人間の本性はどこからどこまでか

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ある国では子供や若者が日常茶飯事のように盗みを繰り返しているとする。
盗みは犯罪だ。
法律のあるなしやその判断基準などの差は国によって違うだろうが、ここでは一応他人のものを正当な理由なく奪うことを罪なこととして考える。

盗むことは、それを行った人間の本質だろうか。
その人間が本性として犯罪者だから犯罪を犯すのか。

常に盗みをしてきた人間を、例えば日本に連れてきたとしたら盗みをするかといったらしないのではないか。
盗むにしても周りに仲間はいない。
盗んだものを売ろうとしてもルートはなく、買取り手がいない。
お金を盗ったならば使いやすいかもしれないが。
警察は十分に優秀で犯罪に対する仕打ちは強い。
つまりリスクが高い。

話を大きくして、日本できちんと生活するならば盗みのような犯罪をすることは割りに合わないかもしれない。
一般論としての犯罪への抑止にはいくつかの方法がある。
刑罰でプレッシャーをかけて止める方法。
予防や警備をして犯罪以前に防ぐ方法。
犯罪を犯すよりも楽に気持ちよく十分に必要なものを得ることができれば盗みなどをうる必然性はない。

日本が安全であったり、犯罪の数が少なかったりするのは国という単位の中で様々な要素が組み合わさった上でのことだ。
それは社会というシステムでもある。

決して住んでいる人間が皆、道徳心に富んでいて、真面目で悪いことに手を染めない性質だからという「だけ」ではない。
長年の蓄積やお互いの関係性、教育などの上に安全や防犯は成り立っている。

かなりの飛躍になるが、そう考えると、人が盗むにしてもサボるにしても、殺すにしても、不正をするにしても、純粋にその個人の責任と考えるのが難しい気がしてくる。
とは言え、考えを進めて、個人の行為や言動などをすべて「社会のせい」「システムのせい」とするのも不適当だ。

人間と社会、個と集団をどのように捉えればいいかという問題になる。

2011-10-30 10:00

カウンセリング単独でこれから存在できるか

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カウンセリングに来るには言い訳が必要だ。
それは死ぬほどせっぱつまった状況でもいいが、人間は困ったときほど却って助けを求めなくなる。
対応としてはデメリットばかりで矛盾しているがそういう傾向や性質があるからしかたない。

現実に、カウンセリングとまではいかなくても悩み相談のようなものが日常的に行われている場は多い。
それは医療の合間だったり、食事やサービスを提供する店の隙間だったりだ。

ところが最初から、相談やカウンセリングを主な目的としないで、付加サービスの体を取るとそれはそれで「契約」上微妙な関係になってしまう。

2011-10-29 10:00

(気になった発端のTweet)

2007-11-27の日誌より

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別のケースでも、被害妄想的に思考、シミュレーションしてしまっていたり、悪く考えてしまいすぎたりすることはあったが、このケースでは悪い方への思考はやや弱い
相手はそれほど真剣に私のことを考えていないよ
だから相手が自分が自分のことを心配したり考えているのと同じくらい頭を使って考えている、という仮説でシミュレーションすると「策士、策に溺れる」みたいなことになるかもしれない

2011-10-28 11:00

感動してウルウルする

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悲しかったり、苦しかったり、悔しかったりしての涙は助けを求めるためのサインだと理解できる。
これは意識的か無意識かということは関係ない。
痛みだったり熱さだったり眩しさだったりが精神論で克服できないのと同じことだ。
確かに「泣く」「涙を流す」という反応は、個人差があるが多少なりとコントロールできてしまうから誤解や疑心を呼ぶことがある。

嬉しくての涙や感動して泣くことについてはどう考えればいいいだろうか。
私も昨日本を読んでいてタリーズで一人ウルウルしていた。

そのときに、読んでいた本から感じていた気持ちをあらためて書いてみると、頼もしさやありがたさ、仕事をキチンとしている人に対しての賞賛ということになる。
これらのことを感じて涙するということは珍しいことでもおかしいことでもないのは経験的にわかっている。
しかし、こういう涙にサインとしての意味や役割はあるのだろうか。

周りにアピールするメリットは何だろうか。
一人で外出していて、涙をあまり他人に見られたくないという防衛が働いていたのは涙が弱さを表すというマイナス面があるからだ。

アイデアのひらめきもストックもないのでここまで。

2011-10-27 08:00

カウンセリングは技術か、コミュニケーションか

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カウンセリングを教えたり、メンタルヘルス周辺に関わったりしていると、コミュニケーションそのものの問題や疑問に出くわす。
挨拶がどうとか、訊くべきことを適切な時に適切な言葉で訊くとか、服装がどうとか身だしなみや匂いがどうだとかいうようなことだ。

個人的には、例えばカウンセリングならば100%とまではいかなくても、可能な限りその中の要素を技術的なものとして扱いたい。
属人的な研究や考察はもちろん無意味ではないが、科学的ではない。
科学的ではないというのは、普遍的ではなく、応用が効かず、測定や記録ができないということだ。

しかし、深く、濃く、カウンセリングについて考えたり議論したりしていると、その内容がいつのまにか、挨拶やら、礼儀やら、ルックスやら、常識やら、最後には人間性さらには「人間力」のようなところまで行ってしまう。
確かにカウンセリングは、カウンセラー自身という要素を抜きにしては把握できない。

カウンセリングはカウンセラー自身との対決である | deathhacks

カウンセリングをトレーニングすることが、人間性の鍛錬や修行であってはいけない。
カウンセラーとしての実力を推し量ることが人間コンテストになってはいけない。

技術と思想の境界線はあいまいだ。
しかし、それを常に意識しながら、問いながらやっていくしかない。

2011-10-26 08:00

(参考エントリ)

あいさつをしなくてもいい | deathhacks

最初の1回1時間はアドバイスを禁ずる

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年配者をカウンセラーにするときには「最初の1回1時間はクライアントの話を聞くだけにしましょう」と教えると良い。

定年後の再雇用などで組織をリタイヤした人を再活用するという動きは多い。
その経験を買われての相談受け業務、そしてカウンセラーとして人材を使えないかという発想につながる。

カウンセラーとしてのトレーニングというと歴史や理論、細かな技術の学習から始めることがほとんどだろう。
しかしこれらはカウンセラーとしての現場実践に優先かつ必須のものではない。

人生経験豊富な人材にカウンセリングをごく短時間で教えるためのコツは「はじめの1時間はアドバイスをしないように」してもらうことだ。
人間は経験や体験がすでにあれば、他人をそこに当てはめたり同じような言動を強制してしまいがちだ。

経験豊富な人間の強みは何か。
その経験そのものにももちろん価値はあるが、変化が速くて大きい現代の悩み相談に対処するためには、その経験そのものではなく、それらを背景としたまた別の答えが必要だ。
単純に早く助言をするよりも、まずは経験豊富な者が批判や叱責をしないで話を聞いてくれるということが発するメッセージや安心感をクライアントに与えると良い。

他人の話、特に悩みや愚痴を聞いて、その相手に問題を指摘したり変化を促したりしないというのは難しい。
それは重々承知しているから、ここでのコツとしては自分の意見を言ったり、アドバイスをしたりすることを「最初の1回1時間だけ」は制限する。

このやり方で2回目以降につながったクライアントに対して、やっとこ本格的に腰を据えて対応していくという割り切りをする。
これによってカウンセリングや相談にわざわざ来たクライアントが「傷つけられて」しまうことをある程度予防できる。

プラスしてのコツは、キチンとシステムを作ることだ。
キチンとしたシステムと言っても重厚長大なものではなく、できるだけ続けやすく簡単なものを工夫する。

フィードバックの仕組みが必要だ。
受けた相談全件について、必ず複数人での「ふりかえり」をする。
内容としては1件につき5分間で良い。
「ふりかえり」は報告ではない。
その場の記録を残す必要はない。
カウンセラーとクライアントの守秘義務・契約を侵さない、集団としての守秘の取り決めと合意の上に行う。

この仕組みを回すためには心理カウンセラーとしての経験と力のある者がメンターとしてふりかえりに参加する。
メンターはカウンセラーまたはクライアントの重大な危険についてのみ気を払えば良い。
カウンセラーの上司としてセッションの責任を負ったり管理したりする役割につく必要はない。
カウンセリング自体はあくまでカウンセラー個人がまず第一に管理するものだ。

ふりかえりをすることには目的が3つある。
セッションを他人に対して話すことで自然に、整理と考えなおしをすること。
特に、アドバイスをしない約束事にしている最初の1回のカウンセラー自身のストレスを軽くすること。
そして、これらを通じてカウンセラーがクライアント体験をすることだ。

最後の「クライアント体験」については、理想としては実際に相談を仕事として受ける以前にしておく方が良いのだが現実的にはOJTとしてふりかえりの中で育てる形式になる。
こうした方針と意味の上では、メンターはトータルの時間はそれほど取られないが高いレベルが求められる。

2011-10-25 08:00

肌に張りがある、を定義すると

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肌に張りがるということはどういうことか。
どういった状態か。

女性が化粧をしたり、エステをする前後の違いを表現したりするような場面で使われる。
見た目として表現したり、比べたり。
触ってみての感覚としても確認する。

むしろ「張り」という言葉は触覚を表すときに使われる。
しかしそれだけではなく、例えば「最近仕事に張りがない」というように緊張感などを比ゆとして表すためにも使われる。

肌に張りがあることを定義するとどうなるか。

圧迫された時の反作用、反発力が高いことと考えればセンサーで測定できる。
定量化できる。

見た感じがツルツルとなめらかで、まるで膨らんだ風船のようだと人間は「張りがある」と感じる。
自然の中に元々ある、泡や水滴、表面張力、風で膨らみはためく布などを通して経験や常識的な感覚として、見た目から、触った感覚を予想・想像している。

もしも、肌に張りがある「ように見える」ことを目指すのならば、従来の化粧と同じように肌の細かい凸凹をより細かい粒子で埋め、かつ光が適度に反射するような状態を作り出せば良い。
そしてそれも光学的に測定することはできる。

何かを定義したり、分析しようと思ったならば、まずそこで使う言葉の意味を厳密に考えなくてはいけない。
そして、その定義をする意義を考え、目的を達成するために必要なことを導かなくてはいけない。
往々にして世の中の正解は一つではない。
定義が変わることもあるし、目的を果たすために端折ってもいいこともある。

考えぬかなくてはならない。

2011-10-23 09:00

結婚していることの評価

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結婚しているということは少なくとも一人の他者とは継続的にコミュニケーションできている可能性がある。
コミュニケーションが下手にみえる人でも、結婚していて別なある限定的な環境と人間関係の中ではうまく生きていたりする。
コミュニケーションがうまいよーとうそぶいていたり、良い人間関係とは何かと研究したりするよりも余程実践としては有用かもしれない。

2011-10-22 12:00