最近考えている命題など

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■ 「偉人」とそれ以外の人間を分けるものは何か?

■ やるべきことをやり、きちんとすべきことをきちんとすること

それによって初めて、感動、格式、伝統、成果、効果が生まれる

■ expert (学者)は内容責任。professional (business) は結果責任

■ コミュニケーション=会話。会話とは、話す、聞く、まとめる

■ 自己紹介「人間のほうを研究しています」

■ うつが治るやり方を四苦八苦して考え、探すのではなく、治らない理由を考える

何が邪魔をしているのか?
「多くのうつは(自然に)治る」
「普通はこうだ」という考え、感覚を持つ
いくらうつが増えたとは言っても世の中うつではない人の方が圧倒的に数として多い
きっとちょっとしたズレやボタンの掛け違え、認識のミスがあって、それによってうつになったり、さらにはうまく回復しないのだ

2012-05-31 07:00

ユーザーの声を聞くだけ

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顧客の声を直接に聞くことはとてつもなく大事だ。
それ以外にできることやれることやるべきことは、考えて行動することしかない。

自然とサービスや営業などのフロントラインに位置していて、消費者と会話することができるならば、こうしたことをことさら意識はしなくて良い。
しかし、自分の立ち位置がそうではないとか、そうである時間が少ないということに気づいたのならば、意識して積極的に前に出て現場に立たなくてはいけない。

本当の答えは顧客自身が知っている。
自分の問題は私自身しか知らない。

現場、現場、そして現場だ。
悩んだり、停滞したり、引っかかったりしたときには、現場に出て、外を動き回り、風や空気を感じて、身体を動かし色々な汗をかくと良い。

刑事ものの小説やドラマなんかと同じ原則がビジネスにも当てはまる。
「現場百遍」だ。

2012-05-30 09:00

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カウンセリングのトレーニング方法に武道を取り入れることができる

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昨日のエントリ(ワレイガイミナワガシ | deathhacks)で書いた、都道府県対抗なぎなた大会を観に行った話の続きを。

本戦競技の他にとても興味深い企画が行われていた。
異種競技というやつだ。
異種格闘、と言えばアントニオ猪木-モハメド・アリ戦などを思い浮かべて、格闘技経験がなく熱烈なファンというわけでもない私でも血が騒ぐというかワクワクを感じる。

今回の異種競技というのは、大会競技メインのなぎなたと剣道の代表者同士による団体対抗戦だった。
(もしかして、結構コレって定番イベント?)

5対5、先鋒から次鋒、中堅、副将、大将と順に5試合が戦われた中で、どちらが勝ったと想像するだろう。
道具やルールが違うというのは当然として、また剣道チームの5人中4人が男性であとは女性1人、なぎなたチームは全員が女性と、技術がものを言う武道だろうとは言え、まったく予想のつかないまま試合が始まった。

結果、なぎなたチームが4勝1敗で、取った本数でも9本対4本と大差をつけて勝利した。

スポーツとして、また異種対抗のエキジビションマッチとして、面白いものだったが、やはり私もそこから様々考えた。

なぎなたが勝った理由のいくつかは明らかだった。
竹刀に比べたなぎなたの間合いの長さと剣道にはない「スネ」への有効打(ルール)だ。
ほとんどその点だけで圧倒したと言っていい。

素人考えでは、剣道は、普段の、あるいは中途半端な距離間合いではなく、グッと詰めて戦うのが良かろうと思えた。
結局離れていればこちらの打突は物理的に届かないし、近づけばこちらのやりにくさ以上になぎなたは長さを持て余すのではないかと思った。
しかし、このため専用に研究や特訓をしているはずはきっとないから、頭でわかっていたとしても実際の場では実行できない。
そういうことだったのだろうと思う。

ここでの「間合い」というのはカウンセリングで言えば、カウンセラーが取るべき表情やうなずき、場の空気や要約・質問、押し付けにならない助言というか提案などだと考えた。
剣道・なぎなたなどの武道でも、カウンセリングという専門性が高い技術能力でも、最終的には技術そのものの確かさや精度、精神力などが重要だろう。
しかし、まずより簡単に基礎として用意した方が良いこと、できることはそんなにややこしいものではないはずだ。

剣道やなぎなたで言えば間合いは変化や揺らぎはあるにせよ、ある一定範囲内に保つことが有利不利や技の使用に影響する。
乱暴に言って、これは単なる「距離・長さ」だから、教えたり慣れたりするのは難しくない。

カウンセラーがどんな表情をし、間をうまく取り、適切に質問やアドバイスをするかも、一定範囲の型をつくり反復して練習できる。

おそらく武道でも、カウンセリングでも本質は同じ部分がある。
これまで、練習で学び、あとは実践形式、あるいは本当の実戦で暗黙知として一人一人が努力しなくては向上しなかった部分を、真っ先に型として提供してしまえばいい。
剣道などでは、試合のロールプレイをして、対戦者との距離を数cm単位で「測定」して、そこからの動きや対応・変化を練習する。
カウンセリングではすでに私の周辺ではメッセージコントロールという概念で体系的に整えつつあることでもある。

2012-05-29 08:00

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ワレイガイミナワガシ

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あらためて、日常のあらゆるものから学ぶことができる、ということを実感している。

色々フラッと立ち寄ったり、偶然出会ったものを眺めたり、そうして見たもの、気づいたこと、感じたことが、私であれば今もっとも関心を持っている、心理研究やカウンセリングに役立つ。

人間は世の中あらゆることに関わっているし、世界から影響を受けている。
そこでの個人や集団、社会の有り様や動きは、どれほど分野や見かけが違っていても心理的な視点で見て参考になるし、同様のものを適用できる。
人間そのもののしくみや心理は同じだからだ。

「あらゆるものがヒントになり、学ぶ素材になる」
本質は一緒だからだ。
「本質は一緒」というのもメタに考えると、それ自体「本質」でもある。

今回私は「都道府県対抗なぎなた大会」をふらと観に行って、様々な興味深いことに気づいたり発想したりすることができた。

港区公式ホームページ/港区スポーツセンターで「第53回都道府県対抗なぎなた大会」を開催します!

競技自体を元々よく知っているわけではないし、経験があるとかいうのでもない。
場所や「スポーツ・競技」というカテゴリーそのもの、そしてそれに参加したり運営したりしている人や組織など、そういったものに興味がそそられる。

こうした、普段自分が生きて生活している分野や業界とはまったく違うところで、感覚を敏感にして、色々と観察し、発見することはとても楽しく、有意義だ。

私のメンターの一人も座右の銘にしている。
「我以外皆我師」だと。

我以外皆我師 – Google検索

2012-05-28 07:00

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管理職を観察する、管理者は観察される

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管理職やマネージャーなどが周囲からどのように見られるかということを、考え、色々気づくと愕然とする。
ここで言う「どう見られるか」というのは、組織外や一般社会からどうというよりも、組織内や身内、部下が自分の上司や管理者をどう見るかということだ。

私自身は継続的な管理職やマネージャーの立場になったことはない。
だが、そうしたポストの人らが、どういうプレッシャーを感じたり、試されたりしているかを、見る側として想像したり考察したりすることはできる。
そうすると「逆の立場になったらコワイなー」と思う。

部下(ここは限定してそういう言い方にしておく)は、例えば上司とたまたまトイレで隣り合ったりしたときに、話しかけてくるか、挨拶はどんな感じで固いか砕けているか、自分が今回している仕事や状況をどれくらい知っていてどう気にしているか、などを観察している。
皆がみなそうではないかもしれないが、私はそうする。
ということは、これが逆の立場になったとしたら、自分は試される(言葉としては少しどぎついけど)ことになるわけだ。

あるいは、部下は、上司と自分以外の従業員が、何を、いつ、どうんな風に話しているかなどを気にしている。
自分や自分の仕事に直接には関係しなくてもだ。
これも、人によっては違うかもしれないが、私はそうだ。

人間はやはり、自分に影響力がある人や環境に、興味を持たずにはいられないのだ。
これはその人や状況が好きとか嫌いとかいうこととは違う話だ。

人間関係や心理は社会と不可分だ。
そして、関係性というものはほとんど常に相対的・相互的なものでもある。
こちらが相手を見ているとき、相手も自分を見ている(ことが多い)。
自分が相手を観察しているときには、自分も(その相手からとは限らないが)観察されている or いつかは観察されるということを忘れないようにしなくては。

2012-05-27 10:00

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プレゼンと要約とトレーニングと常在戦場と

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カウンセリングでも研修講師でも、一連の話をうまく要約してプレゼン提示するスキルが問われる。

このスキルをトレーニングするのには、リアルな出来事でも、読んだ本でも、観た映画でも、あらゆる素材とあらゆる機会を使って、近くの人にプレゼンをしてみるのが良い。
お互いに「最近なにか面白いことあった?」「えーと、実は昨日ねぇ…」…「へーっ!」とか「あっ、それ最近売れてる本だよねー。書いてるその人って、元々どんな人で、なんでそういう仕事してるの?」「うん、読んだとこまでだと、こんなことを言っていてだね…」とかいう風に、日常の中で「要約プレゼン合戦」を数積み重ねる。

要約のコツとポイントは3つだ。

1 全体からバランス良く要素を取る

内容の始めから語るとか、時系列にしゃべるというのは、結局全体の映像を思い浮かべてもらうには不適当だ。
ここで今ポイントを強引に3つに絞っているのと同じで、短時間限られた中ではどうせすべてを伝えられないという覚悟をして、自分の頭や心に残った部分を印象が強かった順に並べていく。
ここで「全体」と言っているのは、例えば本であれば、自分が読んだページまで。

2 事実や実際に書いてあることだけでなく感情や印象も語る

事実だけでは、間違わないが、面白くない。
話の主人公や作品の主題に沿って、作中の感情や驚き、ドキドキワクワクについて話す。
自分の主観でも構わない。

これらと出来事と、あと多少の時間感覚・時系列情報があれば、聞き手は半ば「勝手に」物語を作り出して理解する。
理解がうまくいかなかったり、誤解があれば、あとから一緒になって修正していけばいい。
これもまた、プレゼンの醍醐味。
プレゼンというものは、情報が伝わることと同時にコミュニケーションをすることが目的であり、手段でもある。

3 要約に楔を打つ

理想的には、最初と、途中と、最後に、まとめを入れる。
まとめはあなたの「自分結論」だ。
「これは楽しい話です」「失敗しちゃってちょっと凹んだ出来事なんですが…」「とても有意義で興味深い本だと思ったんですがどう思います?」
楔は、カテゴリータイトルやタグのようなものと思ってもいい。
話し手と聞き手のズレはOKだが、ズレ過ぎはNGだ。

まとめ

日常をプレゼン・要約の修行の場に変える。
常在戦場。

2012-05-26 09:00

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(追記 2012-05-30 関連エントリ)

物事は必ずストーリーを帯びる | deathhacks

私が「自己一致」している理由

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カウンセリングやメンタルヘルスの議論を数人の勉強会でしていて「自己一致ってなんだろうねー」という話になった。
教科書的に考えれば、この言葉のそもそもの始まりはカール・ロジャーズの来談者中心療法、そしてその方法論や理論の中で提示されたもので、それが変化しながら利用・研究されてきたということになる。
いわゆるカウンセリングがうまくいく条件としては「受容」「共感」「自己一致」という三位一体のものとしてよく語られる。

カール・ロジャーズ – Wikipedia

話は自然と、「自己一致って理想だけど難しいよね」とか「こないだ知り合いが自信満々に『私は自己一致しています!』と言い切っていてちょっと引いちゃった。。」という感じになった。

自己一致は原典の単語では genuineness というもので、なかなか日本語としてぴったりと変換することも、概念を理解したり、皆で共有したりするのにも骨が折れる。
また、その意味するところの素晴らしさや大事さはわかるのだが、具体的に現場や自身に反映するとなると途端に絶望的な距離を感じてしまうことが多い。

しかし、ふと私自身について考えてみると、意外に「自己一致できている」と感じてしまう。
そのことをそのまま、その場の議論でも出してみたのだが、そんなに反論は出て来なかった。
というか、こういう自己認識やカウンセリングという不可侵・守秘ガチガチの現場での主観をいくら他人が出して見せてきても、結局別の人間が厳密に吟味したり評価したりはしにくい。
それは余程うまく機能しているスーパービジョンや教育分析という枠の中でだけ適切にされる可能性が高まるものだろう。

ただ、さらに進めて考えると、私自身は本当に自己一致しているというよりは、「自己一致している部分しか外に出さない。勉強会であってもカウンセリングであっても」ということかもしれない。
カウンセラーや人間すべてが、突き詰めて自己一致が義務だ理想だなんだと言い始めたら、皆修行している間に寿命が来てしまう。
不完全な人間が他人を絶対に支援してはいけないとかできないとか言うことはナンセンスだ。

これは「自己一致」だけでなくプロフェッショナルなカウンセラーとしての「健全性」についても言えることだ。
健全性や常識は必要だが、パーフェクトでトータルなそれをいつでもどこでも求めるのは不適当だろう。

私の理解する genuineness は「凄み」だったり「ブレのなさ」だったり「覚悟」だったりといった言葉の周辺ニュアンスだ。
完璧な人間はいないだろうが、限定的な分野や場面での能力や統合の高さはトレーニングや学習ができるものだし、評価などを共有して仲間内で高め合う事ができると思う。

2012-05-25 07:00

(関連書籍)

クライアント中心療法 (ロジャーズ主要著作集)
カール・R. ロジャーズ
岩崎学術出版社
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学ぶことのルールが変わった

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私が思うに、物事を学ぶことのルールが変わってきている。
事実や知識をインプットしたり、受け取ったりしているだけでは、本来得られるものの半分にも満たないし、学習したことにはならない。
アウトプットする以外に、真の学習や成長はない。

いや、確かに大昔から同じ事は言われてきている。
「教わるだけではなく、他人に教えることで知識や技術が本当に自分のものになる」というのはそこここで聞かれてきたことだ。
しかし、破壊や変化の時代では、このことを頭に入れて、もっと自身を追い込んで学ばなくては使いものにならない。

次の変化・混乱・実践の時代でサバイバルするための準備運動 | deathhacks

今まで理解されていた「学習」のしくみは「教わる者が知識や情報、技術などをゲットして成長や利得を得る」というものだった。

しかし、実際は(実は古来からそうであることは変わっていないのだが)学んだ気になっている者は、何も学んでいないし成長していない。
極論としてはそういう認識をした方がいい。
出力して教えた者だけが、学び、成長していく。

例えばメンタルヘルスの学習やトレーニングで言えば、「うつっていうのは◯◯というように解釈して説明すると良いんだよ」とレクチャを受けるとする。
それ自体がいけないとか無駄というわけでは決してない。

しかし、そのあとのアクション、行動、思考が問題であり、成長するか否かの明暗を分ける。

「なるほどー。腑に落ちた! 今日はいいことを勉強して得したな。。」というように感動感激して終わり止まってしまったら、当人の満足感や充実感とはまったく違って「身に付いてはいない」。

どうすれば良いかと言えば、受けた内容や理論を足がかりにして、自分なりに咀嚼消化して、再構成し、「今議論していることは、つまり、、こういうことですかね?」「〇〇という表現もあると思うんですが、聞いてみてどうですか? かえってわかりにくいでしょうか?」と、投げ返して「うん。良いのじゃない」「なるほど。悪くない」というように他人の頭や感情に響かせるのだ。
これを質と量、両方膨大に積み上げていって、初めて「学ぶ」ことになる。

だから、過去に言われて、歴史が示しているように、教え、アウトプットしてきた者が一番理解し、成長し、得をしてきたのだ。
これが「勉強するのには他人に教えるのが一番良い手段」と言われてきた理由だ。
今の時代にはなおさらこれが当てはまる。

変化の時代には、皆不安が強くなるから、なおさら「教わって満足し、安心する人」と「チャレンジしてアウトプットして試行錯誤、失敗を積み上げる者」の差が生まれていく。

近年、勉強会やセミナーが盛んで、その動き自体はとても良いと思う。
しかし、その中での参加者や主催者の中でも、今回説明したような、教える側と教わる側の間の成長格差というものはドンドン進行していく。

私から言わせれば、勉強会などにお金を払って参加しているということは、無駄とまでは言わなくてもとても費用対効果が悪いトレーニングになりかねないという危険がある。
実は、勉強会やセミナーを主催し、チャレンジやアウトプットを1つでも多くしている者は、対価を得た上に成長までしてしまえる、好都合な位置取りなのだ。
しかも、まだまだ多くの人はそれに気づいていなかったり、その位置に向かって踏み込んでいけていない。

学習のしくみというものは、一見誰でも理解しているようでそうではない。
当たり前と思っている部分や細部から変化していかなくては自身は変わらないし、変わっていく世の中で生き残ってもいけない。

2012-05-24 09:00

(関連URL、追記2012-09-07)

払うべきか、稼ぐべきか – Chikirinの日記

メンタルヘルス現場での特別感

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クライアントをサポートするときには、常に「特別感」というものにも配慮する。

これは、特別感を出せ、ということでもない。

人や状況によっては、なるべく特別感を出さないように気をつけることも多い。

人間、特にピンチのときには両極端の反応や感覚が存在しやすくなる。

「特別に扱って欲しい(そうしてくれるとありがたい)」と思うこともあれば、「自分だけ特別扱いするな!(自分は困ったり弱ったりしているわけではない)」と考えることもある。

すべての配慮は、サポート側が良く思われたいからとか、何かしらのリスクを避けたいからという考えで始めるのではなく、クライアントのリアルタイムな感覚を起点にするのが道理だ。

2012-05-23 08:00

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次の変化・混乱・実践の時代でサバイバルするための準備運動

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神田昌典氏の「2022―これから10年、活躍できる人の条件」を読んだ。

2022―これから10年、活躍できる人の条件 (PHPビジネス新書)
神田 昌典
PHP研究所
売り上げランキング: 108

この本に書いてあるようなことに、そのまま賛成するにも、反論するにも、自分には現状難しいし時間がかかる。
だが、大局的に物事、時代や世界の流れを見つめ直してみるという行為は興味深い。

例えば、私の浅い知識と理解でみてもやはり、「時代」というものは似たような内容を大きな波として繰り返しているように思える。
その視点は二極論だが、「安定・情報統制」と「変化・既存のものが役に立たない実力と実践の世界」の二者だ。
静でなければ動、動でなければ静、という0か1かの考え方だから当たり前なのだが、この2つの性質を主にした時代が繰り返されている。

  • 原始時代、古代 → 生きるか死ぬか、生死が隣り合わせ、弱肉強食
  • 王家、公家の時代 → 根拠のない(それ自体は悪ではない)伝統的支配、階級の固定、集団・種としては繁栄
  • 戦国、戦乱、戦争の時代 → チャンスとリスク両者が豊富な世界、実力や実践が重視される
  • 工業・商業・政治の時代 → 生活・地位・国家間関係などが安定、全体として見れば豊かであるが変化やチャンスに乏しい、保守的・守備的

次には、どんな時代 or 世界が来るだろうか。

  • 2012年 〜 2022年 〜 → ?

それは、来るか来ないか、という話ではなく、いつ来るか、そのときに自分はどう行動しどう生きるかという思考を強制的に迫られる環境だ。
次の大災害についてと同じように。

2012-05-22 07:00

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