遺体に「慣れる」ということはない

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事故や犯罪、災害など、あるいは業務・任務の上で死体を見た、扱ったときの心理的トラウマティック反応には、強い時、弱い時、まったくないときなど様々だ。
死体目撃反応をあまり重視していない人や、「(必ず)慣れるから大丈夫」と言い切る人もいる。

どんなものでもバランスが大切で、危険におけるリスクをどう測り予測するかの問題だろう。
確かに単に連続的に死体や遺体に触れても精神的・肉体的に「平気」ということはある。

実際、衝撃を受けて危険な可能性が増えたり、心理ストレスが遷延してしまうのには、いくつかのパターンがある。

  • 小さな子どもの遺体
  • 遺体に苦しんだ様子が見られる
  • (生前の状況から推察して)想定外の死が訪れている

などだ。

これらは各種の研究でも似たようなことが既に繰り返し述べられている。
(他に、遺体の損傷が激しい、複数の遺体を同時に扱う、なども)

要素の背景にあって共通するのは「残酷」あるいは「悲惨」な「ストーリー」を(接触し、扱う人間が)思い浮かべるか否かだ。

逆に考えると、遺体を扱ってもASD、ASRがないか少ないのは、「(いわゆる)大往生」「お別れを十分にできあきらめられた状況」「人事を尽くしての結果としての死」などの場合ということになる。
現代の日本であれば、医療機関における死というものの多くは、上記の条件を満たすだろう。
さらに逆に、医療職や警察勤務、消防勤務などであっても、遺体に「慣れる」ということや、多数の経験をもとにある個人の遺体ストレス耐性を高いものを評価することは適当ではないとも言える。

2012-11-30 08:00

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