個人や家庭で料理をすることは稀になり、趣味やニッチとして残るのみになるだろう。

こんな話をすると、食文化の否定のように思われたり、家庭の味や食事を通したコミュニケーションが無くなるわけがないと感じられるかもしれない。

だが、例えば農業について考えてみて欲しい。
大昔には家族や村単位で自給自足的に農作物を作り生活していた。
しかし、今では人口が増えたことにより(そのことが鶏なのか卵なのかはわからないが)、一部のプロが大量生産をして、その他の人類に供給している状態だ。
家庭農園や菜園などを玄人はだしでやっているというのは、やはり趣味的なものであるか、余程特別なニーズか志があってのものだろう。

また、医療についても挙げていこう。
家庭ややはり村などで、病や怪我を処置したり、治したりといったことは生き物としてヒトにとっても自然で重要なことだっったはずだ。
そこへヒポクラテスを象徴的な始祖として「医学」という概念が生まれ、科学と論理・経験の積み上げと継承によって専門的手技や体系、サービスとして確立され続けてきた。
今では一定以上の医療については、家族や一般人が為してはいけないというまでになっている。

このように農業や医療が一般人や家庭から奪われた。否。社会への適応や効率化を目指した自然な結果として、工業化、産業化、サービス化、専門家が起こり、一般の人間はその成果を利用して別の部分での仕事や生活にエネルギーと時間を向けることができるようになったのだ。

こうして考えると、個人や家族の中で料理をして食事をするという様式が、数十年か数百年かの時間をかけて、まったく存在しなくなることはないにしても、とても珍しい文化行動になっていくのではないだろうか。

2012-11-22 08:00

現場が経営を気にしてはいけない

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ある仕事をする上で、ステークホルダーが2人以上いる場合、両者に利益をもたらすことは結局不可能だ。
どちらかのプラスを最大化しようとすれば必ずどこかに無理が生じたり、かける労力や時間を配分することが必要になる。

人間はどうしてもマルチタスクな言動をすることができないという事実もある。

人間は一度に一つのことしか認識できないからストーリー(流れ)が必要になる | deathhacks

どうすれば良いかといえば、現場とマネジメントを分けるしかないだろう。
現場が利益やら、法律やらをいちいち気にしなくていいようなシステムや責任構造を管理者や経営者は作るべきだ。
現場の人が目の前の顧客やサービス、製品だけを見ればいいように。

以前にコンビニエンスストアなどであっても、従業員一人ひとりが経営者の目線を持って働くことで組織が良くなり成果が上がる、という言説があった。
ここまでくるとケースごとの議論になるだろう。まったく否定はしない。

しかし、やはり人間や限られた時間、資源を最大限に活用することを考えると、仕事と管理をどこかで分離するべきだ。
そして管理者は現場に対して「速く、そして安全に働け」という相反する命令指示を出してはいけない。
「速く」を追求させるならばその結果起こるミスや精度を別のシステムで補う。
「安全に」を最優先にするならば、効率が最適化されていなくても成果が上がる工夫を凝らす。

2012-11-21 08:00

(追記)

人を責めるのではなく、システムを変えよう – 脱社畜ブログ